子どもを叱ることについて
今回は、賛否両論ありそうですが、ふと考えると気になる「叱ること」について書いていきたいと思います。
叱るとは、相手の非を指摘、説明し、きびしく注意を与えるという意味です。
腹を立てているわけではないので、怒るとはずいぶん違います。
ですので、優しく叱るという行為も存在します。
叱る=怒鳴るということではないので、それを前提のこの記事をお読みください。
怒ると混同している大人や子どもも多いので、念のため書いておきました。
では、本題に入っていこうと思います。
先に書いておくと、私は、必要とねらいに応じて叱ることは、必要だと思っています。
できれば、𠮟らないで済むのが良いですが、なかなかそううまい具合に事が運ばないことが多いです。
このあたりがまだまだ私の未熟なところですので、そのせいで叱られてしまう羽目になった子には、大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。(きっと私がもっとやりてだったら、上手くやれただろうなと思う事がしばしばあります)
話は戻りますが、私が叱ることが必要と思っている理由は2つあります。
1つは、周りの子を守るため、もしくは周りの子が守られていると感じるためです。
例えば、誰かが誰かに暴力をふるってしまったとしましょう。
その場合、暴力をふるった方がしかられず、ちょっと声を掛けられるくらいだったら、やられたほうは「なんで??」といった気持ちになってしまうように思うのです。
「やられたら、我慢しなくてはいけないのか」「暴力ふるってもそんな大したことないな」といったマイナスな感情がクラスに生まれてしまいがちだと私は考えています。
ですから、暴力をふるったという行為に対しては、その目的を問い、話しつつも、やはり叱るということを合わせて行うべきだと思います。
暴力をふるう=よくないことであるという認識を、当人たちや周りの子たちも含めて、誤った方にかえていかないためにも、叱るという行為は、抑止力として大切な働きをすると思います。
学級開きの際に、そうした類のことを言っている場合は、なおさらです。
人を傷つける行為はよくないですので、きつく叱ります。と話しておいてそうならない場合、「やっぱいいんだ」「約束と違う」「守ってもらえない」等といったマイナスな気持ちは生まれてしまうと思います。
逆に、絶対に叱りませんという場合は、やられてしまった人たちをいかに守るかをより明確に示して、合意の上で、やっていく必要があると思います。
当然ではありますが、暴力をふるうのは良くないということは子どもたちは認識しています。
ですから、最初にそうしたことが起こったときに、どうすべきか、話し合っても良いかもしれません。
先生が叱る場合においても、こうした合意形成はとても有効ですし、より納得感があります。【私は、この手法を用いています。】
例えば、やってしまった時に話合いをして、「誰かに叱ってもらう。」「暴力をふるったことを謝る」「反省して、その分相手や周りの人のためになることをする」などといったアイディアを出し合い、合意形成をしておくと良いと思います。
その上で、先生が動いていくのがとても理想的だと思います。
自分達の作ったルール?のようなものを自分達で使い、暮らしていくというのは、子どもたちがこれからを生きていく上でとても大切なことです。
ですから、ただ、叱るというのではなく、こうしたねらいをもって叱ると行為をどう位置付けていくかは極めて重要なことになってきます。
誤解を招くと嫌なので改めて書きますが、私は、守るために、叱るという行為を使うのですが、あくまでも合意や納得の上でやっていくようにしたいということです。
教師の一方的な主観や感覚に依存しきって叱ってしまうと、かなり危ない学級になってしまうと私は思っています。
常日頃から、叱るという行為についてもフィードバックをなるべくとるようにして、見直し、改善をすることが大切であると思います。
2つ目の理由は、行為を受け止め、振り返ってもらうためです。
叱るといっても、最初に書いた通り、何も怒鳴りつけるようにするわけではありません。
こちらはどちらかというと落ち着いて話合いながら、行為の良くなかったことについて確認をして、(必要があれば指摘して)行動の改善を促しやすくするためといった叱り方です。
子ども【特に低学年】の場合、自分のしたことがよくわかっていなかったり、忘れてしまっていたりすることが多々あります。
ですから、落ち着いて振り返りをおこなえる時間を確保して、指導をします。
改めて叱るという場を設けることで、自分のした行為を見直すことができると思います。
そうしなければ、同じことを多々繰り返してしまう可能性が極めて高いです。
ですので、しっかりと必要に応じて、話をしていきます。
その際、「自分のしたことで、周りの人はどんな気持ちになったのか」「本当はどうしたかったのか」ということをベースに話をしていくと整理しやすいと思います。
行為を変革するための話合いを叱ると位置づけるのはイメージと少し違うのかもしれませんが、私は、これも叱るの一つの形だと思っています。
行為や意識の変革を望むならば、話合いの中で、厳しく叱るのも優しく叱るのもどちらも大切な手法ではないかと思います。
まとめ
「なんのために叱るのか」をしっかりと先生が考えて、手法を選んでいくのが望ましいのではないかと個人的には、思います。
こうしたことに合わせて、子どもにコミュニケーションスキルを育んだり、ルールの制定の仕方や必要性を考えさせたりすることもまた、大切なことになってくると思います。
先生が感情と主観に任せて、かじ取りをしていくのではなく、あくまでも民主的にどうするかみんなで考え、合意のもとに動いていけるように日々の指導を行っていくことが大切だと私は思います。
ですから、叱るのは、先生が偉いから叱るのではなく、先生の役割として叱るという行為を行うイメージでしょうか。
そうしたことを続けていけば、「先生に怒られるからやらない」といった類の考えは、「自分達で決めたルールだからやらないようにしよう」「自分や周りのためにならないからやらないようにしよう」という風に変わっていくと思います。
学校でこのような経験をすることは、これから様々なコミュニティで生きていく子どもたちにとってとても有意義なことだと私は考えています。
目先の子どもの行動だけにフォーカスせず、少し長い目で、「子どもたちに身に付けさせたい力はなんだろうか」ということを意識しながら、日々の指導にあたると「叱ること」についても考えが変わってくるのではないかと思います。
私自身模索しながら、日々の業務にあたっているところです。
少し長くなってしまいましたが、今回はこのあたりで終わりにしようと思います。
コメント等で、ご意見や感想などをいただけると嬉しいです。
今回もお読みいただきありがとうございました。
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