赤ちゃんが泣く機内で、さりげない優しさを見た話
国内でも海外でも、飛行機に乗っていると、機内で赤ちゃんが泣き始めてしまう光景に出会うことがたまにある。
僕自身は、そんな光景に遭遇しても、それを不快に思うことはあまりないタイプだ。
もちろん、静かな機内に赤ちゃんの大きな泣き声が響けば、少し気になるくらいのときはある。
でも、赤ちゃんが泣いてしまうのは自然なことだし、そのくらいのことは静かに受け入れられる大人でありたいと思っている。
だから、近くの席で赤ちゃんが泣き始めても、別に泣いてもいいんだよ……と心の中で思いながら、そっと見守っていることが多い。
ところが、つい先日、機内で赤ちゃんと出会った乗客として、こんなふうに見守ってあげることもできるんだと、気づかせてくれる出来事があった。
それは、旅先のカザフスタンで乗った飛行機でのことだった。
その朝、エア・アスタナという航空会社の国内線に乗ると、機体は気持ち良く青空へと飛び立った。
第3の都市であるシムケントから、最大の都市のアルマトイへ。窓の外を見ると、眼下には美しい大草原や急峻な山々が広がり始めていた。
やがて機体が水平飛行に移ると、ドリンクサービスと合わせて、小さなサンドイッチとチョコレート、そしてミネラルウォーターが配られた。
お腹の空いていた僕が、それを美味しく平らげた頃だった。
2つ前の席に座ったお母さんが抱いていた赤ちゃんが、耐えきれなくなってしまったのか、泣き始めた。
最初は小さな声だったけれど、だんだんと大きな声で泣き叫ぶようになり、静かだった機内が途端に賑やかになった。
離陸したときは我慢していた赤ちゃんも、1時間近くが経ち、少しつらくなってきてしまったのかもしれない。
若いお母さんは懸命に赤ちゃんをあやしているが、元気いっぱいの泣き声は一向に止む気配がない。
お母さんが周りの乗客のことを思って心に負担を感じていなければいいが……と心配になった、そのときだった。
思いもかけないことが起きたのは。
僕の1つ前、つまり赤ちゃんとお母さんの真後ろの席に座っていた、何の関係もないはずの中年の夫婦が、突然、2人揃って手を掲げたのだ。
その手に持っていたのは、さっき配られたばかりの、小さなペットボトルに入ったミネラルウォーターだった。
とくに声を掛けるでもなく、それぞれにミネラルウォーターを手にした夫婦は、ちょこんと顔を覗かせている赤ちゃんの前で、ポンポンとおもちゃみたいにお互いのペットボトルを軽く叩き始めた。
赤ちゃんの気を引くように、なんだか楽しそうに、でも驚かせることがないように、とても静かに。
突如として不思議な行動を始めた見知らぬ2人に、赤ちゃんは泣き声を上げながらも、思わず惹きつけられたみたいだった。
まるで赤ちゃんのためのちょっとしたサーカスのように、夫婦は小さなミネラルウォーターを使って、心地良い音色を奏でたり、クルクル回して見せたりする。
後ろの席から見守っていた僕にも、赤ちゃんの目がその水の輝きに吸い寄せられ、耳がその美しい音色に引き寄せられていくのがわかった。
そして、だんだんと泣き声が間遠になっていくと、やがて5分も経つ頃には、さっきまでの大泣きが嘘だったみたいに、赤ちゃんはぴたりと泣き止んだのだ。
すっかり赤ちゃんは、夫婦の手にしたミネラルウォーターの神秘に、魅せられてしまったようだった。
それにしても、一言も発することなく、赤ちゃんを安心させてあげられた夫婦の手並みは、素晴らしく見事で、なにより美しかった。
きっとお母さんにとっても、夫婦の小さな心遣いは、気持ちをホッと安心させてくれたことだろう。
気遣いを押しつけるわけでもなく、さりげなく優しさを示すことで、赤ちゃんとお母さんをそっと助けてあげる……。
こうして理解してくれている人がいる、というだけで、どれだけお母さんの心の負担が軽くなったかわからない。
後ろから見ていた僕にとって、その夫婦は、名もなきヒーローのように見えた。
たぶん、カザフスタンの空の上で、夫婦は赤ちゃんとお母さんを、静かに救ってあげたのだ。
飛行機が着陸態勢に入ると、赤ちゃんは再び泣き始めてしまったけれど、そのときも夫婦はミネラルウォーターを手に、そっとあやしてあげていた。
さらに、通路を挟んで座っていた若い女性も、私も一緒に……という気持ちが芽生えたのか、面白い顔をして気を引こうとしたりと、赤ちゃんのために一役買っていた。
そのおかげもあって、アルマトイの空港に着陸する頃には、無事に赤ちゃんも泣き止んでいた。
飛行機を降りるとき、赤ちゃんを抱いたお母さんは、助けてくれた夫婦に静かに頭を下げると、出口へ向かっていった。
いい光景を見られたな、と思った。
そして、僕もどこかで、こんなふうに心遣いができる大人になりたいな、と思わされた。
特別な親切ではなく、ただ自分なりに、どこかの空の上で、どこかの赤ちゃんとお母さんを、ほんの少しだけ助けてあげられたら……。
きっとそのとき、お互いにとって、気持ちのいい空の旅ができるような気がするのだ。
たとえそれが、カザフスタンではなく、日本の空の上だったとしても。