旅で得られる情報は、果汁100%のジュースのようなものだから
先日、若者の海外旅行離れが進んでいる……という記事を見つけて、暇つぶしに読んでいた。
そのままスクロールして、記事の下のコメント欄を読み始めると、なぜ若者が海外へ旅に出ないのか、その「理由」を分析するコメントがずらっと並んでいた。
海外へ行くお金や時間の余裕がない、世界情勢が不安で海外旅行にリスクを感じる、趣味が多様化してきて海外旅行の魅力度が下がった、国内旅行だけで十分面白い……。
そうしたコメントの中でも、とくに目立ったのが、こんなコメントだった。
「いまは海外へ行かなくても、世界中の情報が簡単に手に入る。実際に海外へ行くメリットを感じない」
そんなコメントが多いことに気づいたとき、確かに……と思う一方で、でも……と思ってしまう自分がいた。
僕自身は、若者が海外旅行へ行かなくなっているとしても、それを批判したり否定したりする気持ちはとくにない。
旅はそれぞれの興味や好奇心に従って行くもので、いま海外に関心がないのなら、必ずしも若いうちに海外へ行かなくてもいいと思うからだ。
海外よりも国内に好奇心が向かうなら、その気持ちに素直に従って、国内を旅する方がいい。そしていつか海外へ好奇心が向いたとき、海外へ旅に出ればいい。
でも……と僕が思ったのは、「海外へ行かなくても、世界中の情報が簡単に手に入る」というコメントに対してだった。
そして、まさにその思いにこそ、僕が海外へ旅に出る「理由」のひとつがあることに気づいたのだ。
海外へ行かなくても、世界中の情報が簡単に手に入る。
確かに、何も間違っていないと思う。
インターネットで、SNSで、本で、テレビで、あらゆるメディアを通して、世界中の情報が簡単に手に入るのが、いまという時代だ。
それもリアルタイムに、世界の「いま」を知ることができる。
あるいはそれは、短い海外旅行で得られる情報なんかよりも、はるかに有益で、意味のある情報かもしれない。
「世界を知る」という目的なら、わざわざ海外へ旅に出る必要性は、以前よりも下がっているだろう。
でも、旅に出ることで得られる情報と、そうしたメディアを通して得られる情報が、決定的に違っていることがひとつある。
それは、その情報が、「生の情報」か否か、ということだ。
インターネットでもSNSでも、本でもテレビでも、そうしたメディアを通して得られる情報は、すべて第三者の目を通して発信される二次情報だ。
それがどんなに信頼の置けるメディアだったとしても、そこには自分ではない誰かの視点や思いが少なからず入り込んでいる。
でも、旅をすることで得られるのは、誰の目をも通していない、純粋な一次情報なのだ。
その土地を、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の耳で聴き、自分の心で感じること。
そうして得られるものこそ、本物の、「生の情報」だと思うのだ。
もちろん、短い海外旅行へ行ったところで、実際に触れられるのはその土地のほんの一部だけだ。そんな旅で得られるのは、大して意味を持たないような情報かもしれない。
だけど、人が本当に、心から信じることができるのは、自分の力だけで得ることができた、そんな「生の情報」なんだと思っている。
確かに、いまは海外へ行かなくても、世界中の情報が簡単に手に入る。
でも、だから海外へ行かなくてもいい、とは僕は思わない。
世界中の情報が簡単に手に入る時代だからこそ、本物の、「生の情報」を求めて、海外へ旅に出たい。
その土地の空気を実際に吸って、そこで暮らす人たちに会いに行ってみたいと思うのだ。
たぶん、旅で得られる情報は、果汁100%のストレートジュースのようなものなんだと思っている。
そして僕は、添加物の入ったジュースよりも、混じりっけのないジュースの方を飲みたくて、海外へ旅に出ているのだ。
だから、これからの時代も、「百聞は一見にしかず」を大切にしたい。
メディアの情報だけですべてを決めつけるのではなく、とりあえず気になる場所へは、自分で行ってみること。
たったそれだけで、旅は生まれていくと思うのだ。