「こわいから病院へ行かない」ことのこわさ
もう何年経つでしょうか?叔母は肺癌で亡くなりました。
母方の叔母です。ちょっとゴーイングマイウェイな面もあって、正直言うとイヤな部分も少なくない人でした。でもそれ以上に頼りにもなる人で。「叔母と私は似ている」という母と、その発言が原因で喧嘩になったこともあるんですが(笑)大人になった今となっては否定できない面もあり「私は叔母と似てる」と発言しています。
とにかく情に厚い人で、気に入った人にはお世話をしまくるタイプ。おせっかいが過ぎることもあるからこそ「裏切られた」と感じるようなことも多々あったようです。まあでもソコには単に「裏切り」と言い切れない人間関係のいろんなアヤがあるはずで。その時の叔母にまつわる本当の話は、実際どうなのかはわかりません。私たちの実生活でも良くある話ですよね?両方の話を聞かないとわからないような話を、勝手に判断されて思いこまれちゃうことってソコらじゅうに溢れてますから。
叔母のキャラクターは、冷静に「こういう人」と思ってしまえば、かわいらしい面も多い人でにくめないような人。「負けん気」も強くて、仕事もできる人でしたから勘違いもされやすい人でした。とはいえ勘違いするような人って、そこまで付き合いがないからこそ勘違いも起こるわけで。そういう意味じゃ、もし叔母がまだ生きていたら、このインターネット社会は生き辛かっただろうなあ、と思います。生きてたとしても今年80歳ですけどね(笑)
私が乳がんになって、退院して、公表以後。とにかく多くの知人たちに「マンモグラフィー検査受けてる???」と聞きまくっています。私が見ている目の前で、携帯でマンモ検査のWEB予約を申し込んでもらった人も何人もいます。そのくらい、検査してないんだったら早く!という気持ちが強いです。コレに対して迷惑に思う人もいるかもしれませんが、アタマのどこかに私が言った言葉が1%でも残ればいいな、と思いながらやってます。
痛みを受け入れる必要性
実際「マンモグラフィーって挟まれるの痛いでしょ???だから検査行きたくない」っていう人の多いこと多いこと。私にとっては、軽いショックです。だって、検査のための痛みを我慢したくない、ってどういう理由なの???って、思っちゃうからです。例えばその「いやだ!」って人がなんらかの精神的な病気に患ってるとすれば、そこにはあらゆる原因もあるのでしょうから難しいこともあるかもしれません。それでも、そこを乗り越えてなんらかの検査は受けなければ、身体の中がどうなっているのか?は「絶対」わかりません。「絶対」はないんですが、これに関しては絶対と言っておきます。
本気で「すぐじゃなくても、また今度で良くない?」と何度も言い続ける同級生もいました。問答ののち、やっとこさ、予約してもらいマンモ検査へ送り込みました。
叔母は「私は、何かあると思う。だからコワイ。検査はしたくない」という人でした。母も私も「えー?検査したほうが安心じゃない!今の感じならきっと元気だし、行っておいでよ!」と言っても「いや、いや、、」と結局行かないまま過ごしていました。叔母は、自分の意見を通すことが多くて私の母ともよく喧嘩しました。私とも言い合う事もありました。それでも私たち親子(叔母にとっては姪っ子と妹)を車であちこち連れて行ってくれて、私たちだけでは観られない、食べられない、経験できないことも経験させてくれたりと、本当(何度も言いますが笑)イヤなとこも多いけれど、大好きな人でした。私がのちのち大変お世話になる下竜尾ホワイトギャラリーへ初めて行った時も、連れて行ってくれたのは叔母でした(WG仲間だったE夫人に「〇〇さんの姪っ子さんだよね?」と言われた時は驚いて喜びました)。
母もクチでは叔母のことをいろいろ言ってても「大好き」が伝わってきて、ひとりっ子の私からすれば、姉妹っていいなあ、と思ってました(ちなみに母は5人キョーダイ)。
検査を受けた叔母
ある日、ついに検査を受けた叔母。そして何やら引っかかったらしく「病院からの紹介状を持って〇〇病院へ診察に行ってください」と指示が出ました。その紹介状は開けずにそのまま先生に渡す封書で、叔母はその封書を持って「こんなのが来た」と眉を引き攣らせながら、母に会いに来ました。「絶対何かあった。私はもう死ぬんだ」という叔母に、母は「まだわからないんだから、まずは検査に行きなさいよ!」と言いました。すると叔母はその封書を開封し始めました。母は「姉ちゃん、だめだよ。それはそのまま先生に渡すんだよ!」と制止しますが、叔母は聞きません。結局開けてしまって見てしまったんですが、中には身体の絵に「肺に腫瘍」という書き込みとマークが描かれていました。
当時は、先生も詳しい結果をすぐには患者さんには伝えない時代。
「ほら、やっぱりそうだ。もうだめだ、もうだめだ」という叔母に、母は「姉ちゃん、まだわからないんだから、とにかく再検査に行きなさい」と言います。でも叔母は「いや、もうだめだから。行かない」となんとそのまま長い期間予約を取らず検査を受けなかったのです。母は何度も「姉ちゃん、私も一緒に行くから、検査に行こう」と伝えます。けど叔母はその度に「今日は仕事で〇〇に行かないといけないから」とか「今日は〇〇まで遠出営業だから」と、忙しさを理由になかなか再検査に行かなかったんです。「検査に行ってしまうと、手術をしないといけなくなる。身体にメスが入るなんてイヤだ」とも言ってました。
叔母の「こわがりな性格」を考えると、かなり長い間眠れない日々を過ごしていたと思います。この話、人によっては信じられない話と思います。はっきり言って、私もその感覚は信じられません。「疑惑がある」ことに対してすぐ処置しないだなんて。でも「もしも癌だったら」という言葉に対して、当時は今とは雲泥の差とも言える「こわさの違い」があったと思います。もしその腫瘍が良性だったとしても「癌かもしれない」という恐怖心は簡単には拭えないものと思います。周囲の人にも簡単には話せません。だって「〇〇さんは癌なんだって」っていう話題は、瞬く間に拡がるものでした。これも、2022年の今とは「情報の意味」が違います。
その後急激に体調を崩し始めた叔母に「いい加減にしなさい」と、ほぼ無理矢理病院に連れて行ったのは、叔父でした。結果、叔母の腫瘍は悪性。肺がんでした。再検査の封書が届いた時にすぐ病院へ行っていれば、結果は違っていたかもしれません。その後放置してしまったこともあってか、叔母の癌はかなり進行していました。そもそも、もし叔母が病院嫌いではない人であれば。。所詮タラレバですが。
別れの記憶
叔母が入院してた病院は、私の家から自転車で15分ほどの場所でした。面会謝絶でしたが、家族は大丈夫ということで、私は早朝6:30に叔母に会いに行ってました。かなり大きく浮腫んだ叔母の脚をマッサージしてあげると、とても喜んでくれました。片足マッサージすると、左右差がすごいので叔母は「あんたがマッサージすると効くのよ」と褒めてくれました。私も嬉しかったです。
叔母が一時退院で、みんなで食事をしようとなった事がありました。でもどうしても時間が取れなくて。結局それが最後の機会でした。なぜ私は時間を「作らなかった」んだろう?と、今でも思います。末期癌とわかっていながらも、どこかで「いや、死なないよ」という思いの方が強かったんだと思います。
その後も時間があれば早朝お見舞いには行きました。叔母が戴いたまま食べていないお見舞いのお菓子等を「あたし食べないから食べて」って言われて食べてました。いろいろ貰ったはずだけどブラウニーだけ妙に憶えています。
「死に目の記憶」って、断片的。私がソレに近い時間に顔を見ることが出来たのは父かたの祖父と、母かたの祖母。断片的とはいえ、とてもクリアなシーンも残ってるんです。私の母は、祖父母4人全員の死に目に立ちあってます。そして叔母の死に目にも。母が毎回言うのは「反応は無くても、最後まで耳は聴こえているから」って。でも、私は祖父にも祖母にも声はかけられませんでした。声が出なくて。
「こわい」こと
「こわい」からと検査に行かないままでいると、もっとこわいです。以前は、癌という宣告を直接本人に言わない事が多かったと思います。本人が癌だと言うことを知らないまま亡くなったと言うケースも多いと思います。どちらが良いか悪いか?というのは全くわかりませんが、私は自分の病気のことは知りたいと思うし、もしこの先また何かの病気になるような事があったとしても、両親より先に知るのは自分だと思いますし。
そういう宣告をされたとしても、自分で「大丈夫、治る」と思えるように、早期発見だけはしたいです。「私は健康です」と言える身体で生まれてきたことは、当たり前ではないと思っています。「長生きすること=しあわせ」という考えでもありません。しあわせの定義も、ふしあわせの定義も、千差万別で。そのどちらも押しつけにならないようにするには、結局、自分自身の現実を理解し、そこから生まれる自分自身へのクエスチョンマークを常に持つことだと感じています。
「わたしの身体、大丈夫なのかな?」と思ったら、病院へ行きます。今この瞬間、行こうと思ってるのは、皮膚科と歯医者です。あと、1年後の人間ドックです。
もし、どこかで叔母が、今の私を見ているような事があるんだとしたら?どう思ってるんだろう?と、訊きたくなります。「あんたと私は似ちょらん(似ていない)」という声は、なんとなく聴こえてくるような気もします。だって、私、病院好きですもん。
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