割れないグラスを愛するものか
タイトルを考えると、どうしても抽象的なものになってしまう。でも、そっちの方が素敵に思える。「今日あったことはSとUです」と言うより、美味しそうなドレッシングの掛かっていないサラダなんて、「クリスマス」という記号がそもそも存在しない12月25日なんて、スタバの印がないカフェラテなんて、面白くないでしょう。
今年は、人に頼ることの意味を感じた一年。もっと人に頼って良いのだって思えたのだ。思い悩んでいるより、サッと動いてしまった方がいい、けど私は計画が目に見えたほうがいいから、ただのフッ軽にはなれない。塩梅が大事だ。
年末、所属する団体の人とのお話をしたり。「あなた変わったね」と言われる日が来るなんて。確かに変わった。話しやすくなっている、というのが一つである。今年は本当に色々な人と話をしたから。知らない人とも、よく知っている人とも。やっぱり人間、慣れと経験も大事だと思う。話せなくても、少しづつ話していけばそれなりのものにはなる。相手がするすると話してくれたりすると、私も幾分かはコミュニケーションが上手になったのかもしれない。多分。ただ、これはペラペラ速く話せるようになったとかではない。相手の意図をくみ取って、会話を変に中断させずに、コミュニケーションを取ろうとする姿勢を維持するという意味、だと思う。速く喋るのは得意じゃない。
今年は同時に大切なものを失ったか、或いは失うギリギリの淵に立たされた一年でもあった。「失って初めて気づく」という箴言を誰かさんが残しているので、私はその誰かの反省を自分の反省にしないために動こうと心に決めている、と思う。「ありがとう」が何故感謝の言葉になるか、最近腹で理解した。感謝とはきっと、何かを当たり前のものだと思わないようにする戒めの言葉なんだろう。「ありがとう」という言葉一つで、ワイングラスはただのワイングラスではなく、割れてしまうワイングラスになる。つまりどういうことかと言うと、割れないワイングラスは丁寧には扱われないから、それが万が一壊れてしまうなんてことも想像されない。だが、割れてしまうワイングラスはどうだ? そのワイングラスを大切にするのは、割れてしまうことが想像できるからだろう。一つ一つに砕け散ったあの残骸は、もう元のきれいなグラスではない。その虚しさを先取りするから、大切になる。と、こういうことを、思想家の内田樹という人が書いていた。私は納得した。私は、ね。
常に自分の周りのあるものは、割れてしまうワイングラスであろう。おそらく。だからぞんざいに扱うなんて到底できないのだ。育んでいくしかない。大切に大切に寄り添っていくしかない。若いにしては割とまともなこと言ってないか? 多分。ハラハラドキドキするものは好き人はそれでもいいと思うの。けど、それが誰かを傷つけるなら、その責任の所在をうやむやにするのは虫が良すぎる。身勝手ともいえる。自分が側にいて、安心すると言われるような、そんなゲームのセーブポイントくらい安心できる何かになりたい。
もう少しで今年も終わり。学生生活もも~うちょっと。社会人になった先輩大変そうくらいの感じである。時間があるから、金がないこと理由にせずにいっぱい出来ることをしよう。金はあるけど時間はないと言い訳して結局何もしないとか、マジでない。いつも何か足りなくて、何かは余っているはず、だろうから。