おやじの裏側xxiv (24. 朝ドラ「おむすび」と大水害)
怖いテレビの映像を見てしまった。
2024年10月終わりから11月初め頃の朝ドラ「おむすび」の中だ。
タイトルの雰囲気からして、ギャルの話題からして、
オレは記事にする気持ちはなかった。
さすがに脚本家はすごい流れで大震災にオレたちを誘った。
オレの娘も当時滋賀県に在住していた。
卒業後にその場所に勤務するようになったのだ。
オレは電話をかけてみた。
電話をかけるにあたっては、少なからず勇気がいった。
娘が電話口に出た時には、ほっとした。
滋賀でさえ、かなりの揺れを感じたとのことだった。
結果的には何事もなかったようで安心したのは
随分昔のような気がする。
朝ドラで大地震に出会うことになろうとは
想像すらしていなかった。
オレはあのような自然の大災害を思い起こすと
必ず思い出す災害がある。
オレ自身は直接的な被害を被ったわけではない。
オレの周り中が被害を受けたのだ。
水害だ。
洪水だ。
日曜日の朝だ。
礼拝だ。
オレは病気で衝立の後ろで寝ていた。
(おやじの裏側i (1.SG荘紹介)参照)
讃美歌の声。
おやじの説教。
祈りの声。
3階建の2階部分なので、雨の音は遠くで聞こえる感じだ。
これはSG荘にまだいた時だ。
オレが9歳くらいの時だ。
礼拝が終わる。
母が急いでオレの寝床に来た。
「早く起きてっ」
「一番いい服を着なさい」
「早くしなさいよ」
オレは何のことだかさっぱりだ。
母親の声の異常さに合わせて、
衝立の向う側では
信徒の方々の声が聞こえた。
この声も異常さをオレに運び込んできた。
服を着替えて、衝立の向う側に行くと、
おやじも兄弟たちも信徒も
全員が廊下に並んでいた。
外を見つめながら、大きな声で驚きを表していた。
オレも遅ればせながら、大人たちの隙間に身体を忍び込ませる。
もう病気であることをすっかり忘れてしまう。
眼下には、見たこともないすさまじい景色が動いていた。
SG荘の人たちが正月に餅つきを頼んでいたその場所には
床屋(散髪屋)があったのだが、
そこのおじさんが必死になって
水が入ってこないようにいろいろなものを店の入り口に置いていた。
びしょびしょになっていた。
その体は既に水に使っていた。
現在バス通りとして使われている道は
その当時と同じ広さなのだが、
それはもはや「道」ではなかった。
濁流が流れる「道」だ。川だ。
その濁流の中を、家の屋根が流れる。
材木とは言えない木々が流れる。
樹が流れる。枝が流れる。
少し前までは家だったことをうかがわせる「家」が流れる。
雨がそれらの「家」や樹々の枝の上にかぶさってくる。
下り坂なので、留まるところを知らない。
信徒の方々が、一人去り二人去る。
SG荘の上り框を過ぎると、
上を見上げている。
その顔には不安が満ち溢れている。
その先の階段を降りると、道路なのだ。
歩道に足を入れるのが怖そうだ。
そりゃそうだ。
もうそこは荒れ狂う川になっているからだ。
そこにおやじが急いでやってくるのが見えた。
一言二言話していたが、
その人たちは階段を上がってきた。
おやじが一人で2階座敷まで上がってきた。
「みんなを送ってくるから」
完全武装をしたおやじの姿が
SG荘から再度姿を見せた。
みんなは下の上がり框で待っていたのだ。
おやじは当時いくつだったのだろうか。
今調べてみると、私はおやじが41歳の時の子供だ。
と言うことは、オレが9歳なら、おやじは丁度50歳だったと思われる。
おやじはオレの眼には元気一杯だった気がする。
信徒の手をつないで「川下」に下って行ったに違いない。
下の電車通りは胸がつかるほどだったと聞かされた記憶がある。
狭いオレたちの部屋に
泊った信徒もいた。
帰るには危険すぎるからだ。
当然9歳のオレはテンションマックスだ。
お客さんが泊るだけでうれしいのだ。
にぎやかな夕食。
粗末なおかず。
みんなで食べれば怖くない。
オレの熱はすっかり引いていた。
病気になっている場合ではないのだ。
SG荘の下の道路は
いつまでも濁流が流れて
いろいろなものを流し続けていた。
だいぶ後になってから
おやじが関東大震災の話をしてくれるようになった。
当時おやじはまだ教会にいっていない。
10万5千人もの人々が亡くなったり行方不明になったという
日本の自然災害史上最悪の災害だった。
1923年9月と言うから、昨年が100周年と言うことになる。
オレの家族がSG荘に引っ越す前に住んでいたのは
オレの兄弟が通っていたS小学校のすぐ近くだ。
そこではオレたちが住んでいたバラックがえらい被害を被る災害に見舞われた。
デラ台風だ。
1949年6月だ。
オレが5歳の時だ。
石垣の上の家主さん所有のちょっとした広場に
バラックが建っていた。
その奥が家主さんの家だ。
その石垣が
見事に
崩れたのだ。
バラックは宙に浮いた。
2部屋のうちの
崖側の部屋の半分くらいが宙に浮いた。
最初は知らないで
その宙に浮いた部屋側に移動した。
バラックがシーソーのように揺れた。
オレたち兄弟3人が
それを面白がって
行ったり来たりした。
勿論そっと移動してみたのだ。
「すぐ部屋を出なさい」
おやじの大きな声が聞こえてきた。
もう一つの部屋に出入り口がある。
その入り口におやじが仁王立ちだ。
オレたちは、しおっとなって外に出た。
外に出てびっくりだ。
(壊れた)崖の向うに部屋が一部浮いていた。
家主のおばちゃんが
その家の勝手口をあけて
中に入れてくれた。
何度か遊びに行ったことがあったが、
その時、初めておばちゃんの家の奥深くに入った気がした。
後にオレと同級生になる「やっちゃん」がいた。
彼がオレを奥に連れて行ってくれた。
どの部屋も
どの部屋も
オレにはまぶしかった。
オレの家にはないものがたくさんあった。
部屋にはいろいろな置物が飾ってあった。
オレが教員を退職して
やっちゃんを訪ねた時に
玄関の下駄箱に置いてあった置物に
オレは懐かしさがこみあげてきた。
そういうわけで、オレたちの家族は
「SG荘」にb引っ越したのである。
その場所で起きた「大水害」。
オレは小学生になって
校区外の通学性となって
S小学校に通ったのだ。
毎日、新しく積み上げられた石崖を見上げながら・・・。
雨の日には、石垣に沿って流れる溝に入り込んで
「ゴム靴」(長靴ではない)で歩いた。
ゴム靴の中に水が入り込む感触が好きだったのだ。
水害の後、オレはS小学校の講堂に行ってみた。
S小学校は高い場所に建っていて、
校舎のすぐ後ろの崖の上に
竹藪があった。
それこそ、オレたちの放課後の遊び場だ。
学年の2つのクラスが
敵味方だ。
細い竹ばかりなので
それぞれで陣地を作っている。
その上の方に下に落ちないように
小さな家々が必死で土地にしがみついていた。
細い道は小学校の上の方に
住民が降りられるように続いていた。
その道をたどると
講堂の裏側に出て、更に進むと
下に降りる道と合流する。
オレはそれとは反対側に広がる運動場の
入り口から入って、
そこを縦断する。
その先に広い階段があって
そこを上るのだ。
その階段で毎年クラスの記念写真が撮られた。
階段を上がると、右手に職員室。
左手に講堂がでんと構えていた。
講堂の中を覗くと、
避難民であふれていた。
素早く同級生を探し当てる。
ごちゃごちゃの下足の上を
跨ぎながら、友達の家族の場所に行った。
喜んでくれた。
退屈していたのだ。
お腹が減っていたのだ。
オレは親から預かった「おにぎり」を渡した。
うまそうに食べる友達をじっと見た。
「○○チャンも食えよ」
「そうよ、○○チャンも一つ食べなさい。折角持っきてくれたんだから」
オレはちょっと違うような気がしたが、
一番小さいおにぎりをもらった。
友達が誰だったかは、
今となっては思い出せない。
その家族の一員のような顔をして
そこに敷かれたござの上に座っておしゃべりだ。
完
追伸:この水害の話はまだまだあるが、この記事はここまでにとどめることにしました。ありすぎるからです。