接触の風景
ある日の朝、珍しく早起きしたので散歩に出かけた。晴れ渡る空で、前日が雨だったせいか地面から靄が立ち込めていて何とも幻想的な空間だった。
日が当たると暖かいが、風が冷たい。その時の空気感を肌で感じながら川沿いの道を歩く。
地面がアスファルトから草地、土、砂利道と変わりそれぞれの感触を味わう。アスファルトは歩きやすいが、一定の部分に負担がかかりやすく長時間歩くのはお勧めしない。少し凸凹した山道のような場所は歩きにくいかもしれないが、足裏から色々な刺激や情報をもらうので気付きがある。
疲れ方も違う。山道は遊び尽くした後のぐっすり眠れるような心地よい疲れ。これは結論から言うと全身を協調させて使っているので、全身疲労が出てくる。これに対するは部分疲労。現代では部分疲労が多いため(アスファルトの舗装で同じ部分に刺激が多くなったり、液晶画面による目の疲労、考える事が主になりすぎる頭の疲労など)、寝つきが悪かったり、不調感が出てくる事がある。つまり、ぐっすりと眠りたいのなら全身を使って動いた方がいいのである。
話が逸れたので戻そう。
川の流れ。いつもより速いように感じる。いつもは遠めに見るだけだが、珍しく近くまで行き、川に触れる。川は冷たく、しかし暖かかった。
鳥のさえずりが聞こえる。何種類もの声に触れる。
耳を澄ます。時間とともに朝の静けさは失われ、生き物が動き出す(自粛の中で車は少ないはずだが、それでも静かなにぎやかさを感じる)。
「接触」は私にとって大きなテーマである。
朝の散歩について書いてみたが、その中にも接触はありふれている。
地面との接触。
空間との接触、朝もやの質感。
音を聞くという振動との接触。
川との接触。
つまり、ほとんどの事が接触をとおして行われる。
接触は自己を外界をつなぐもの。
武術稽古の時に、相手とぶつかる事が何とも嫌だった。
対立、衝突といってもよい。
衝突からは対立が生まれる。
こうなっている時は大抵、無駄な力みが入っている時。肘や肩、首、胸、腰、足。部分的に力んでしまって詰まっている事が多い。相手との接触の時に、いかに力感を出さずに力やエネルギーを伝えるか。この点を考えるだけでも非常に面白い。
例えば、皮膚を引っ掛けたり緩めたりするだけでも力の伝わり方は大きく変わってくる。肌で感じるとはよく言うが、外の世界との接触を通して何かを感じさせてくれるのが皮膚なのだと思う。
私は、武術稽古の意味での皮膚は『力の伝達役』だと定義している。
いくら大きな力を出せても、それを相手に伝えられなければ全く意味がない。
仮に100の力を持っていたとしよう。それが相手に伝わるまでの動きの中で10、20と減っていき、最終的に相手に伝わった時には30まで減ってしまっている。後の70はどうなってしまったか。前述した無駄な力みである。
こうなるよりは、50の力を持っていてそのまま50を上手く伝えるほうが効率的である。もちろん、そうは問屋が卸さないのでこれを稽古していくのではあるが。
皮膚感覚を育てる事は、周りを感じる力を育ててくれる。
接触は「入り」かたも関係してくる。
『柔らかく入る』
硬いもの、柔らかいもの。
木や石などは捉えやすいが、水は捉えにくい。
自然界に目を向けてみると違いが見えてくるかもしれない。
人でもそう。
例えば、頑なに自分の意見を堅持している場合を考えてみる。これはある意味で心の無駄な力みである。相手の意見も聞かず、ただ自分の主張を繰り返す。これには相手も辟易してしまうだろう。これが武術的な事になると、無理に力で押し通そうとして結局相手に嫌だと対応されてしまう。硬さである。
柔らかさは相手の意見も聞きつつ、自分の意見も素直に言える場合。この素直が重要。素直さは通りやすい。武術的な事に置き換えると、柔らかく入る事は衝突しない入り方。ぶつからない動きと言ってもいい。衝突、ぶつかる動きは相手の反応が出やすい。反応が出ると、対処されてしまう。これでは力の通り道は分断されてしまう。柔らかく、衝突しない入り方は、相手の反応が遅れて後手にまわる。結果として自分の力が相手に入りやすい流れとなっている。
柔らかく入るとは寄り添う事である。
寄り添うことと寄り掛かることは違う。
寄り掛かることは依存している。
自立していて初めて寄り添うことができる。
そして、自立して初めて繋がりが生まれる。
依存からは癒着が生まれる。
接触の捉え方一つで大きく変わってくる。
私は自立して繋がりを持つ接触を探究していきたい。