「心」を写真に撮りたくなる瞬間が、旅にはある
旅をしていると、「心」を写真に撮りたくなる瞬間がある。
風景でもなく、人物でもなく、自分自身の「心」を写したくなる瞬間。
カメラを向けているのは風景でも、写したいのは、カメラを手にした自分の「心」。
喜びとか悲しみ、幸せとか切なさ……。そんな自分の「心」を、そっと写真に撮りたくなる瞬間が、旅にはある。
1.24歳の香港
2.夏の夕暮れ、ソウル
3.ロシア、朝の車窓
24歳の香港
24歳のとき、初めて香港を訪れた。それは2度目の海外ひとり旅で、香港はずっと憧れていた街だった。
空港に到着し、市街へ向かう2階建てバスに乗ると、少しずつ車窓の風景は変わっていく。穏やかな海を過ぎると、細長い高層マンション群が現れ、やがて洗濯物がぶら下がった中層アパートが並ぶようになる。
そしてバスがネイザンロードに入った頃、沸き上がってくる大きな興奮を、僕は感じた。路上に突き出た派手な看板、その下を行き交うすごい数の人々……。海外ひとり旅を始めたばかりの僕には、すべての光景がどこまでも新鮮だった。
僕はカメラを取り出すと、2階席の車窓から、外の風景を写真に撮り始めた。何を撮ろうとしているのか、自分でもわからなかった。街並みなのか、人なのか。
でも今振り返れば、そのとき撮ろうとしていたのは、自分の「心」だった。
これからこの香港で、どんな旅が始まるんだろう……。異国の旅にまだ未熟だった、そのときにしか味わえない興奮を、僕は写真に収めたかったのだ。
夏の夕暮れ、ソウル
8月下旬のソウルで撮った1枚も、自分の「心」を写したものだった。
時は夕暮れ。僕は東大門の交差点から、地下鉄の駅へと歩いていた。西の空は淡い朱色に染まり、道路に溢れた車はすでにライトを点けていた。
そのとき、ふっと切なさが込み上げてきたのを覚えている。どこか痛みにも似た物悲しさが、胸の中で溢れてきたのだ。
そこにあったのは、夏の夕暮れであり、夏そのものの夕暮れだった。異国の大都会でひとり、暮れゆく夏の中にいると、まるで自分だけがそのまま取り残されていくような気がした。
僕は思わず、西の空にカメラを向けた。けれど写したかったのは、美しい夕焼け空ではなく、その西日を静かに浴びている自分の「心」だった。
もしかしたら、それはソウルだけではないのかもしれない。どんな旅先でも、夕暮れの風景を撮ろうとすると、そこに切ない気持ちが写り込むような気もする。
ロシア、朝の車窓
朝起きると、ロシアの青空が目の前を流れていた。
前の夜、ロストフ・ナ・ドヌという街で、日本がベルギーに涙を呑んだ試合を見ると、僕は寝台列車に乗り込んだ。行き先はモスクワ、これがロシアワールドカップを巡る旅の、最後の長い移動だった。
目を覚ますと、時刻はまだ10時過ぎ。モスクワに着くのは夕方だから、まだ起きる必要なんてない。僕はベッドに寝転がりながら、窓越しに流れゆく風景をぼんやり眺めた。
そこに広がっていたのは、2週間に及ぶ旅をいつも照らしてくれた、ロシアの美しい空だった。綿菓子のかけらみたいな白い雲がいくつも浮かぶ、突き抜けるように青い空。大地の緑は爽やかで、少しだけ開けた窓の外から、涼しげな風が吹き込んでくる。
なんて幸せな時間なんだろう、と僕は思った。ただベッドで横になりながら、窓の外の風景を眺めているだけで、他にはもう何もいらなかった。
ベッドの下に置いていたかばんに手を伸ばし、僕はカメラを取り出した。そして寝転がりながら、シャッターを切った。
その写真に写ったのは、窓の外を流れるロシアの青空と、窓越しにそれを見つめる自分自身の、どこまでも晴れやかな「心」だった。
* * *
こうした写真を見返すと、そのときの自分の「心」を、ありありと思い出せる。いや、そのときの「心」が、そのまま甦る気さえする。
24歳の香港で感じた興奮、夏のソウルで溢れた切なさ、ロシアの青空に照らされた幸せ……。
旅先で生まれる感情なんて、ほんとはもう2度と味わえないはずのものだ。けれど、こうして写真に写し取ることで、その「心」の世界に、いつでも舞い戻ることができる。
僕にとって、本当に大切な旅写真。それは、いまの自分をそっと励ましてくれる、「心」を写した旅写真なのかもしれない。
旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!