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動き続けるものだけが美しい―丹宗あや「曖昧に笑うのはもうやめた」評

去年の夏の終わり頃にnoteに投稿を始めた頃、「どうせ、インターネットに純文学なんて載せても誰も読んでくれないだろうなぁ」と半ば消極的な気持ちでいたのですが、そんな時に「小説」のカテゴリーで純文学を連投しているとある作家さんを見つけてえらく興奮したのを覚えています。

それは例えるなら、まるで温かい泥の中に少しずつ沈んでいくような、一つの渦の中に吸い込まれていくような、そして最後にその中から生まれる蓮の花を見るような、とにかく「すごいものを見た!」という感動があり、まさにそれが投稿を続けていくモチベーションの一つになりました。


まさか一年後にこうしてその方の批評をさせてもらえるなんて思ってませんでした。とても不思議な気持ちでいます。

言わずもがなですが、今回は丹宗あやさんの批評となります。


研ぎ澄まされ、磨き抜かれた構成

今回の作品に関して成田が刮目したのはなんといっても一切無駄のない文章のバランス、といった所でしょうか。短編と言う、分量的にはアイディアやフィーリングだけで何も考えずに書き通せてしまいそうな中で、完璧に無駄のない世界が作られています。

おそらく、丹宗さんならもう少し長く書くこともできるのでしょうが、今回はぎりぎりまで無駄を削ぎ落とした印象を受けました。
例えるならまるで試合前のプロボクサー!しかも超技巧派です。
積み上げてきたモノを垣間見せられるような気がして、力任せに文字を詰め込んでばかりいる成田はぶるっとなりました。

何がすごいのか、もう少し詳しく述べていきたいので引用しながら見ていきます。

満足したようにママ達はそれまでの話題に戻っていく。別に用もないならわざわざ名前を出さないでほしい。反応しなければしないで、無視しただのなんだの騒ぎ出すんだから。

まず、開始早々からはっきり想起させられるこの人間関係の図。ここまで読んだだけで、作品の中の世界の成り立ちが誰でも簡単に分かってしまいます。そして気づいた時にはもう引き込まれている。まんまと丹宗さんの術中にハマってしまうのです。

「うん、ころなちゃん、かわいそうだったねえ」
飛び込んできた名前に、思わず顔を上げたくなるのを必死にこらえた。

そこから、虐待の話が飛び込んでくる。ガツンとヘビーなテーマを放り込まれましたが、もう読み手は逃げられません。
雨の日の朝、主人公の瞳孔が静かに開いていく光景が目に浮かびます。

「ああ、佐伯さんちみたいな」

さらに、そのテーマが単なるニュースではなく、目の前の現実として露わになります。雨、不快な人間関係、そして虐待。じわじわと物語がスピードを上げていくのが分かります。

佐伯さんはどう見てもまだ20代前半の比較的若い、吹けば飛びそうな影の薄いお母さんだった。活発な息子のハヤト君に引きずられるようにして登園していたけど、このところ姿を見ない。ハヤト君を最後に見かけたとき、顔一面に引っかき傷があった。気になって相談した園長先生は「今回が初めてですから」と、静観を決め込んだのがこの結果だ。

事態を一つの側面だけで見ようとしない、主人公の思慮深さが見られます。
どの程度主人公が世の中をフェアに見ているのか、それは物語の深い浅いをはっきりと決めてしまいます。つまり、この主人公は読み手にとって信頼に足るパートナーであることがここで分かります。

並んで教室から出てくる中に今度は本物のあおいを見つけた。私を見つけるとはにかむようにちょっとだけ笑って、すぐ前を向いて列に合わせて歩き続ける。今朝綺麗に編んでやった三つ編みがだいぶほつれていた。生真面目な顔を精一杯作っているその姿を見つめているととうとうため息が出た。

そしてついに自分の娘が出てきます。テーマがマトリョーシカのようにだんだん小さくなって、最終的に自分へと行き着くという、この構成の美しさに溜息が出るとともに、少し背筋が冷たくなります。的確に急所をついていく文体、精緻な構成、生々しいリアリティ、三拍子無駄なく揃えて書くには膨大な訓練が必要ですし、普段の生活から「小説を書く」という事に意識を向けてないとできないと思います。

さらに、この作品からは「単なる小説」の枠をどうにか破ろうという、作者の意志がヒリヒリするくらい伝わってきます。

全ての虐待を性教育で防げるわけじゃないけど、私や私の母親のような人間は少ないに越したことはない。だいたい、事が起こってからあんなふうに怒ったり悲しんだりするくらいなら、どうして事前に防ごうとしないんだろう。大人のくせに、守る力があるくせに。

「言いたい事は小説で」普段からの言葉通り、問題の本質に迫らんと、意識は素早く色んな方向へ行ったり来たりしますが、その間、あおいちゃんの「プリキュア」攻撃も緩みません。

「うるさいっ」

そして、この一言で張り詰めた糸がついに切れてしまいます。
そこからは小さな世界の修復作業。
翌日になれば、元の一日に戻るのかと思いきや、何かが変わっています。

しかしそれをどう解釈するかは読み手次第。
読んだ後も、誰かに話したくなったり、世の中を見る目が変わったり、きちんと現実世界へ還元されていく展開になっています。


瞬間の凍結。あるいは擬似的な永遠。

「純文学って何?」という質問に真面目に答えるなら、それは人の感情が大きく揺れる「ある一瞬」を、小説と言う器に閉じ込めた「擬似的な永遠」である事。それが私個人の答えです。

口でいくら言ってもポカンとされてしまう話ですが、今回の丹宗さんの作品を読んでいただければ、それははっきりと分かるはずだと思います。
かなりの生意気を言いますが、既存の作品の焼き直しだったり、何かを目的に「作るために作った」作品、そういうものは作品としての命がなく、「静止」しています。

その中で、めまぐるしい日常の中から必死に掬い取ってきたと分かる、つまり丹宗さんの書くような「動いている」作品を見せられるからこそ、私は小説はすごいと思うし、自分も挑戦する価値があると思うのです。

書き手はこういうものを幾つも積み上げて、最終的に終生のマスターピースに到達する。そして、それを名刺代わりにして、ようやく普段は小説を手に取らないような人達からも「あの人は小説家だ」と言われるようになる。それはまるで満身創痍の状態でエベレストに登るような作業の連続ですが、ある種の「美しさ」に触れてしまった人は、もう足を止める事ができないのだと思います。

まぁもちろん、毎回豪速球を投げていては身が持ちませんので、息抜きになるような作品も必要ですが。。


そして丹宗さんはこの批評会以外にも支援活動など、アクティブに他のユーザーさんと関わっていらっしゃっていていつも眩しく感じています。
色んな事が形骸化している中で、丹宗さんのような存在は暗い海で航海を続ける人達の「灯台」のようなものなのではないでしょうか。

どうか書くという事そのものが、丹宗あやさんにとって一つの幸福にいつまでもなりえるよう願いながら、ここで筆を置きます。

成田 拝



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