とまどう狂信者――森達也『A』について

A とまどう狂信者

 なぜ、オウム真理教・広報部長の荒木は、一連のオウム真理教によるテロや殺人が明らかとなり、裁判が始まっても、家に帰らず、謝罪もしないのか。それが、この映画を観る「市民」的な問題意識であろう。

 その問題提起に、私なりに簡潔に答えるならば、それは、誰ももはや彼の言葉を、彼の言っている通りに聞いてくれないからである。カメラを向ける森達也に、地下鉄サリン事件をはじめとする一連の事件がオウム真理教によって引き起こされたことを認めるか、と問われ、荒木は言葉を濁す。

 このとき、注意しておかなければならないのは、彼は教団施設に閉じこもっていて裁判内容を知らないわけではまったくない、ということである。未だ麻原の「マインドコントロール」の呪縛から(「洗脳」というような世間的に想像される意味で)脱し得ず、外界から隔絶されているわけではない。

 彼は、おそらく誰よりも(といっていいほど)一連の事件の報道を確認している。テレビは複数台で視聴してニュースを追い、週刊誌にまで目を通す。オウムに取材した単行本も、取材に基づいたドキュメンタリー的なものから、卑俗でゴシップ的なものまで、教団施設内に流布していて、信者たちが回し読みしている。そのことを、カメラは映しとっていく。

 信者たちの生活には、冗談や笑顔も絶えない。そこには「マインドコントロール」を受け、厳粛に孤独な生活を送っているというカルトに対する偏見は誤りであることが示される。

 では、なぜ荒木は、報道の内容を熟知していながら、事件があったという事実を認めることをためらうのか。

 そう森に問われ、彼は、事件の事実をひとつ認めると、すべてを認めなければならなくなってしまう、という不安を語る。彼が事件への麻原や教団幹部の関与を認めることは、即ち信仰の放棄を意味してしまうのではないか、と。

 ここで意識されているのが、彼の内面における信仰の維持ではないという点に注目する必要がある。どういうことか。

 信仰は、何よりも内面的なものである。個人が内面において、いかなる思想や信条を持っていても、それは自由だ。しかし、信仰は、基本的に隠されるものではない。むしろ、戒律に基づいた服装や行動(礼拝など)によって、信者たることは、社会的に明らかにされる。

 そして、特に荒木は、広報部長という立場であることも相俟って、世間にオウム信者の代表格として扱われている。彼は公然たるオウム信者であり、いわば顔の見える狂信者であるのだ。

 荒木は、その責務として、数々の会見で教団の顔として表に立ち、警察やマスコミとの交渉まで行っている。そのなかで、彼がオウム幹部たちの事件への関与を認めることが持つ意味、いや「持たされる」意味について、彼は慎重にならざるを得ないのである。先に述べた「信仰の放棄を意味してしまう」とは、荒木にとって、というより、「世間が、荒木は棄教するものとして受け取る」という意味において理解しなくてはならない。

 なぜ、彼はかくまで、「慎重にならざるを得ない」のか。それは、彼が「社会」とのコミュニケーションの不可能性を痛いほど感じさせられているからだ。

 マスコミは報道の自由と称して信者たちの生活空間に侵入し、警察は職務と称して不当に暴力を行使して逮捕権を濫用し(警察が公務執行妨害の容疑を捏造して信者を不当に逮捕・勾留するシーンは衝撃的である)地域住民は安全と常識を語って謝罪を要求する。

 彼らは、オウム信者を抹殺し殲滅することが、同じ「悲劇」が繰り返されることを防ぎ、街の「安心と安全」につながると言う。だから、オウム信者には起訴事実の有無があろうとなかろうと、人権を認める必要などないのだ。狂信者は早く根絶せよ、と。

 信者たちは、彼らの言動がすべて歪められて受け取られることを痛感している。マスコミと市民は「謝罪」を要求して、警察は「屈服」を勧告する。既成の社会秩序の維持と、彼らの正義と常識の正当性を確認して、「安心」したいのである。そして、裏を返せば、その「安心」を揺るがす者はすべて社会の敵である。

 そのとき、コミュニケーションを遮断しているのはどちらか? ほんとうにカルトの輩には何を言っても無駄なのか? 対話を放棄しているのは信者たちの側なのか?

 しきりに、「世間の」人々は早く親の元に帰ってやれ、という。信者に帰る場所を与えること、すなわち広い意味での家族制度に回収し直すこと(=「社会復帰」)が語られる。荒木に対面した、「オウム真理教被害者の会」の会長が、荒木に告げた「たったひとつのお願い」は、荒木が自ら家族に無事と健康を伝えてほしい、ということであった。元気でやっている、と一言でいいから、あなたのお母さんに言ってやれ、と。

 つまり、家に帰るための一歩を踏み出せ、というのである。荒木は「出家」ののちも、家族と連絡を遮断しているわけではない。そこに荒木の信仰と実践の不徹底を指摘することもできよう。しかし、家族との対話という意味でも、荒木が母親のメッセージを受け取り、外部とのチャンネルを断ち切ることなく、保持しているという点にこそ目を向けるべきである。

 「家族が嫌いになったから出家したわけではない」。むしろ、修行に身をささげることが、親に与えられた自分の生を全うすることになるのだ、と荒木は語る。彼は彼の家族(という個人)に反逆しているのではない。「家族のために」、「家族(の一員)として」、「(ほかの)家族と同じように」生活することを強制するところの「家族制度」に対して、「出家」という形で(消極的に、かもしれないが)反逆しているのである。

 映画は、荒木が山科の信者のもとを訪ね、情報交換をしたあとで、祖母の家のある丹後に足を伸ばして出迎えを受け、そしてまた祖母に見送られながら、電車に乗り込んで帰っていくところを淡々と映し出して幕を下ろす。

 荒木は、結局肉親の情に折れ、家族制度に屈服したのだろうか。「社会復帰」の一歩を踏み出した、ということなのだろうか。おそらくそうではない。彼は、今後も丹後の祖母を訪ねていくだろうが、そこに安住することもしないだろう。母との関係と同じように、個人的な関係は維持されつつも、制度が規定するところの関係と義務からは徹底して逃れようとしていくに違いない。

 この映画では、事件後にオウムの顏として対応に当たった男の視点から外部を捉え返すことで、社会やそこで流布する通念(たとえば、「カルト」「家族」あるいは「正義」といった観念)というものが徹底的に異化されている。

 未見ながら、荒木のその後の歩みは、続編の『A2』(2002)、そして、さかはらあつし『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』(2020)で描かれることになるだろう。これらの映画では、事件からの時の流れによって、荒木浩という人間の、そしてカルトという問題系の、また別の相貌を浮き上がらせるであろう。しかし、『A』で映し出された荒木の葛藤と、社会のヒステリックな反応は、ここでしか見ることのできない問題であるに違いない。

 オウムが社会に突きつけた問題というのは、アングラなオカルティズムの跋扈でも、日本の防犯体制の不備でもなく、もはや市民同士でさえ、家族同士でさえ、コミュニケーションが不可能となった事態であった。そして、その事態は、狂信的なカルト教団が陰謀論めいた支離滅裂な主張をしていることに起因するのではない、のではないか。「狂信的」な信仰を持っているのは、「狂信的なもの」を「狂信的」だと断じる側ではない、と誰が言えよう。

 そのことを、オウム真理教や荒木浩という個人を信仰するでもなく、しかし市民的な、警察権力的な、マスメディア的な問題意識を「信仰」することもできない「不信心」なる市民(それが「非常事態」下では、「非国民」などと罵られることになるのである)森達也が淡々とドキュメンタリー映画として、記録していくのである。

B とまどう観察者

 ドキュメンタリーを撮るにあたっての鉄則は、取材対象に介入しない、ということである。介入とは、演出であり、ヤラセである。それが意図したものであろうとなかろうと。

 (この「鉄則」は理念でしかあり得ず、問題はより深く理論的、あるいは実践的に考察されなければならないし、ノンフィクションや人類学といった隣接領域を含めて、実際に膨大な議論の蓄積があるが、それは一旦措く)

 このドキュメンタリーの原理・原則――二項対立の狭間において、あるいはグレーゾーンにおいてどちらに与するでもなく淡々と記録せねばならない――という不文律が、揺らぐ事態が発生する。その緊迫したシーンが、この映画をいわばメタ的なドキュメンタリー映画たらしめている。

 それが、先にも言及した、警察による不当逮捕の現場に森が居合わせそれを撮影したという事態である。森のカメラは、警察官が、荒木と歩いていた別の信者の男性に、明確に標的を絞り、職務質問と称して身分証の提示を求めつつ、挑発をくりかえし、ターゲットが逃げようとしたところで、自ら転び、公務執行妨害で現行犯逮捕するという、ポリ公様のお家芸、いわゆる「転び公妨」の一連のプロセスを捉えた。

 しかし、このシーンが愚劣であり、そして酔狂なBGM(むろん、戯画化を意図した作品上の演出として)と相俟って滑稽でさえあるのは、警察官が完全に信者を押し倒して、折り重なるように倒れ込むという、「転び公妨」ならぬ「転ばせ公妨」の一部始終であったからである。

 倒れたあと、信者の男性は路上に頭を打ち、その上に完全に警察官が折り重なるようにして倒れ込む。その体勢と位置関係だけで、どちらが「転ばせ」たかは、明らかである。頭を打った男性は、しばらく動けない。

 一方、その横で、恰幅の良い、いい年をした警官は、なぜか足を引きずって「イテテテテ」などとやっている。街の安全と安心を守ってくれる、われらが正義の味方が、斯くまで軟弱であったとは残念である。

 すると、「公務執行妨害だな」と、取り巻きの警官どもが、大根役者のように口を合わせて言う。すべてはシナリオ通りである。映画に出演するからには、警官諸君にはもう少し、洗練されたシナリオと演技を望みたいところである。

 カメラは、不当に拘束され、身柄を送致される男性と、ぶざまに足を引きずって、仲間の肩を借りながら警察車両に乗り込んでいく哀れなる警官の姿を映し出す。不健康に痩せこけたカルト教団の狂信者に、足をへし折られるなんて、警察官もやりきれない仕事である。

 しかし、現場では笑ってなどいられない。居合わせた荒木らを中心に、救援活動が始まる。今後、起訴されるかどうかが焦点だ。起訴されれば、日本では、99%以上の確率で有罪となる。荒木らと対応を協議するオウム側の弁護人は、すでに逮捕歴のある男性は、送検された場合、有罪となり、執行猶予もつかない可能性が高いという。

 ここで、森もまた、選択を迫られる。逮捕の一部始終を撮影した映像は、男性の無実のなによりの証拠である。何人たりとも、警察の大根芝居を観て、これが公務執行妨害であるとは口が裂けても言えまい。

 だが、撮影者はこれをドキュメンタリーとして作品化するために撮影している。ドキュメンタリーの鉄則はすでに述べたとおり、取材対象への非介入である。対象への介入は、不当な(ときには非倫理的な)演出となりうる。逮捕が不当であるとはいえ、この取材テープをオウム側(正確にはオウムを支援する弁護士)に供託することは、オウム真理教側の(救援)活動にコミットすることにもなる。

 この相克は深い。しかし、最終的に森達也は、このテープを弁護士に供託することになる。冤罪の発生をなによりも防ぐべきだ、というのがその根拠であった。その正否は問わない。

 ただ、あえて意地の悪い見方をするなら、このあとも、撮影を続ける上で、そうするしかなかった、とも言えるであろう。冤罪の仲間を、ドキュメンタリー撮影の倫理などという、撮影者の側の理屈で見殺しにされたとなれば、森とオウム信者たちとの信頼関係は薄れる。

 反対に、証拠映像を提供したことは、いわば「恩を売った」ということになる。それは森が打算的に、供託を行った、ということではない。結果として、この行為がそうした「意味」を持たざるを得ないのである。

 この事態は、どう転んでも、撮影者と撮影対象の関係を変質させずにはおかなかったのである。その抜き差しならぬ事態に直面しうる緊迫感というものが、――不当逮捕の一部始終という重要性、緊張感とは異なった意味で――この映画において、そのあとの場面のトーンを形成することになる。

 あえて言うなら、荒木のプライベート(家族との関係からこれまでの女性経験に至るまで)に関する、内面的な個人的な質問は、この不当逮捕事件をめぐる「共闘」こそが可能にしている。厳然とした撮影者と撮影対象という関係性を超えた連帯性のなかでしか、他者の内面へ踏み込むことは不可能である。この作品はドキュメンタリーの禁忌を踏み破ることで、きわめてドキュメンタリー的な――個人の静かな内面性に分け入る――映画となりえたのである。

 この作品を観た観客もまた、あまりにステレオタイプと異なるカルト信者と、あまりにナチュラルに教団施設に出入りして彼等と話をするドキュメンタリー作家に、とまどうほかない。

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