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社会変容における記述の読み方
昨今は時代のスピードが速い、という。宇宙物理学の観点からいえば、光速の何十パーセントというスピードで移動していないと起こりえない現象だ。30年ばかりの超音速では到底敵わない(Oasis 30周年おめでとう)
しかし、僕は確かにそれを観測したのである。大学図書館でのことだ。
大学図書館にて
僕は半分自分の専攻(地域経済学)に関連して(とはいえ実のところ半ば趣味のために)、都市社会学関連の専門書をよく漁る。
通っている大学が都市科学部というジャストミートの学部と、都市社会共生学科というこれまたストレートど真ん中な学科を備えているため書棚は充実していて、「アーバニズム」「エスニシティ」「グローカル」といったキーワードが並ぶ。ふむふむ…ざっと一瞥した後、次にどれを手に取るか決めるわけだが。
困ってしまった。社会の現状を正確に描いている書籍が、果たして何割あるのかという疑念が浮かんだからである。
無論、著者達の力量を咎める疑念ではない。1学生、それも片手間のような初学者がそんな傲慢なこと。考えるわけがない。よしてくださいよ。
あるいは「社会の現状を正確に描いている書籍」が存在する、という命題だってそもそも、さして意味がないのではないか。
人文社会系は概して難儀な学問だ。生活者として対象と利害関係にあるうえ、思索と表現そのものが対象を歪めてしまう危険性もある(例として報道が報道批評をする場面について、想像してみてほしい)。記述者が主体であれば(注、人間でなくとも。きっと「主体」であれば必ず)偏りが生まれる。
まぁ、いいや。一度棚に…書棚の天板のさらに上に上げておこう。そして記述そのものが宿命的に主観的な営みだという小学生的屁理屈までをこのさい清算したところで、改めて書棚を見渡してみよう。
…やはり疑わしい。賞味、いや消費期限の間に合っているものが見当たらないのである。そんな、僕んちの冷蔵庫じゃあるまいし。
社会変容で記述は風化する
静的な記述と動的な「時代の流れ」との関係は、社会変容に照らした風化のスピードとして表出する。
例えば、「もはや戦後ではない」という言葉がある。1956年の論評に登場し、流行語にもなったフレーズだ。
語義の性質上、時代区分としての戦後は終わらない。終われない。終わってはならない。日本国憲法にいわせれば半永久的である。
一方で、日本語の戦後という言葉には連合国への敗北感や体制の急変による混乱、慢性的な貧困といった含意がある。そのイメージが1956年には実情と嚙み合わなくなっていた。少なくとも戦前と同水準までの回復を達成した以上、現在を記述する語としての「戦後」は違和感を孕んでしまった。対日占領政策の転換や朝鮮戦争特需、人口ボーナスを背景とした経済復興が「戦後」を10年そこらで風化させたわけだ。
同じように…いや、記述の風化は確かにスピードを上げている。
2024年においては、たった5年前の書籍ですら史的現在への錯視を自覚しなければならない。進行中のイベントとして著者が描いた社会と、読者である自分が身を置いている現在の社会とのズレに注意しなければいけない。
2024年から5年前、こうして年号を書き出せばピンと来る人も多いだろう。犯人の一つはコロナ禍である。
コロナ禍への呼応として世に発布されたワードは沢山ある。行動変容、ソーシャルディスタンス、テレワーク、おうち時間、黙食…流行が平準化するにつれ、これらの中には根付かずにフェードアウトしたものもあるが、深く根付いたがために語としてのインパクトが失われたものもある。後者が社会的変容のコアといえよう。もはや「おうち時間」は代替案ではない。もちろん、コロナより息の長い緩やかな社会変容にもマッチしていたし、元々好んでしていた人の割合も小さくないだろう。しかし、一度メディアやSNSを通じ命名の合意を得て、そのうえで区別して呼ぶ必要が無いほどに特別感が薄れた、というプロセスには注意すべきだ。
パンデミックが引き起こした不可逆的な変化。パラダイムシフトというやつである。
パラダイムシフト、なんて仰々しい現象を経ておいて、それ以前の記述を手に取ることに意味はあるだろうか?それはもはや、歴史学ではないだろうか。
引くべき2つの補助線
風化してしまった現代社会の記述たちは、歴史書へと変性してしまったと言えるだろうか?
コロナ禍は2020年代を生きるすべての世代に、パラダイムシフトの実体験をもたらした。その経験は歴史上の事実からでは到底得られない知見を多分に含んでいる。
パラダイムシフトを直訳すれば、規範の移行であるが、この語義は極めて示唆に富んでいる気がする。
規範とは車線のようなもので、すなわち規範の移行は車線の変更である。左車線と右車線とを隔てる白破線は決定的であり、どっちつかずはあり得ない。ある車は左に、ある車は右に、「いる」。
ところが自分で運転することを(僕は免許を持っておらず、素人目線で恐縮なのですが)想像してみると、白破線を数秒かけて跨ぐのである。
すなわち規範の移行は、結果を傍から見ると断絶を伴うが、渦中にいる主体にとっては時間の幅を持っていて、それもまた状態の一つ、というわけだ。
そうした目線でもう一度、図書館の書棚を覗いてみると、過去と現在との解消不可能に思えた断絶も、補助線を引いて繋げなおしてやることができると気づく。
引くべき補助線は大きく二種類あると僕は考えた。モチベーションと物量だ。
モチベーションは人々の意向の表出だ。困ったことに、人々は意向に自覚的だったり無自覚的だったりするし、それは自分の資源の多寡や環境の有無で変わってくる。人々は意向をもって決断するのにモチベーションを必要とするが、どの種類のモチベーションを誰が持つのかという問いの答えは人々の持つ資源や環境の様子に大きく左右される。言い換えるなら、誰がどの種類のモチベーションを持っているかにアンテナを張ることで、人々の持つ資源や環境の様子を把握する手掛かりが得られる。
社会的変容とは、人々の持つ資源や環境の様子の変化の総量であるから、モチベーションの把握という補助線は三段論法的に変化の把握に役立つ。
物量はモチベーションも含めて、全ての活動を規定する要素だ…というのは自明かつ無意味な言及に聞こえるが、重要なのは存在する物量がもれなく0(無)でも1(全)でもないというポイント。これを誤認すると、「規範の移行」が総じて0から1への不連続な変化であるという誤解まで導出されてしまう。
変化によって顕在できるのは、変化前まで潜在していたものだけだ。ここで僕たちは、顕在した様々な物事が、変容前までどこに潜んでいたかを調べ、年表の上に補助線を引いてやらねばならない。1と思えるまでに大きくなる以前にも、0でなく存在したことを認識せねばならない。
社会変容によって大きく変化したモチベーションや物量が、増える前どこにいたのか、あるいは減った後どこへ行くのか。それは、「規範の移行」の本丸とは別にとらえるべき事項である。
例えば、「おうち時間」について
ここで「おうち時間」について、二つの補助線を引いてみようと思う。
「おうち時間」の語としての流通は感染症拡大の防止を目的としたもので、余暇の消費活動として常識的もっと言えば自明的な「おうち以外時間」への代替案であった。
しかしコロナ禍が明け(てはいないが、平準化し)てみれば、並行する技術の進歩や企業のマーケティングの変化も手伝って、「おうち時間」そのものへのモチベーションも十分に大きいということがわかった。逆に外出が徐々に解禁されて行っても、モチベーションの改めて湧く部門もあれば、さして湧かない部門もあると明らかになった。
例えば、僕には聴覚過敏気味の友人がいる。彼女は大好きなコンテンツの公演イベントにリアルタイム参加したいのに、現地の客席でもれなく体調を崩すというジレンマを抱え、大抵の場合参加を諦めていた。つまり、ライブイベントを「おうち時間」として消費するモチベーションがあったにもかかわらず、公演イベントは現地開催であるという常識によって顕在しなかった。
一方で、企業側のモチベーションについても顕在化していなかったに過ぎないといえる。映像を配信するという技術は十分に存在したし、個人から大規模イベントまで、その技術を活用する場ももちろんあった。結果論でいえば公演のオンライン配信も定着している。
つまり、公演イベントのオンライン配信は生産、消費ともにモチベーションが潜在し、それを可能とする技術や技術を活用する事例という物量もあったわけだ。
さて、コロナ禍が到来すると、現地参加を常識とする公演活動は大打撃を受けた。場所代だけでも馬鹿にならない経費のかかる世界だ、採算を度外視できるものではなく、かといって全てを白紙にしては収入源が失われる人もたくさんいる。打開策が必要だった。
アーティストで先陣を切ったのはBAD HOPというヒップホップグループだったような気がする。予定していたワンマンライブが中止を余儀なくされるも、代替案として彼らは予定と同じセットでの無観客ライブを敢行、YouTubeライブで生配信した。もちろん彼らは多額の負債を被ったそうだが、コロナ禍における方法論の構築は偉業である。(参考:BAD HOP、無観客の横浜アリーナから世界に届けた希望「俺たちは止まらねえ」(音楽ナタリー))
あるいは僕の好きなGLAYというロックバンドも、Live at homeという無観客、小規模ライブをシリーズとして始動し、徐々に収益化していったりしていた。(参考:GLAY app Presents PREMIUM ACOUSTIC LIVE Vol.04 LIVE at HOME』〈ライブレポート〉、同ライブ企画第5弾の配信も決定!(公式HP))
会場側も必要が発明を生み出している。大阪の梅田Lateralというトークライブハウスは何と、コロナ禍真っただ中の2021年4月に開業しているが、ここは最初から「ライブイベントの配信に特化した機材を完備」し、「日々状況が変わるこのご時世で…現場の素晴らしさと、イベント企画・運営の在り方を模索し更新」し続けている(ともに公式HPより引用、一部略)。
こうした困難と試行の積み重ねの結果が、有観客に戻ったうえでオンラインチケットも販売するというスタイルの定着。友人もたびたび購入し、「おうち時間」にそれを楽しんでいるようだ。
もちろんコロナ禍による混乱期における代替案としてのオンライン開催は、徐々にオフラインへと復帰しつつあるが、コロナ禍を経たことで顕在化した需要と供給はそのまま市場として根付いたわけである。「おうち時間」への生産消費双方のモチベーションが明らかになった以上、もはやコロナ禍とは無関係にある程度の規模を維持していくだろう。
逆に適切な補助線を引いてやらないと、「変化前には存在しなかった」「変化を直接の原因として発生した」という0と1の解釈しかできず、変容前の記述が変容後の社会においてただの歴史的事実と化してしまう。「コロナ禍が『おうち時間』を生み出した。コロナ禍以後の世界には『おうち時間』が存在し、以前には存在しない。ゆえにコロナ禍以前の記述は以後の社会にとって、もはや無意味である」という風に…
「記述」に対して僕らができること
だから、社会についての記述は多少古くても、価値を持つ。正確には、僕らが手に取って価値を吹き込み続けることはできる。
ある社会変容前の記述を手に取るとき、どうすればよいか。
社会変容後に生きる主体として、記述と関連する事柄や相違点をまずは観察する。そして記述に目を通し、相違点が誰のどんなモチベーションといかなる物量の変化を経たものか洗い出す。その変化は、確かに社会変容をきっかけに発進、加速したかもしれないが、果たして社会変容前のどこに潜在していたのか。あるいは逆にこれからどこかに潜在してゆくのか。その潜在の燻っていた証や顕在していた様子を読み解けば、記述は今と異なる世界というよりむしろ、今の世界の原材料として映るだろう。
書棚の本に詫びを入れて、手に取ろう…の前に、棚の天板の上に上げておいた「社会の現状を正確に描いている書籍」が存在する、という命題を拾いなおしておこう。
記述者が主体であれば必ず生まれる偏りについても、同じように対処できるはずだ。誰のどんなモチベーションで、いかなる物量の状態において記述されたのかを書き込んでやれば、社会のこの側面にズームインしたのだろうな、という解釈ができる。一見、自分のいる世界と無関係に感じたり、支持したいと思えない論調だったりしても、適切な解釈によって社会の(空間的にも時間的にも)より広い範囲を捉えて判断するための参考資料に化けるだろう。
命題の解は、僕らの作業次第で真に偽にもなる、といったところか。言い換えるならば、社会の現状を正確に描く絵筆は解釈をする読み手のものである。書籍や記述の一文一文は画材の役目をしてくれるに過ぎない。
社会変容のスピードは概して増している。コロナ禍や戦争、物価変動や異常気象など、原因と結果とが互いを絡め取りながら、僕らを振り落とさんばかりに加速しているし、止まることはないだろう。
常に全ての事柄をリアルタイムリポートしてくれるメディアが仮にあったとして、状況を咀嚼するには不十分だろう。変容には先立つものがあり、それを理解しなければ変化という状態の解明には到達しない。
先立つものを理解するには先立つ記述を読めばいいのだが、もはや現在の記述とは呼べないかもしれない。そのギャップは、一度書かれたら更新されない書籍というメディアの宿命である。
だからこそ、知識や想像力を総動員して適切な補助線を引いてやるのが読み手の仕事というわけである。
偉大なる先人たちに責任転嫁しようとした失態の、すんでの反省文である。