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不登校  2


                       まえがき


 
今回からは個人名を書いています。勿論「仮名」で書いているに決まっています。
仮名で書いていると、自分でも誰のことを書こうとしているのかわからなくなることがあります。これは今までの経験から確かなことです。イギリスの偉大な小説家、しかも超大作が多い多作の作家であるディケンズは、登場人物のことを書く前に名前やその人となり等をノートしていたことはよく知られています。
私自身も彼の書物を読むときは、PC(当時はワープロ)に名前が出てくるたびにエクセルの中に名前と出てきた頁番号を書きながら読んでいました。おかげで読んでいる途中にその人物がどんな人だったかをそのメモにある頁を開いて読み直したりしていました。
 
昔読んだ評論の中で、ある小説の中で、一度死んだはずの登場人物がいつの間にか生きているという間違いを書いたものがある、という記事を読んだことがあります。勿論、これはディケンズの事ではありません。作家の名前すら知らない人のことです。
 
( 今回も表紙画像は私の収集品の鉛筆削りの一つです。見た通り、秤‐はかり‐です )
 
 
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「不登校」気味の生徒を学校に「復帰」させることに成功したこともありました。並大抵の努力ではありませんでしたが、その生徒が無事卒業するのを見たときは、何とも言えない満足感がありました。


 久美子(勿論仮名)の場合も4月の最初から欠席していました。彼女の顔は長い年月が経った今でもかなりよく覚えています。少し頼りなさ気で独特の憂いを帯びた目が印象的でした。大げさに言えば、かばってあげなければという気にさせられると表現すればいいのかもしれません。


 授業も終わった放課後に久美子の家を目指しました。前年度に提出されていた家までの地図が役に立ちました。彼女の家はすぐに分かりましたが、いくらベルを鳴らしても返事がありません。その家は周りを囲む塀もありませんでしたし、周囲からなんとなく孤立している感じでポツンと建っていました。久美子の家と軒を並べた家もありませんでした。家の周囲をぐるぐる回って様子を見てみました。人がいる気配が一向にありませんでした。


 久美子の保護者には1度も会ったことがありません。保護者のことについてあまり深く聞いたこともありません。私には聞く勇気が無かったのです。聞いたところで私に何が出来たでしょうか。だから私はあえて聞こうとしなかったのです。


 教師の中には生徒の家庭のことを根掘り葉掘り聞き出したがる人もいます。そして、その生徒のプライバシーに関する情報を多く持っていることを自慢に思っているのです。情報を多く持つことが教師の仕事だと勘違いをしているのかもしれません。無理やり聞き出しても、その分生徒は傷ついているかもしれないのです。私はあえて聞く必要がない場合が多いと思うのです。信頼関係が育ってもいないのに、聞いても何もしてあげることができないからです。ですから聞き出すことが目的になっている教師を見ると腹立たしくさえ思うことがあるのです。


 そうこうするうちに10分ほど経ったでしょうか。当の本人が帰ってきました。久美子が夕食の準備をする様子なのです。買い物から帰ってきた久美子と道路に面した縁側に座って1時間ほどおしゃべりをして帰ったことを思い出します。縁側からかすかに見える居間は雑然としていて長い間人がいなかったのではないかと思える様相をしていました。縁側もほこりっぽく、その隅のほうにはいろいろな物ががさつに重ねられていました。


 久美子は座布団を出してくれました。使い古した物でした。座布団のほころびが目につかにように、彼女がお茶の準備をしてくれている間に私は裏返しにして座りました。私はその座布団に座って縁石に足を落ち着かせました。彼女は縁側に座布団も敷かずに正座していました。そのときから何度となく同じスタイルでの2人のおしゃべりがその縁側で繰り返されました。


 久美子が着ている私服は決して上等には見えませんでした。しかし彼女は私服の着こなしは小奇麗で上品な雰囲気を持っていました。その家に住んでいるのが不似合いに見えるほどでした。その話し方は柔らかく屈託がありませんでした。時々笑う笑い方も同年代の生徒たちよりも大人びていました。私が一方的に話すというのではなく、彼女から話題が提供されることもありました。人と話すのが楽しい、といった様子にも思えました。
 おしゃべりの内容はほとんど他愛のない話題ばかりでした。学校のことにはほとんど触れられませんでした。私が久美子の立場だったらそんな話題はいやだと思ったからです。このおしゃべりは2人だけの井戸端会議のようなものでした。井戸端会議は私が終了を告げなければ一向に終わる気配がないほど続くのです。


 話を学校のことから遠ざけながら、それでも私の心の中は何とかして彼女を学校に「登校させよう」という思いで満ちていました。ですから、別れ際には必ず「あしたはおいでよ」と何気ないふりをして言ったものです。彼女の方も明るくうなずいてくれていました。


 私は久美子と別れて帰る道すがら、翌朝の出席を取るときの彼女の姿を想像して楽しくなっていました。帰宅してからも、イメージトレーニングでもするかのようにして久美子の出席風景を思い描いていました。


 そんな私の期待を知ってか知らずか、彼女は前日の約束をいともあっさりと裏切りつづけたのです。それでも数回に1回くらいは私に喜びを配達してくれました。
 私はその頃朝の出席を取るのが怖くなっていました。彼女がまた約束を破るのではないか、いや今日こそはきっと来ているはずだ、などと1人で勝手に心の中で言い争っていたのです。


 教室の扉を開けても、私はできるだけ生徒たちに目をやりませんでした。答えがすぐに分かってしまうのが怖かったのです。前日の彼女との会話が思い出されていました。でも、そんな確信はそれまでに何度となく打ち砕かれてきたのです。また打ち砕かれたくなかったのです。
 顔も上げずに出席を取る私の様子は、生徒たちには暗く映っていたかもしれません。1人ずつ名前を読み上げていきます。元気な声が返ってくることもあれば、聞こえるか聞こえないかといった程度の返事が返ってくることもあります。
 久美子の番が近づくと私のほうが緊張したものです。彼女の返事の声は決まって小さなものでした。彼女の返事を聞き逃すまいとして私の全神経が耳に集中しました。しかも彼女が来ていても、来ていなくても私の心に変化が起きるのです。


 返事が返ってきたときには言いようもない喜びが湧き上がってきたものです。その日1日がすばらしい1日になることを約束されたような気持ちになりました。返事がないと、聞き損ねたと思いこんで、彼女の席に目をやるのです。そして失望が目の前を暗くするほどでした。彼女の家から帰るときにはいつも今度こそは次の日には登校してくるぞ、という確信が満ちていたからです。


 出席した彼女に目をやっても、彼女は私の喜びには一切気がつかない風でした。でもクラスの生徒たちには私の変化が目にとまるようでした。私の笑顔がみんなに乗り移ったかの様子でそれが分かりました。
 そんな気疲れをしながらもいいことの多かった1年間だったのです。半年ほど経った頃には久美子との井戸端会議は行われなくなっていました。学校で他の生徒たちを交えての井戸端会議は気を使わないですむおしゃべりタイムでした。そして久美子は卒業していきました。その後の彼女のことを私はまったく知りません。家族に見捨てられたような彼女に幸せが訪れていれば、と願うのみです。

 
                                         

                        後  記


                    私はこの記事では久美子の家庭の事にはあえて触れないことに 
                   して書きました。匿名で記事を書いているとはいえ、もしこのク
                   ラスの同級生が読むことがあれば、久美子が誰であるかが分かる
                  のは私の本意ではないからです。

                               完


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