グリーンランド経由パリ行きで感じた、「窓側の席」の至福
どんなに長距離のフライトでも、飛行機に乗るときは、窓側の席に座るのが好きだ。
とはいえ、通路側の席の快適さに気づいた最近は、席を選択するとき、少し迷うことも増えてきた。
いつでもトイレへ行ける安心感はもちろん、窓側の席の窮屈さや閉塞感もなく、通路側の席は開放的な気がするからだ。
この夏、エールフランスでパリへ飛んだときも、席の選択にはちょっと迷った。
直行便なうえ、今はシベリア上空を飛べないため、かなりの大回りとなり、フライトは14時間を超えるという。
さすがに今回は、通路側の席を選んだ方がいいかもしれない……。
ところが、「フライトレーダー」というサイトで、搭乗予定の便のフライトルートを調べたとき、思わず心が動いた。
どうやら、パリへ向かうエールフランス便は、羽田空港を出発すると、北東に進路を取り、アラスカ上空から北極圏へと入り、グリーンランド上空を抜け、イギリス上空を経て、フランスの地へと降り立っていくようなのだ。
もしかすると、窓側の席に座れば、雪と氷の大地として知られるグリーンランドを人生で初めて見ることができるかもしれない……。
出発直前のオンラインチェックインのとき、幸運にも、窓側の席も通路側の席も、それぞれに空いていた。
そして、ちょっと迷った末、僕は窓側の席を選んだのだ。
自分の目でグリーンランドを見てみたい……という、ただそれだけの小さな夢のために。
その日、真夏の太陽が輝く青空へと、エールフランスの機体は羽田空港を飛び立った。
ぐんぐんと高度を上げていく窓の外には、東京都心のビル群やレインボーブリッジの風景が広がり、そのうちに東京スカイツリーも眼下に見えてきた。
こうして飛行機の窓から見ると、無秩序だと思っていた東京も、川が流れ、家々が並び、公園の緑が輝く、美しい街であることに気づかされる。
やがて、茨城県の霞ヶ浦が広がり、のどかな田園地帯から鹿島港のコンビナートが見えてくると、ついに太平洋の上空を飛ぶようになった。
もう窓の向こうに広がるのは、空との区別もつかないような、真っ青な海だけだ。
その青い風景を見つめているだけで、海外の旅が始まったことの幸せに静かに包まれていく。
それから30分ほどして、ドリンクのサービスが始まった。
いつもならオレンジジュースやアップルジュースを貰う僕も、フランスへ向かう気分が高まっていたので、思わずシャンパンを頼んでいた。
可愛らしいグラスに注がれたシャンパンは、窓の外から差してくる光に照らされて、黄金色の液体も、白く小さな泡立ちも、きらきらと輝いている。
一口呑んでみると、豊饒な味わいが口いっぱいに広がって、旅立ちの幸福感がさらに一段階アップしたような気がした。
機内食のチキンソテーは大したことがなかったけれど、フランス名産のブリーチーズや甘いクリーム菓子のパリ・ブレストはとても美味しく、想像していた以上に満足して食事を終えることができた。
幸運だったのは、隣の2席に座っていたフランス人の若いカップルが、僕がトイレに行くとき、嫌な表情をすることもなく、笑顔で席を立ってくれたことだ。
なるべく、2人がトイレへ立ったときに僕も後からついていくようにしていたけれど、いつも2人はすぐに席へ戻ることなく、僕がトイレから出てくるまで、当たり前のように待っていてくれた。
そのうちに、機内の灯りが消され、窓のシェードも下ろされ、静かな時間が訪れた。
しばらくは、太平洋からベーリング海へと、長大な海の上をひたすら飛ぶことになる。
僕は映画を1本観た頃、シャンパンの酔いが回ってきたらしく、窓側に寄りかかって微睡むようになった。
ふと目が覚めて、フライトマップを確認すると、ちょうどアラスカの上空を飛んでいる。
しかし、マップをカメラに切り替えてみると、どうやら外は分厚い雲に覆われていて、とてもアラスカの山々は見られそうもない。
考えてみれば、これから上空を飛ぶことになるグリーンランドも、もしも雲に包まれていたら、その大地を見ることはできないはずなのだ。
そして、グリーンランドは雲に隠されることが多い土地だと聞く。
あるいは、そこまで窓側の席にこだわる必要もなかったのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕は再び夢の世界へと入っていった……。
再び目が覚めて、目の前のフライトマップを見ると、すでに飛行機はグリーンランドの上空を飛んでいる。
いや、それどころか、すでにグリーンランド東部に差しかかり、あと数十分もすれば、大西洋の上空へと出てしまいそうだ。
機内を見渡すと、窓のシェードを上げて、外の風景を見つめている乗客がちらほらといた。
もしかしたら、グリーンランドの大地が見えるのかもしれない。
それぞれに映画を観ていた隣のフランス人カップルに、少しだけ窓の外を見たいんだけど……と念のため伝えると、笑いながら頷いてくれた。
そして、窓のシェードを静かに上げた瞬間、思わず息を呑んだ。
眼下に広がっていたのは、何百万年もの自然の歴史が刻まれた、真っ白な雪山や氷河が果てしなく連なる、本物のグリーンランドの大地だったからだ。
地球温暖化のせいか、あるいは単に夏のためなのか、すべてが雪や氷で覆われているわけではなく、灰色がかった山肌が露出しているところも多い。
それでも、まるで人を寄せ付けないかのようにどこまでも続く雪山や氷河は、圧倒的な大自然の美しさと同時に、どこか神秘的な畏怖の念をも抱かせる光景だった。
このグリーンランドの大地に比べれば、それを飛行機の窓から見つめているだけの人間なんて、なんと小さな存在なことだろう……。
感激している僕に気づいた隣の席のフランス人カップルも、身を乗り出すようにして、窓の外の雄大な風景を見つめていた。
やがて眼下には、氷食谷に海水が入り込んだ、美しいフィヨルドが見えてくる。
その海面は、太平洋の色とはまた違う、紺碧のような深みを持って、水を湛えていた。
エールフランスの機体は、アイスランド沖を抜け、イギリス上空を飛び、ドーバー海峡を越えて、ついにフランスの大地まで辿り着いた。
窓の向こうには、パッチワークのように緑と茶色が交互に連なる、イル・ド・フランスの田園風景が広がっている。
セーヌ川の支流であるマルヌ川は、まるで子供の落書きみたいに、不思議な曲線を描きながら流れている。
ゆっくりと高度を下げていく中、優しささえ感じさせるフランスの原風景を眺めていると、これから降り立つパリの街へ思いを巡らしながら、期待と不安が少しずつ高まっていく自分に気づいた。
そして、飛行機の窓側の席ってやっぱり良いものだな……と思った。
確かに、フライトの快適さや安心感は、通路側の席には敵わない。
でも、窓側の席には、旅に出る人の気持ちをちょっとだけ高めてくれる、なにか不思議な魅力がある。
たった1度きりの人生で、そう何度も見ることはできないかもしれない風景を見つめながら、自分の思いの中に静かに入っていく……。
窓側の席でしか味わえない、そんな至福の瞬間が、僕はとても好きだ。
たぶん、窓側の席を選びたくなるのは、ただ単に、窓の外の風景を見られるから……だけではないのだ。
窓側の席に座ることで、周りの乗客からも距離を置いて、たったひとりになったような気持ちで、窓の外に広がる世界と向き合うことができる……。
きっと、そういう時間が好きなんだと思う。
14時間を超える長いフライトを経て、飛行機はめでたく、パリ郊外のシャルル・ド・ゴール空港に着陸した。
機体を降りる直前、窓の外をもう一度見ると、滑走路の上空には、もくもくとした入道雲が浮かんでいた。
暑い夏のパリを巡る旅が、これから始まっていくのだ。