ドイツのケルンでは、アルトビールを注文してはいけない
異国を旅していると、たまに、思いがけないピンチに遭遇する。
飛行機の欠航に見舞われることもあれば、悪い人に騙されそうになったり、ちょっと危険なエリアに迷い込んでしまったりすることもある。
でも、いろんな国を旅してきても、こんなにも奇妙なピンチに遭ったことはなかった気がする。
ある昼下がり、ドイツのケルンにある小さなレストランで、あと一歩踏み込んでいたら大変なことになっていたかもしれない……というピンチに、遭ってしまったのだ。
その「ピンチ」に遭う前日、ドイツのデュッセルドルフにあるバーで、僕はアルトビールを呑んでいた。
濃い茶褐色をしたアルトビールは、ホップの香りも強く、きりっとした苦みが味わい深い。
「美味しい……!」
僕が言うと、たまたま相席になった地元の男性たちが、嬉しそうに笑った。
曇り空の下のテラス席で、細長いグラスに入ったアルトビールを呑み干すと、一人で呑んでいたおじさんが愉快そうに言った。
「君はちょっと急いで呑みすぎだ。ドイツでは、少しずつ少しずつ、こうやって呑んでいくんだよ」
そんな話に頷いていたら、僕のグラスが空になったことに気づいたウェイターが、何も言わずに新しいビールが注がれたグラスと交換していった。
そして、グラスの下のコースターに、鉛筆で2本目の線を引いた。
どうやら、まるで日本の「わんこそば」のようなスタイルで、デュッセルドルフにおけるビールは親しまれているらしい。
おじさんに教えられたとおり、ちびちびと2杯目のアルトビールを呑んでいると、今度は3人組の若い男性たちと乾杯することになった。
「プロースト!!!」
それがドイツ語で「乾杯」を意味する言葉らしい。
平日の午後からビールを呑んでいる楽しい3人組とは、旅やサッカーの話で盛り上がった。
もしも、たった1日、いや、わずか1時間、ずれていたとしたら、彼らと乾杯することも、一生なかったんだろうな……。
そんな感慨に耽りながら、新たに運ばれてきた3杯目のビールを呑んでいると、すっかり顔が赤くなった一人に聞かれた。
「今夜はどこに泊まるんだい?」
僕は答えた。
「この後、鉄道で移動して、ケルンに泊まるんだ」
すると、それを聞いた3人組は、困ったように苦笑しながら顔を見合わせた。
「それは本当か? デュッセルドルフじゃなくて、ケルンに?」
その言葉の意味がわからないまま、僕は言った。
「そう。ケルンのホテルを予約しているから」
それを聞くと、冗談のようでありつつも、ちょっと本気を滲ませて、彼は自信に満ちた口調で言ったのだ。
「ケルンは汚い街だし、ビールも美味しくない。ケルンのビールなんて水みたいなものだ。俺たちと一緒に、このデュッセルドルフにいた方がいいよ」
やがて運ばれてきた4杯目のビールで乾杯しながら、やっぱりそうだったのか……と僕は思っていた。
デュッセルドルフとケルンをめぐる、あの「話」は本当だったんだ、と。
ドイツ西部のデュッセルドルフとケルンは、鉄道でわずか20分ほどで移動できる距離にある。
しかし、いや、だからこそ……なのか、両都市は強いライバル関係にあるらしいのだ。
なかでも「ビール」はその象徴で、デュッセルドルフの人々はアルトビールを好み、ケルンの人々はケルシュを好んで呑む。
万が一、デュッセルドルフの店でケルシュを注文したり、ケルンの店でアルトビールを注文したりしたら、とんでもない事態を招いてしまうのだという。
そこで、僕はドイツを旅するにあたって、しっかりと頭にたたき込んでいたのだ。
デュッセルドルフではアルトビールを、ケルンではケルシュを、と。
夕方、ケルン中央駅を降りると、びっくりするくらい目の前に、壮大なケルン大聖堂が聳えていた。
写真や映像では何度も見てきた建物だけれど、自分の目で見上げる大聖堂は、天まで貫くかのように高く、圧倒されるほどに大きい。
しばらく大聖堂を眺めてから、一旦ホテルにチェックインすると、再びケルンの街へ出た。
夕食がてら、今度はケルシュを呑んでみようと思ったのだ。
ケルン大聖堂の近くに、地元の人々や観光客で賑わうビアホールを見つけて、入ってみた。
若者グループが楽しんでいるテーブルにお邪魔させてもらい、やってきたウェイターに、ひとまずケルシュを注文する。
運ばれてきたのは、きらきらと黄金色に輝くビールだった。
呑んでみると、優しい口当たりが心地良く、すっきりとした苦みがとても美味しい。
デュッセルドルフの彼は「水みたい」と馬鹿にしていたが、こっちの澄み切った呑みやすさも、なかなか悪くないと思った。
このケルシュは、さらに細長いグラスに注がれて提供されるため、あっけなく呑み終わる。
すると、すぐにウェイターが気づき、淹れたてのビールのグラスと交換して、やはりコースターに鉛筆で2本目の線を引いていった。
ライバル関係にあるビールでも、この「わんこそば」スタイルだけは同じらしい。
伝統的なソーセージ料理、ブラートヴルストを食べながら、僕はケルシュを呑んだ。
今夜はサッカーEUROの開幕戦があり、ドイツ代表が出場するため、同じテーブルの若者たちはもちろん、店内全体に活気が溢れている。
幸せな気分でグラスを傾けながら、僕は思った。
こうして無事に、デュッセルドルフでアルトビールを、そしてケルンでケルシュを呑めて、本当によかったな、と。
……たぶん、ここで一安心してしまったのがいけなかったのだ。
なぜなら、恐ろしい「ピンチ」を引き寄せてしまうのは、この翌日のことだったのだから。
次の日、ケルン大聖堂の内部へ入った僕は、ステンドグラスから差し込む光に見惚れていた。
昨日は、デュッセルドルフでアルトビールを4杯、ケルンでケルシュを3杯も呑んだせいで、気持ち良く酔ってしまい、内部の見学を忘れていたのだ。
神秘的な光を浴びてから、大聖堂を出ると、早めに昼食を食べることにした。
迷った末に入ったのは、旧市街で見つけた、古き良き雰囲気が漂う一軒のレストラン。
すでに店内は、ゆったりと食事を楽しむ老夫婦や、スマホを見ながら料理を待つ若い女性など、多くの客で賑わっていた。
案内されたテーブルに着き、メニューを広げると、美味しそうな料理がいっぱいある。
チキンのソテーにしようか、それともビーフステーキにしようか……。
僕が考えていると、初老のウェイターがやってきて、訊いた。
「お呑み物は何になさいますか……?」
料理の方に気を取られていた僕は、深く考えもせずに、言った。
「アルトビールを」
……その瞬間、ウェイターの顔から、笑みが消えた。
まるで世界がフリーズしてしまったみたいに、僕の周りで楽しんでいた客たちも、会話や動作を止めてしまった。
初老のウェイターは、訝しげな表情を浮かべながら、もう1度訊いた。
「……お呑み物は?」
発音が下手なせいで、言葉が伝わっていないのかもしれない、と思った僕は、繰り返した。
「アルトビールを」
それを聞いたウェイターは、この世のものではない生物を見つめるような目になって、沈黙した。
あれほど楽しそうに食事していた老夫婦は、もはや一言も語らなくなり、若い女性にいたっては、悲しそうな顔で目を逸らした。
そのとき、ようやく僕も、何かとんでもない事件が持ち上がっているらしい、と気がついた。
すると、初老のウェイターが不思議そうに訊いた。
「……どうしてなんだい?」
静けさに包まれた店内で、その言葉の意味を考えるうちに、大変なことに思い至った。
そうだ、ここはケルンだったのだ!!!
僕は慌てふためきながら、言った。
「いや、ケルシュを……! ケルシュ、ケルシュが欲しいんだ!」
初老のウェイターは、なおも疑わしそうに、念を押して訊いた。
「本当にケルシュでいいんだね……?」
すべての誤解を解くように、僕は言った。
「もちろん、ケルシュさ! アルトビールなんか嫌いだ! ケルシュが好きなんだ……!」
そう伝えた瞬間、店内の雰囲気がふっと柔らかくなっていくのがわかった。
老夫婦にも笑顔が戻り、若い女性もホッと安心したようだった。
そして初老のウェイターも、楽しそうに笑いながら、力強く言った。
「わかった」
その顔には、やっぱりそうだよな……という喜びが浮かんでいるような気がした。
すぐに運ばれてきた黄金色のケルシュを呑みながら、僕は冷や汗をかくようにして思っていた。
あのまま気づかずに、アルトビールと言い続けていたら、冗談ではなく、大変なことになっていたかもしれないな、と。
どうにか、あと一歩のところで、正しい道へ戻ることができたのだ。
そのレストランでは、仔牛肉を揚げたシュニッツェルを食べながら、ケルシュを何杯もおかわりした。
きっと許してもらえることを願いながら、ケルシュへの愛を伝えるように……。
レストランを出ると、眩しい青空の下に、ケルン大聖堂が建っていた。
なんとか「ピンチ」を脱することができたせいか、その大聖堂の姿は、今まで以上に輝いて見えた。
本音を言えば、僕はデュッセルドルフのアルトビールも好きだし、ケルンのケルシュも好きだ。
それはたぶん、デュッセルドルフの人々のアルトビールへの愛と、ケルンの人々のケルシュへの愛……、それぞれに触れることができたからだ。
愛するビールは違っても、彼らはともに、自らの土地のビールを誇りに思っていた。
もしかすると、思いがけずドイツの人々のビール愛に触れることができたのは、ラッキーだったのかもしれない。
もちろん、デュッセルドルフではアルトビールを、ケルンではケルシュを……。
それを間違えるようなことだけは、もう2度としたくはないのだけれど。