文学作品の中の羊羹
こんにちは、タビノネ Web担当Kです。
突然ですが、羊羹はお好きですか?
羊羹、私は好きです。より正確にいうと、文学作品における表現を通して、羊羹が大好きになりました。
文学作品の中の羊羹
実を言うと、それまで私にとって羊羹はあまり好きなお菓子の類ではありませんでした。
それにもかかわらず読書を通して羊羹を好きになった時は、つくづく、人間の形作る思考や世界とは言語でできているのだと思ったものです。同時に、文筆家の才を肌でもって感じられたことに深い喜びを覚えました。
夏目漱石や谷崎潤一郎、芥川龍之介、室生犀星、日本の文豪たちの羊羹をめぐる表現には、人に羊羹を食べさせたくなるほどの力があると思います。
今日は、そんな美味しい羊羹について言及した文学作品の一節をご紹介します。
夏目漱石『草枕』
「…菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 (ろうせき) の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。…」
玉や蝋石、青磁にたとえる記述は、骨董や古美術好きにもたまらない一節です。この記述をうけてのちに書かれる谷崎の羊羹礼賛に対して、やや透き通った印象を受けます。「別段食いたくはないが」、と書いてありますが、一周回って逆に少しわかるような。まるで美術品のようなお菓子は、食べればなくなってしまいます。美味しくないから食べたくないのではなく、その見た目の美しさと滋味のある美味しさを天秤にかけたとき、漱石においては前者がやや優勢ということなのだと私は思っています…。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。(…)だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融(と)けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」
一つの羊羹にも日本文化の精髄を練り込めた、谷崎の随筆はあまりにも有名ですね。漱石に影響を受けたこちらの一節にも、「ほんとうはそう旨くない」という記述が登場します。かえってこうした否定が加わることで、いっそうその前の羊羹批評が際立つように思えるのは私だけでしょうか。『陰翳礼讃』には、言葉の一つずつにおいても光と翳が絶妙な綾をなしており、漱石のものと比べると、こちらはより内省的で心地よい昏さを含んだ羊羹であるように思います。
芥川龍之介「都会で」「野人生計事」
「夜半(やはん)の隅田川(すみだがは)は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。―「羊羹(やうかん)のやうに流れてゐる。」
詩人S・Mとは、羊羹好きで知られる室生犀星のこと。隅田川でなくても、真っ黒に流れる川面をみるたびに、羊羹のことを思い出してしまいそうですね。
「或日室生は遊びに行つた僕に、上品に赤い唐艸(からくさ)の寂(さ)びた九谷(くたに)の鉢を一つくれた。それから熱心にこんなことを云った。『これへは羊羹を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである)まん中へちよつと五切ればかり、まつ黒い羊羹を入れなさい。』」
骨董や陶器を愛する室生と芥川のやりとりです。名のあるものこそ手に入れることは叶わない経済状況とはいえ、「或趣味にまとまってゐる」という犀星のコレクションから贈られた九谷の鉢にまつわる記述。谷崎が「塗り物」つまりくろぐろとした漆の器でその暗さを味わうのに対して、室生は華やかな色模様の九谷焼を羊羹の器にすすめています。読者のみなさまは、どちらがお好みでしょうか?特段に高価なものではなくとも、羊羹をいただくときの器にもこだわってみたくなる一節です。
秋の読書のお供に、美味しい羊羹を
ここまで羊羹にまつわる文学作品をご紹介してきましたが、これを書いているそばからなんだか羊羹が無性に食べたくなってきました…。
涼しさを感じる今日この頃。秋は食欲の季節でもあると同時に、落ち着いて読書をするのにぴったりの季節でもあります。
タビノネの羊羹は、真っ黒の闇、夜の川、というよりは光をきらきらと通す見た目で、より親しみやすい味わい。羊羹初心者の方にもおすすめのお菓子です。
文学作品を読みふけりながら、ぜひ羊羹を愛で味わってみてくださいね。