海外での見知らぬ友 3
Excusez-moi
「エクスキュゼモア」(英語ではExcuse me)
久しぶりに思い出した。
2014年の夏、私は初めてのパリにいた。
妹が住んでいた。
連絡を取ると、住んでいる場所のすぐ近くがバスティーユ広場だという。
私にとっては最高の場所だ。
私が大学を卒業して、英語教師として就職すると、父が1冊の小さな本をくれた。
『A TALE OF TWO CITIES』(二都物語)
イギリス文学でシェイクスピアともう一人と言えば、ディケンズだ。彼の作品をくれたのだ。相当古くなった本だった。恐らく父が大事に持っていたのだと思えた。
初めて高校3年生の担任をした時、私はこの本を自分なりに翻訳してみたいと思った。
生徒たちが大学入試に向けて必死で勉強する学年だ。
だから、生徒に負けないように自分も何か目標をもって密かに生徒を応援したかったのだ。
その時以来、私は高3の担任になると、家で何かを努力する習慣となった。
ディケンズの小説は長編が多い。『クリスマスキャロル』のような中編物もあるが、主として長編を書いている。
それだけではない。
登場人物があまりにも多く、読むのに苦労する。訳すのにも苦労する。
(私は出てくる登場人物をそのたびに登場した頁を記録して、遡る手間を省いたりしながら読みました。これが意外と役に立ちました。)
バスティーユ
この本の第5章「ワインショップ」で登場するのが、妹が住んでいたバスティーユ広場ではなかろうか。
1789年7月14日。フランス革命の発端ともいえるバスティーユ牢獄襲撃事件が発生した場所だ。
この第5章の「ワインショップ」の前で、ワインの樽が貴族の馬車のせいで壊れて道にあふれてしまうのだ。
その辺にいた民衆が我先にと石を敷き詰めた道路にへばりついてこぼれたワインをすするのだ。中にはタライを家から持ち出してその中に移す。
私は実際にその広場に行って石畳を見た時、瞬時にこのシーンを思い出した。ディケンズが描写したそのままのワインがこぼれた現場が、そこにはあった。
私はパリに行くと決めた時には、絶対にバスティーユから「サン・タントワーヌ通り」(貴族がつかまって絞首刑されるために馬車で民衆の嘲笑を浴びながらコンコルド広場へとつながる通り)を歩いてみたかった。それは滞在中2度やってみた。父親がくれた小さい(文字ももちろん)本にあった文章を思い出して心ひそかに興奮していた。
パリにいる間、妹の家に泊めてもらって、とにかく歩き回ったのだ。歩いたことのない場所を捜し歩いて、目的地が見つからない。分からない。
となれば、道を聞くしかない。
私はパリに行くことに決めたその年の4月から半年間、フランス語の勉強をした。当時大学主催の社会人対象講座の中の英会話初級クラスを持っていたので、彼らに宣言したのである。
「私は9月にパリに行きます。それまでに簡単なフランス語表現で切り抜けてきます」
私は大学で第2外国語にドイツ語を専攻した。そして2年の時に友達とこっそり1年生のフランス語のクラスを盗み聞きした経験がある。残念ながら、試験がないと勉強しないことが判明。
それ以来のフランス語の勉強だった。
「Je cherche ~」(ジュシェルシェ)
( ~を探しているんですが)
「C’est par la?」(あっちの方ですか?)
いろいろな日常表現を、単語カードに小さな文字で書いた。
単語カードは妹の家に置いて、一日の旅が始まる。
妹には、いらんこと案内するな、と日本を発つ前にメールで告げていた。
それでも近くのマルシェやどこかの有名な骨董市に同行してくれた。本人が行きたかったのだ。マルシェは私が頼んだ。写真を撮りたかったのだ。
前日に撮ろうとして店主の女性に大怒られしたからだ。大抵許可を求めるのに、つい面倒くさくて、許可を得ずにカメラを向けたのだ。同じ店で妹に買い物をしてもらい、許可を取ってカメラを向けたのだ。快く承諾してくれた。
外国で一人歩きをしていると、道が分からないと困ってしまう。
パリのどこだったか思い出せないが、道が分からなくなってしまった。
パリは観光客だらけだから、そこらへんにいる人たちに道を聞いてみたところで、みんな知らないのだ。
でも、知らないと思われるのが嫌な人たちなのかもしれない。適当に教えてくれるのだ。
適当
それが本当に「適当」だったりする。
私が聞いた女性は、指を刺してある方向を示した。
私はきっと違うだろうと思いながら、これもこの旅行の楽しみだ、と勝手に楽しみながら指示してくれた方角に向かって歩いてみた。
案の定だ。
歩いても歩いても・・・お察しの通りとなった。
少なくとも、彼女は教えてくれたことにはなる。
つまり、彼女の指さした方向には探し物はない、ということだ。
私はしばらく時間をおいて、きびすを返し元来た道を戻ることにした。その間約10分。
彼女たち(2人いたのだが)がいなくなっているといいな、などと思いながら戻ったのだが、2人はまだ座ってジュースを飲んでいた。
「どうだった?」
忘れてくれても構わないのに、私の顔を確認して一人が私に声をかけてきたのだ。
「残念ながら、こちらではなかったみたい」
さすがにこれは英語でのやりとりだ。
そんなフランス語表現は準備できていない。
少なくとも、2人はフレンドリーであったことは間違いない。
パリを歩き回っていると、あちこちに若い女性グループに出会う。
この場所で出会った女性2人は、それらのグループではない。ただの友だち同士と言った関係と見受けた。だから道を聞いたのだ。
要注意グループ
危険なグループもいる。
エッフェル塔の下の広場で散策していると、そういうグループが近寄ってくる。
しかも、東洋人とみると、日本語で話しかけてきたりする。私は近づいてきた時点で既に身構えている。
何を話しかけてきても、知らぬ顔を決め込む。日本語で話しかけてくると、肩をすくめて英語でまくしたてる。これだけで、彼らの友情は失速する。
私から離れて行くと、他のターゲットに近づいて行くのだ。その切り替えの早さは立派と言えるほどだ。
私は芝生に寝そべって、彼らの動きをしばらく見ていた。
気になる人たちが目に入ったからだ。それは彼女らよりも年配の男性陣だ。その男性陣に近寄って、何やら打ち合わせのようなことをしている、そして、またそこを離れて観光客を物色しに行く様子なのだ。
実は、私より1,2年前に姉が妹のところに行ってパリを満喫している。
その時に、彼女はそんなグループに見事財布をすられている。しかし、すぐに気づいて3,4人のグループに食って掛かったという武勇伝を帰ってから聞いた。
姉には武勇伝が似合うのだ。
姉は英語がアメリカ人並みだ。
財布をすった女性は、すぐに別の女性にそれをパスして知らぬ顔だ。それでも姉は引き下がらない。もめているうちに警察に騒ぎを聞かれたら困ると思ったのか、グループの親分格の女性が動いた。
「その財布にはいくら入っていたの?」
姉は適当な額を言ったと言って笑った。そんなもの覚えているわけがないというのだ。
親分女性は、ポケットからお金を出して姉に渡したということだった。
その場でさっと数えてみたら、(多分)取られたよりも少し多い気がしたから、許してやった、などと笑いながら話してくれたのだ。
姉の迫力勝ちと言ったところだろう。
そんなときの姉の迫力は、弟の私が太鼓判を押す。
同じような見た目でも、友なのかそうではないのか!
サクレクール寺院がモンマルトルにある。その真正面には広い階段が見上げるように続く。その右側には階段が無理な人のために遊歩道がゆったりと続いている。
ところが、左側には木々で見づらいのだが、坂道がありケーブルカーがある。私はそこを歩いて降りたのだが、例の友でも何でもない女性グループが活動していたのだ。
私はこの時は彼らが英語で近づいてきたので、シアトルの港でホームレスの人に絡まれた時のように、「英語分からん病」にかかって見せた。つまり、日本語でしゃべりまくったのだ。キョトンとしたグループを置いてきぼりにしてその後の一人散策を続けたのである。