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「車でお遍路」第33番札所 雪蹊寺(長宗我部家の菩提寺)
こんにちは、旅いこかです。
四国八十八箇所巡礼、弘法大師との「同行二人」の旅、33番目のお寺は、
高福山 高福院 雪蹊寺
32番札所の禅師峰寺から約11.2㎞、車で約20分の場所、
32番札所の禅師峰寺から海岸線を走り、気分が高揚するかのような浦戸大橋を渡ると坂本龍馬像のある桂浜に寄ることができる。
そして、素晴らしい太平洋の眺望を横目に走ると、その先には戦国時代の土佐藩主である長宗我部元親公像のある若宮八幡宮、そして少し走ると住宅街に静かに佇む雪渓寺に到着する。
では、長宗我部家の菩提寺「雪蹊寺」へ参りましょう。
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ご詠歌
旅の道 うえしも今は 高福寺 のちのたのしみ 有明の月
お参りする前に知っておいた方が良い知識
歴史
弘仁6年(815年)、この地を巡錫中の弘法大師は、「少林山 高福寺」として真言宗寺院を開基
鎌倉時代(12世紀後半-1333年)、大仏師運慶親子が御本尊となる薬師如来像を彫り安置、「慶運寺」と寺号を改称
その後、廃寺となる
天正年間(1573-1593年 )後期、長宗我部元親公が月峰和尚を招き復興、臨済宗に改宗
慶長4年(1599年)、元親公が病没後、長宗我部家の菩提寺となり元親公の法号に因み「雪蹊寺」に寺号を改称
明治2年(1869年)、神仏分離令の廃仏希釈により廃寺となる
明治4年(1871年)、隣接地に長宗我部元親坐像を神体とした秦神社を建立
明治12年(1879年)、山本太玄和尚が再興して現在に至る
歌詠み幽霊伝説
かつて、廃寺となっていたこのお寺では幽霊が夜ごと現れて人々に怖がられていた
その幽霊、歌の上の句を忘れたために成仏できなかったのだという
そこで、その噂を聞いた月峰和尚は、荒れ果てたお寺に住み込み、幽霊にあって上の句を詠みたいと申し出る
夜も更け、月峰和尚が座禅を組んでいたところ、
幽霊が突然境内に現れ、泣きながら「水も浮世というところかな」と詠んで消えた
翌日、また現れ同じ下の句を詠んだので、月峰和尚は「墨染めを洗えば波も衣きて」と上の句つくって詠んだところ、それ以来幽霊が出なくなったという
この話を聞いた長宗我部元親公は、このお寺の再興を月峰和尚に託したという
寺号について
山号、院号については、弘法大師が開基した際の寺号「高福山 高福院」
寺号については、上述歴史の通り元親公の法号「雪渓如三大居士 雪渓恕三大禅定門」の一部をとり「雪渓寺」
ご利益
眼病平癒
御本尊の薬師如来
・・・大医王仏、医王如来とも呼ばれ、十二誓願の現世利益の仏さま(病気平癒、他)
御本尊・ご真言
御本尊:薬師如来
ご真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
知識と見どころ
〔知識〕
四国霊場では珍しく真言宗ではなく臨済宗(臨済宗は、11番札所藤井寺と雪渓寺のみ)
「南学発祥の道場」といわれ、優れた儒学者を数多く生み出している
中でも、雪渓寺で出家した山本玄峰老師は、戦時中に当時の鈴木貫太郎総理に終戦を勧め、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言
後に終戦の玉音放送の言葉となったという また、天皇を「国家の象徴」と定義するよう発案失明に近い眼病を患い、回復を祈願して裸足でお遍路をしていた山本玄峰老師は、7回目の雪蹊寺通夜堂で太玄和尚に出会い心眼を開くことが出来、晩年までには17回お遍路結願をしたことでも有名
〔見どころ〕
本堂
・・・御本尊に薬師如来を祀る霊宝殿
・・・御本尊の薬師如来像を含め仏像全16躰の重要文化財を所蔵する
おまけ情報(備考)
雪渓寺の近くには長宗我部元親公合戦の度に戦勝祈願したという若宮八幡宮があるので、時間があれば立ち寄りたい場所。
![](https://assets.st-note.com/img/1649383900595-7RyTi68xmk.jpg?width=1200)
写真
次は、第34番札所種間寺へ参ります。
2022年4月8日投稿
2022年9月22日改訂
合掌