2枚の1000円札がつないでくれた、ハイビスカスと桜の旅
旅はときに、神様からのプレゼントみたいに、ほんのり嬉しい出来事が突然舞い降りてくることがある。
この冬、初めてハワイを訪れた、その帰りの朝のことだった。
ワイキキのホテルをチェックアウトするとき、僕はレセプションの男性に、空港へ向かうタクシーを呼んでくれるよう頼んだ。
その旅の1週間、ハワイは物価が高騰していることもあって、タクシーに乗ることは1度もなかった。
でもこの朝だけは、路線バスで空港へ向かっていたら、飛行機のチェックインに間に合いそうもない。
それに、財布の中には、使い切らなかった米ドル札が40ドルくらい残っていた。
さすがにワイキキから空港まで、40ドルを超える料金がかかることもないだろう。
そう思った僕は、その40ドルの米ドル札を気持ちよく使い切るためにも、最後はタクシーで空港へ行くことにしたのだ。
ホテルの駐車場で待っていると、5分ほどしてタクシーが横付けされた。
そのタクシーの車体に、「CASH ONLY」とシールが貼られているのを見て、ちらっと不吉な予感がした。
もしも40ドルを超える料金がかかってしまったら、困ったことになりそうだな、と。
でも、もうタクシーは来てしまったのだし、きっと大丈夫だろう、と思うことにした。
タクシーに乗り込むと、運転手さんは中国系のおじさんだった。
すでにホテルから伝えられているらしく、空港まで行くことを確認されると、すぐに走り出してくれた。
運転手さんは寡黙な性格なのか、とくに話しかけてくることもない。僕は車窓を流れるホノルルの街並みを、ぼんやり眺めていた。
しかし、やがて道路が混雑し始めた。このハワイでも、朝はラッシュの渋滞があるらしい。
ようやく渋滞を抜け出して、快調にフリーウェイを走り出した頃には、メーターは40ドル近くにまで迫っていた。
どうかこれ以上は上がらないでくれ、という願いもむなしく、メーターはじわりじわりと上がっていく。
そして、ホノルルの空港の玄関口へ着く頃には、タクシーのメーターは50ドル近い数字を表示していた。
どうしよう、と思った。
手元に残っているのは、約40ドルの米ドル札だけだ。それに対して、メーターは約50ドル。
それとなく運転手さんに、カードは使えないかと聞いてみても、現金しか使えないと返ってくる。
僕は正直に、運転手さんに説明することにした。
いま財布の中には、この40ドルしかない、と。
だからといって、40ドルだけ渡して降りるわけにはいかないことは、運転手さんの困惑した表情からも、明らかだった。
そのとき、あっ、と思い出した。
かばんの中に、日本円のお札がいくらか入っていることを。
でも、飛行機のチェックイン時間を考えると、空港へ両替に行けるほどの余裕はない。
日本円でそのまま、タクシー料金を払えないだろうか……。
さすがに怒られちゃうかな、と思いながらも、僕は運転手さんに聞いてみた。
「残りは日本円で払ってもいいですか……?」
運転手さんは、静かに頷いて言った。
「それでいいよ」
そこで僕は、約40ドルの米ドル札と一緒に、チップの分も含めて、2枚の1000円札を、運転手さんに渡した。
すると、野口英世が描かれた2枚の1000円札を、運転手さんはゆっくり眺め始めた。
そして、それまで静かだった表情をふっと崩して、笑いながら言った。
「今度の春、日本へ旅行に行くんだ。日本の桜を見てみたくて。このお金は日本で使わせてもらうよ」
思いがけず、その言葉を聞いた瞬間、心がほんのり温まっていく自分を感じた。
運転手さんは嬉しそうな笑顔で、2枚の1000円札を、いつまでも手にしていた。
運転手さんに別れを告げて、ホノルルの空港を歩きながら、僕は小さな幸せに包まれていた。
いつもだったら、旅の終わりの寂しさを感じていたことだろう。
でもこの朝だけは、まるで旅が始まるときのような、弾むような気持ちに満たされていた。
いや、旅はまさに、新たに始まるのだ。
僕のハワイの旅は終わるけれど、彼の日本の旅は、これから始まっていく……。
ハワイのあちこちで、僕がハイビスカスの可憐さに心奪われたように、彼は日本のどこかで、桜の美しさに心動かされるのかもしれない。
ハイビスカスの旅と、桜の旅。その2つをつないでくれたのは、たった2枚の、1000円札だったのだ。
この春、日本に桜が咲く頃、あの運転手さんの笑顔を思い出すような気がする。
そして彼が、春の日本を旅しながら、無事に満開の桜を見ていることを、そっと願いたい。
日本へ帰る飛行機に揺られながら、そんな春を思った。