朝ドラ;”トラちゃん”が出会った傷痍軍人とH氏一家
「朝ドラ;”トラちゃん”と”ともちゃん”と私 1」で予告していたような気がするが、今頃になってからつづきを書き始めている。
傷痍軍人
傷痍軍人が駅のあちこちで(お決まりのように)ハーモニカ、手風琴(アコーディオン)、トランペットと言った楽器を奏でながら、通りすがりの人に缶の中にお金を入れてもらうのを、子供の時によく見たものだ。
父親に連れられて東京に行った時、その帰りに立ち寄った大阪駅では、早朝だったこともあり私はその雰囲気に怖かった。まだ小学中学年だった。
歩くというより小走り。
それは傷痍軍人や浮浪者がたくさんいたからだ。地元の駅周辺で見慣れていたはずだが、大阪駅構内の薄暗さが怖さを引き出したのだろう。
車のない時代なので、鉄道は移動手段としては誰もが利用する。駅はそんな人たちに訴えるもってこいの場所だったのだ。
その近くで、リンゴ箱(当時はミカン箱ではなかったが、同じようなものだ)を使って雑誌や新聞を売る人がいた。ちょうど踏み切りを渡ってすぐくりの場所が、この本屋さんの定位置だったようだ。
父親と駅方面に行くと、父は雑誌を購入するわけでもなく立ち止まる。
その雑誌売りの人に話しかけるのだ。いつもそうしていた。子供ながらに私はその人が父の知り合いであることに気づき始めた。
Hさんと言う名前のかなりお年の人だった。
教会がSG荘から隣の駅の近くに引っ越してみて、「やっぱりだ」と思った。その雑誌売りのおじさんが家族と一緒に礼拝に来るようになっていたからだ。
父がどのようにしてそのおじさん一家と知り合いになったのかは知らない。聞いておけばよかったが、今となっては遅い。
私はまだ中学生で、おじさんと話すこともなかった。
傷痍軍人の方々の前を通るとき、Hさんのリンゴ箱の上に雑誌がたくさん乗っているその屋台のような本屋さんを見たり、時には挨拶をしたりしたくらいだ。
Hさんがおじさんと表現したが、本当はおじいさんと言ってもよいくらいのお年だった。奥さんも同じくらいの印象だ。2人とも日本人としても背が低かった。苦労を表す腰の曲がりようが印象的だった。
父との接点としては、一番上の姉が一時通った高校の同級生だったからかもしれない。そう考えれば、納得がいく。
Hさん夫婦にはその姉の同級生とその妹の4人家族だ。その妹さんは障害があって、苦労しているようであった。
その妹さんの誕生日に、私たち家族が夕食に呼ばれたことがある。狭い1部屋のバラック建ての市営住宅だった。教会から徒歩10分もかからないかもしれない。
私の家族が訪問すると、それだけで部屋は満タンになった。小さなテーブルの上には(失礼を恐れず言えば)粗末な食事が乗っていた。
そこでハッピーバースデーの歌も歌った。それよりも、Hさん一家は讃美歌を歌うのが楽しくてたまらない様子だった。全く暗いイメージがない。全く普通に誕生パーティーだった。どんなに神に恵まれているのか、などと言う話を聞いて、私は驚いた。
私の家族自体が貧しかった時代だ。
へスラー教授
話は急に1982年にもどる。
私が留学中の年だ。
あるおばあちゃん教授の研究室を訪ねた。1月頃だったと思う。へスラーというその教授のクラスは大学院生と大学4年生からなる20名ほどのものだった。へスラー教授の授業はとにかく宿題が多かった。毎週のように宿題が出て、それをクラスで発表しなければならない。
私はどういう質問をしたかったのかはもう忘れたが、宿題に関する解決が見えなくて、質問に行ったのである。とても気安く応対してくれるのだが、答えは自分で探すものよ、と言わんばかりに小さなヒントしか教えてくれない。
「それよりも、あなたに謝らなければいけないことがあるのよ」
へスラー教授はグレーの眼を一杯に広げて、急に話を変えて真面目な顔をした。
「アメリカが第2次世界大戦の時に、アメリカ国籍の日系人を収容所に送って、財産も結果的に没収したようなことになってしまったのよ」
「だから、アメリカ人の一人として、私は日本の人たちに謝らないといけないことにきがついたの」
私はへスラー教授のこの言葉に感動した。
収容所のことは幼い時に父親から聞かされていたので知っていたのだ。
駅の近くの踏切付近で、リンゴ箱を並べて雑誌を売っていたHさん一家は、へスラー教授が言っていた収容所に入れられた中の家族だ。
収容所に行かなければいけない直前にお触れが出て、慌てて手荷物一つのようなイメージでそそくさと集合場所に行ったらしい。
隣近所のアメリカ人に持ち物を売って行くのだが、安く叩かれてそれまで勤勉に働いて得た財産を取られるようにして集合したらしい。
戦後、「釈放」されて、カリフォルニアに戻っても何も残っていないので日本に戻ったということらしい。
そして教会近くの市営住宅という名のバラックに住むようになったらしい。
何年間か父が牧会する教会に家族そろって出席していた。
「Hさん一家がアメリカに帰ることに決めたらしいぞ」
我が家の食事の時間は、いろいろな情報を家族で共有する時間だ。子供も発言を許されていた。
いろいろな話をしながら、私はHさん一家の一人一人の顔を思い出していた。
父が話してくれたように、Hさん家族が教会に来なくなった。渡米したのだ。帰国したのだ。
Hさんが住んでいた市営住宅の前を通るたびに、ご家族のことが脳裏に浮かんだ。
何となく寂しい気持ちだった。
父のアメリカ伝道旅行
「お父さんは今度アメリカに行くことになったぞ」
これにはびっくりだ。
姉や妹、兄が留学中だったが、それを上回るびっくりだ。
「Hさんがアメリカの教会で話をしてほしい、と手紙が来たんだ。Hさんはカリフォルニア州で庭師として成功しているらしい。顧客がたくさんできたらしい。」
というわけで、父親は1か月の「伝道旅行」をすることになったのだ。
(私の頭の中は渋滞中だ。どの記事で何を書いたかが分からなくなっているのだ。認知症?ではないと思うのだが・・・)
この「伝道旅行」のごく一部は既に「おやじの裏側 18. UBCを舞台にして」の最後の部分で記録している。
私の父親は、アメリカで子供3人との再会を一度に果たして、さぞかし嬉しかったことだと思う。
しかも、母親まで同行していたのだ。
母親は目立つことは苦手なはずだ。きっと父親の側でニコニコして存在を消すようにしていたに違いない。
そのくせ、父親が相手の英語が分からないと、ちょろっと解説していたらしい。父親は明治の人間にしては大胆にブロ-クンイングリッシュで攻めまくっていたらしい。
そういえば、私は1年間の留学の時に辞書を1冊だけ持参した。その辞書は父親が昔から大事にしていた辞書だ。『コンサイス英和・和英辞典』だったような気がする。ポケットサイズなのに、10万語を超える所蔵の辞書だ。実際には留学中、辞書など引く暇はなかった。とは言え、私にとってはお守りみたいなものだった。
再会
私はHさんのお嬢さんとサンフランシスコで再会している。
1970年のミシガン大学への短期留学の時に、LAの兄のところから彼女がいるサンフランシスコに行き、そこで1週間を過ごさせてもらった。
彼女はいろいろな話をしてくれた。
彼女が働いていた教会のアパートを無料で私が使用できるように許可を取り付けてくれていた。「JAPAN CENTER」のすぐ前だ。
母親がぜひ連れて行ってもらいなさい、というミケランジェロの「最後の晩餐」を題材にした蝋人形館では感動した。
あの有名な絵そのものと思われるような蝋人形なのだ。しかも、それ以外に何も展示物がない美術館なのである。
それなのに、人々がひっきりなしに訪れ、物音も立てずに静かに長いすのあちこちに座っている。
時には、生まれて初めての「スモーギャスボード」で御馳走してもらった。
(「スモーギャスボード」とはスウェーデン語で今でいうビュッフェスタイルのレストランだ。)
そこでは、いろいろな国の料理をたらふくお腹に収めて大満足だった。ミシガンに着いてから、早速辞書で調べた。その時の辞書は『英和中辞典』だった。
まだまだ書き足りないが、これくらいにしておこう。とにかく、私の家族とHさんご一家はつながっていたのである。障害を持った妹さんはアメリカで天国に行ったとのことであった。
重要な付録画像
これは、LAのダウンタウンを歩き回っていた時、偶然日系人の記録を展示している施設に出くわせた。その時にたくさんの画像を映したものの一つだ。表紙画像もその一つである。
残念ながら、その施設の名前を忘れてしまった。
ここに書いてあるのは、1991年に日系人に対する「謝罪」の内容である。
署名は当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュによるものである。
へスラー教授が私に謝ったように、国として当時言われなく故郷を追われて収容所に送られた全ての日系アメリカ人に対してなされたものである。
完
ふろく
施設名が不明と書いてしまったが、どうしてもスルー出来なくて、この施設で写してきた写真をこまめに見ていると、ある発見があった。それはその施設の名称だ。