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死について(エッセイ)
1.永遠の死 / 一時の死
今日も必ず、誰かが死ぬ。
それはお茶の間に馴染んだ落語家か、往年の格闘家かもしれない。あるいは元気な声を聞いたばかりの恋人でも、長生きする気満々の両親でさえも、誰もが確率からは逃れられない。
2021年は7000万人が、世界から永遠に消えたらしい。
先進国を生きる我々は多分確率が低いんだろうけど。
死を望んで選ぶ人。
病魔の鎌を受け入れる人。
職場に慢性的な死因を抱える人。
今日は絶対に死なない、と信じる僕。
その誰もが、日割り20万の勘定に入るか入らないか。結局は確率なのだ。
さて。
今日も多分、僕は死ぬ。
紛れもない事実。一日平均のべ80億の死が、おひさまが駆け巡るのと一緒に世界を、蹂躙。
死ねなかった今日を悔やむ人。
病魔に微笑みかける人。
職場の無事故に胸を撫でおろす人。
明日も絶対に死なない、と信じる僕。
その誰もが、永遠に消えるまでもなく、一時的に死ぬ。
ふと恋人が手を伸べ、寝息を確かめたとして、それが何だろうか。
彼が彼自身を確かめられない数時間。
彼が世界から消えている数時間。
世界の中の彼は死なずとも、彼の中の彼は紛れもなく死んでいるのだ。
死を唯一知っている動物。にもかかわらず。
一体人間は、何に信頼を置いて睡眠を受け入れるのか?
世界から永遠に消える20万人と、習慣的に消える80億人。
一体我々は、何を根拠に後者だと信じ切るのか?
うーん。
書いていて眠気がしてきた。
ねぇ、難しいこと考えたって三大欲求の一つなんだから。寝ないと体に良くないらしいし。
確かにね。寝ないと死んじゃうよね。
ひとまず一回死んでこようと思う。
2.幼年の死 / 旧年の死
生き返った。おはよう、おめでとう、お目々が出とうよ。
そういえば、古いものが終わって新しいものが始まるとき、人は口々におめでとうと言う。
あけましておめでとう。誰が功労者でもないニューイヤーズ・デイ。
UTC+09:00の我々に、例えば2022年が訪れたとき、我々にとっての世界の何かが変わったのだろうか。
答えは、恐らくYESともNOとも言えない。我々が作り出したはずの旧年の「死」と新年の「誕生」を、しかしながら主体的に獲得する者は一人もいない。それでいて、年の生まれ変わりの瞬間に惹かれぬ者もやはり、滅多にいない。
年の生まれ変わりは、重厚でいて空虚なのだ。
重厚でいて空虚な生まれ変わりを観測するために、自分の生まれ変わりを我慢する人々で街は溢れかえる。
何故だろうか?
かく言う僕も小学校中学年あたりから、新年誕生の瞬間の目撃者となるべく、眠気を我慢していたクチだ(無論、試みはしばしば失敗に終わったが)。
丁度、一人で寝るのが怖くなくなったあたりの年齢。自分の一時的な死を、ある種理解し、ある種諦め、その傍ら世界の生まれ変わりにも触れてみたくなる。
ここでひとつ、思い出す。多くの人の死を見つめてきたある精神科医によると、死の受容過程は五つのフェーズに分けられるらしい。
「否認」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」の五つ。ちょうど子供が眠りを理解し、恐怖を感じなくなるまでの十年間に似ている。
寝なくてもいいのだと言い張り、むずかり、親が隣にいる保証を欲し、孤独な就寝への憂鬱に涙し、やがてそのネガティブを振り払う。遠ざけていた一時の死を、避けられぬものと悟る。夜と幽霊との関係だって、100%伝承の惰性とは言えまい。
やはり、就寝は永遠の死とどこか結びつき、潜在的な恐怖を纏い、生まれ変わりへの希望(信仰とも呼べるだろう)へと昇華されるのだ。
3.主観的な死 / 客観的な死
人は最初に一時の死を受け入れる。そして時間さえ与えられれば、最後に永遠の死を受け入れる。唐突だったなら、自らの死を真には受け入れないまま、永遠に消える。
一方で二つの主観的な死の間には、客観的な死がぶら下がっている。
僕は12と16で直系の親類を、20(今年の冬)には中高の同窓生を亡くした。それから最近、自国のトップとして長年見知っていた人が殺された。もっと直近、半世紀前のビートルズの曲にも登場する英国女王が死んだ。
二つの死の間にあるというのは、この目で見つめた疑いようのない死ですら、解釈が刹那的に揺らいでは砕ける。泣きじゃくり、声をかけ、微笑み、触れて、また泣きじゃくる。死の本質を受け入れた経験がありながら、永遠の死だけは絶対に体験できないからである。
親類や知人の死について、僕はまず報せが入って取り乱した。電話口に叫んでしまったり、友人を呼び出して側にいてもらったり。
葬式は、悲しみに包まれながら、楽しい瞬間も多い。皆、彼の死の受け取り方を真には決められぬまま、同じ心境の人々と一堂に会する一人、ひとり。
その場では皆、彼の死を「悼み」、一方で相対的に生を「祝う」。不謹慎さに慎重になりながら、決してそうではない。ある人はそれを故人の人徳と呼んだし、言葉を選びながら口々に感謝を述べた。
または「故人が遺してくれたものを受け継いでいく」という常套句、思い出の語らい、骨噛み等の風習。これらは全て、二つの死の間でぶらりと垂れた、他人との死別という事象に手を添え、曖昧なまま受け取ろうとする行動と言えるのではないだろうか。
つまり故人のために、という疑問符付きの観念よりもむしろ、自分が死別という事象を受け取るために必要な行為だ。
4.具体的な死 / 抽象的な死
死は一般的に、二度と会ってコミュニケーションを取れないという具体的なネガティブと、死別という事象がはらむ抽象的なネガティブをもたらす。就寝という一時的な死を理解し、旧年から新年への生まれ変わりを喜ぶ子供。それでも主観的な死への接近の恐怖を振り払えないまま、ネガティブで包まれた知人の死を何となく受け取る人々。そんな一般的な場面を目にするにつれ、僕はよりよい死との向き合い方があるよな、と思い至った。
無論、具体的なネガティブは時に抑えきれないほどの哀しみである。しかし死別という事象の抽象的な側面は、ネガティブでなくていいと思うのだ。
別に、死後何が残る、残らないとか、自殺や安楽死の是非とか、そのフェーズについて言及するものではない。だいいち、具体的なネガティブで十分に語りつくせるものを、無闇矢鱈と神秘的で、哲学的な観念に落とし込んだところで議論がややこしいだけ。オッカムの剃刀を思い切り、当ててしまっていいように思える。
だが、ある人の死そのものは、人間社会の1/80億だけを切り取った新時代の始まりに過ぎない。
まるで人の文化にいつの間にか根付いた暦の概念のもと、旧年と別れて新年と出逢うように。
その遷移までも、センセーショナルに飾り付けてしまう必要はない。
無味無臭の死を、彼を愛した分だけ悼んで、あとは新時代に生きるだけ。
僕が明日死んだとして、愛してくれた人たちにその再確認の場を設けてもらって、あとは新時代が来るだけ。
そんな安らかさを、人の死がセンセーショナルに飾られる出来事の多い今日だからこそ、僕は抱いていようと思う。
そのうえで、死別の具体的なネガティブ、絶対に会えなくなることの重さを共有して、向き合うのがいい。
とどのつまり、一時の死も、永遠の死も、本質的には年の移り変わりと同じである。
40年近く前のものだが、その観念を雄弁に語ってくれる歌がある。
Nothing changes on New Year's Day.
I will be with you again.
I will begin again... ーNew Year's Day / U2
今日も明日も必ず、誰かが死ぬ。
今日も明日も大方、誰もが死ぬ。
僕や皆それぞれの、新時代が始まる。