おやじの裏側xxi (21. 学費との戦い)[「おやじと修学旅行」の続編]
(この記事は「おやじと修学旅行」の続編として記事にあげました)
(この表紙画像は、私のオリジナル・シーグラス・ランプシェードです)
予約奨学金
オレは大学の予約奨学金をもらっていた。
将来教師になるものは、教師になった暁にはその奨学金を返却しなくていい、というなかなか結構なものだ。
卒業してから、その奨学金をせっせと返し始めた。
オレは最初から返すことに決めていたのだ。
そうすれば、オレが返し終わった時に、国の奨学金の人数がオレの分、一人多くなると何故か子供じみたことを考えていたからだ。
全額返金することができた時には、とても感激したことを覚えている。自己満足であることは承知の上のことだ。
大学入学金と学費と(高校の)奨学金返還と通学の電車代金のために・・・!
オレは主として家庭教師のバイトをいそしんだ。
しかし、子供が卒業するとその仕事はなくなる。そんな時は、心細くなる。
不思議に、それを見越しているかのように教えてくれと言ってくる親がいた。
オレは顔には出さなかったが、小躍りだ。
でも、いつもそううまくいくわけがない。
そんな時には、他のバイトの口が湧いてきたから助かった。
列挙してみると・・・
選挙等の世論調査
これはなかなか大変だった。
1軒1軒家を探し当てて、質問をする。家にいなければ、再度訪ねなければいけない。
オレは大学の社会学の教授に気に入られて、新聞社などの世論調査があれば声がかかった。
中には、バイト生が担当の家が怖い場所にあるという理由でしり込みをしたりするのだ。当然、オレに声がかかる。だからと言って1軒いくらというバイト料は同じ額だ。
しり込みをした仲間の気持ちは、十分に理解できていた。現在は都市整備等でその場所はむしろ観光客が多く寄り付く場所に変わったが、当時は不法建築地帯で、そこに入り込むのは相当な勇気がいることは、行ってみてさらによく分かった。
オレが代わりに行った場所は、その不法建築地帯のど真ん中だった。
オレは元々そのような場所を忌み嫌うという考えはなかったが、それでも深呼吸をしてからその辺りに入り込んでいった。
該当する家を探すのが大変だった。細かな住所が提示されていないのだ。
仕方なく、家々がひしめいている場所で見かける人にその場所を聞いてみた。
意外や意外、優しく応答してくれ、最終的にはその家まで案内付きといった具合だ。
真夏だったこともあり、その家は開放的で裸で涼んでいるところだった。川沿いにあるその地帯は涼しそうな場所でありながら、密集しているので暑苦しそうであった。
オレが挨拶をすると、その家の主がうちわであおぎながら話しかけてくれた。
「おい、にいちゃん、この暑いのに大変だのぉ。ま、中に入り。丁度スイカを切り分けたところだから、食べて行きいな」
オレは、バイトとしてはさっさと返事をもらう方がよかったのだが、そんな雰囲気ではない。ここは気持ちを落ち着かせてゆったりと返事をもらう方が良さそうだ、となった。
食べたスイカはよく冷えていて、汗びっしょりの体を冷やしてくれた。
「おいしいです。暑かったのでありがたいです」
オレは食べながら返事をした。
どこの家に行っても、当たりくじを引いたみたいに相手をしてくれるのだ。
「どうしてこの家がアンケートの対象になったの?」
「無作為抽出と言って、くじに当たったようなものですよ」
この「当たりくじ」作戦は結構効き目があった。殆どの人が自分は特別なんだと勘違いをしてくれるのだ。
対象者を怖がるバイト生だけではなく、集計下手な学生も少なからずいた。
集計に手間取るのだ。そんな時にはオレに声がかかる。数字に強いという理由だ。
それらのことは、実はオレには楽しくてたまらなかった。あっという間に集計が終わるのだ。秘策を持っていたからだ。オレは結局新聞社の担当者から、集計で不安な人は、オレのところに持っていくように・・・と決められたのだ。バイト料が多くなったことは一度もなかったが、実はエンジョイできるバイトだった。
翻 訳
忙しい時に限って、声がかかるものだ。
ESSの後輩が声をかけてきた。
「先輩、鶏のエサの調合などに関する本を訳してくれるように頼まれたのですが、難しくてできそうにないんですよ。先輩に頼むわけにいかないでしょうか?」
オレは大学の授業は予習復習をまじめにやっていた。自分で学費を出すということは、そういうことなのだ。ESSの活動も活発に楽しんでいた。
オレは、この翻訳のバイトを引き受けた。
引き受ける余裕はあまりなかったのだが、面白そうなのでやってみたかったのである。
なかなか大変な仕事だった。小冊子とは言え、数十頁もあるのだ。翻訳料は覚えていない。
時間に隙があれば、必死になって取り組んだ。
締め切りに間に合うように、後輩に託した。
オレが苦労して訳した場所がある。それは、本の核になる言葉のキャッチコピーみたいな訳を心がけてみた。
ある日、汽車に乗って車窓をぼんやりと眺めていると、その餌を作る会社のネオンサインが目に入ってきた。
オレは驚いた。
苦労して、これと決めて訳したその訳がピカピカと光っていたからだ。
オレの翻訳が受け入れられたことが嬉しかった。
他にも翻訳依頼はあったが、それは書くと長くなるのでやめる。
タイプライター
オレは米英語学科に学びの場所を得ていた。
卒業論文は、英語と日本語の両方を提出しなければならない。
英語は当然タイプライターで書かなければいけない。
大抵の学生は、タイプライター部に依頼をしていた。そうでない人は、外部のプロに頼むのだ。当然ながら、外部に頼むときれいに打ってもらえるが、その分1枚の単価が高い。
そこでタイプ部に依頼することになる。早く予約を取らないといけない。安い分、依頼が殺到するのだ。
そこでオレが考え出した解決策がこれだ。
依頼するとお金がかかる。
それならば、いっそのことタイプライターを買って自分で打てば「ただ」になる。
しかし、タイプライターの当時の値段が12000円前後だった。
タイプライターを買う方がお金がかかるのだが、教師になれば間違いなく役に立つ代物だ。そう考えれば安いのだろうが、当時としては、12000円と言えば、1か月分の給料に値する。
オレは解決策をすぐに手に入れた。
同じクラスの友人に声をかけて、卒論を打ち込んでやる、と提案したのだ。勿論タイプ部が提示する金額よりも安くしたのだ。
となれば、卒論をタイプするのを依頼されて、そのお金でタイプライターを買ったことになるというわけだ。
オレは人の卒論を有料でタイプするのだから、練習をしっかりした。
元々オレは自分の卒論は大学3年の時に書き終えていた。だから、まず自分の卒論を打つことで充分練習をすることができたのだ。
教則本のようなものも一緒に手に入れて、それを1頁ずつ指使いを練習して見なくても打てるまでに仕上げることができていたのだ。
そのおかげで、今でもこの原稿を下書きなしにTVを見ながら打つことができているのだ。最盛期には多分1級か準1級程度のスピードで打つことができていたはずだ。
そのうち、ワープロを買うことになるのだが、それとて、タイプと同じだ。
留学中も、中古の電動タイプライターを手に入れて、宿題の論文を作成することができた。
アメリカの大学生は卒業するときに古くなったタイプライターなどを安価に譲ってくれるのだ。
オレも留学終了時に、同室の学生に売って帰ってきた。
本当は壊れていたから、何度も断ったのだが、それでもいいというので、買った時の半値で譲らざるを得なかった。いわゆる「Win Win」の解決となった。
要するに、オレは自分の卒論原稿を無料で仕上げ、タイプライターも結局無料で手に入れたことになり、しかも、キーを打つ指使いもしっかりと身につけることができたのだ。
新聞広告
金銭的に最も苦しい期間が訪れたのは、大学3年時の後半だ。
奨学金や学費だけでなく、入学金の父親への返金、ESSの活動でもお金がかかる。
オレは今でも交流がある友人と、近隣の高校生対象の「スピーチコンテスト」を企画したことがある。
ESSの顧問をしてくれた教授が、オレにモデルスピーチをやれ、と言ったので、友人がプログラムに印刷してしまった。
オレは、ウキウキしてスピーチを作り上げて、当日披露したのである。
プログラムを作成しその印刷代を入手しなければならない。つまり、企業からの「広告料」を手に入れる活動が待っていたのだ。
オレはもちろん、タイプライターを買った「ブラザー」の販売店で広告料を依頼し受け取ることができた。あちこちに飛び込みで依頼するのだ。これは「世論調査」のバイトがよい経験となった。飛び込みばかりの世論調査だったからだ。
とは言え、全く家庭教師の仕事が終わってしまったことがある。
こればかりは「飛び込み」などできるはずがない。ただ待っているだけで、湧いて来ることもない。
考えあぐねて、オレは「新聞広告」をしてみようと思った。
地方欄の頁に、無料で依頼をすることができるコーナーがあるのだ。
偶然そのコーナーを目にしたことで、「新聞広告」を思いついたのだ。
早速ハガキに書き込んだ。
家庭教師の希望者を募る文面だ。
数日して、玄関の呼び鈴が鳴らされた。
丁度オレがいたので出てみると、新聞広告に対する応答だ。
顔には出さず、小躍りする心の中を見透かされないように気を付けて対応した。
「家庭教師の希望者を紹介できるのですが・・・」
これは「あやしい」。
「ただし、条件があるんですが・・・」
やはり、相当「あやしい」。
大きなカバンから何やら取り出し始めた。
オレは教会に住んでいたから、その礼拝堂に案内したのだ。
当時はイスではなく、板の床に信徒は座って牧師の話を聞いていたのだ。そのうち、おやじは、教会は家にないものを置かないといけない、と言って、会堂に絨毯を敷くようになった。その上に座るのだ。
絨毯が入る前のことだから、広い板間のスペースにその人はいろんなものを広げ始めた。
「すみませんが、何を勝手に広げているんですか。許可を取ってからにしていただけませんか?」
彼は何かのセールスに来たのだと直感した。
当時はやりの百科事典のセールスに来たのだ。月賦で購入すれば紹介するというのだ。
オレは百科事典は好きだ。家庭教師で稼いだお金で買っていた。
とうとう、オレは追い返すようにして帰ってもらった。彼が家庭教師の紹介をする気など全くないと分かったからだ。
そもそも、お金がなくて困ったから新聞広告を出したのに、百科事典など買えるわけがない。
勿論、追い返されたその人は2度と姿を現さなかったし、紹介などしてくれなかった。
そういう手痛い無駄な時間を過ごして、少々腹立たしかった不愉快な思い出だ。
家庭教師のバイトは半年以上なかったが、それまでの蓄えで事なきを得た。
結果として、学費も通学の電車賃も4年間、全て滞ることなく過ごすことができて、隣町の学校の英語教師として就職することができた。
社会学の教授にだけは、教師になってから顔を出して、喜んでもらえた。
こういう経験を、オレの母親などは「4年間、神様に支えられたねぇ」と言って喜んでいた。
おまけの話
オレは実は・・・卒業式の1週間前に結婚式をあげた。
このことを書かないかもしれないので、ちょこっとだけ・・・おまけ。
結婚式の時にオレの手元には5000円しか残っていなかった。アパートの契約金や前金は支払って既に準備完了だった。
結婚披露宴などしていない。
結婚指輪の交換もしていない。代わりに聖書の交換だ。妻なき今、オレの手元にはその時の聖書が2冊残って使っている。
勿論、新婚旅行などできるわけがない。
就職先の教員たちで、オレが結婚していることを知っていたのは、式に参列してくださった院長ただ一人だ。
オレは、ミシガン大学留学の帰途寄ったホノルルにできたばかりの「アラモアナショッピングセンター(Ala Moana Center)に義姉の案内で行った時、妻にピンクのサンゴでできた飾り物を土産に持ち帰った。
妻とは旧婚旅行で16日間のアメリカ旅行を進呈した。
その時に、グランドセントラルステーション(マンハッタン)の隣にある宝石屋で、誕生石でできた指輪を選んでもらった。現在は同じ月の誕生日の孫娘に持ってもらっている。
オレが彼女のために指輪を買うことはなかった。代わりにおやじが自分が持っていた金の指輪(どこか外国に行った時に買ったものらしい)を妻の指に合わせてくれた。しかし、妻はその指輪をなくしてしまった。
オレがミシガンに留学するときに、先輩の同僚英語教師がこんなことを言って励ましてくれた。この先輩は公立高校を退職後に再就職してきた人だ。
「若いうちに留学するのは絶対にいいよ。良く決めたね。結婚してしまうと、なかなかそうもいかないからな」
「先生、実は大学卒業の1週間前に結婚して、長男が生まれたばかりなんです」
「えっ!知らんかったな」
「そうなんです。殆どの先生は知らないと思います。生徒たちは一部知っているみたいですけれども・・・」
完
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