最後の子ども
……そもそも、慣れてもいないのに一人で雪山になんて来ようとした事自体が間違いだったのかもしれません。
暗い部屋の中で、死んだはずの男がそう語り始めた。
......しかしですね、私は年の割にはかなり体力のある方でしたし、何より雪国育ちですから、雪に対しては、かなり馴染みがあるつもりでいたんです。育った地域は子供の頃からスキーや橇やらで散々遊びますし、その日の往路もそれだけあってとくに問題なく楽しんでいました。空も一点の曇りもなく、道に積もった雪はきらきらと輝いていて、気温も冬にしては比較的穏やかだったので、歩いていると少し汗ばむくらいでした。
やがて頂上について、一通り景色や澄んだ空気や達成感を味わった後、来た道をゆっくり戻り始めると、まだ昼過ぎのはずなのに、急に辺りが夜のように真っ暗になっているのに気がつきました。空を見上げると黒くて厚い雲が圧し掛かるように垂れ込めていて、風に乗って雪の匂いがしたかとおもうと、間もなくチラチラと細かいのが降り出して、それは数分と経たないうちに視界を塞ぐほどの大雪に変わったんです。
白濁しきった景色の先を何とか見通そうとしても、ついさっきまで見渡せていたはずの美しい遠峰は幻のように消え、それなりにいたはずの他の登山客の姿や、等間隔に現れるはずの道標さえも、白い闇にのまれてすっかり姿を消してしまっていました。
積雪は短い時間の中で驚くほど急速に嵩を増し、これだと日が沈むまでに下山するのは無理かもしれない、と私はどこかで観念した気持ちになっていました。耳元では金属めいた鋭い音が絶え間なく鳴り響いて、寒さで体温も徐々になくなっていくせいか、手足の感覚も次第に麻痺して鈍くなっていきます。
それからも予想外の大雪は止むどころかますます激しくなりそうな気配を見せていて、時々殴りつけるような突風が追い討ちのように吹きつけたかと思うと、それは雪の渦を至る所で作りながら山々をこだましていきました。
積雪は浅くなったり深くなったりを何度も繰り返し、次の目標にしている地点まで、一向に進んでいる気配がしませんでした。道はしばらく単純な一本道のはずでしたが、新雪が急激に積もったせいで往路とは全く印象が変わってしまっていて、果たして今自分は正しい順路を歩いているのか、途中で道を踏み外してさ迷い歩いているのではないかと、考えれば考える程に自信がなくなっていきました。
ぜいぜいと喘ぎながら左右に掻き分ける積雪はいよいよ腰にまで迫り、それは柔らかいせいで作った道の中に流れ込んで足元を塞いできます。
……おっかぁ。……おっかぁ。
不安を募らせながら先を急ごうとすると、ふいにどこからともなく何か子供が助けを求めるような、母親を呼ぶような声を聞いたような気がしました。耳を澄まして声の方向を探ってみても、そこにあるのは風と雪の降る音だけです。それに、山の中で一度だけの呼び声に反応してはいけないという常識を私は知っていました。そういうのは大体、風の作る幻聴に決まっているからです。
空耳を打ち消そうと雪を踏む足音に集中していくと、新雪の下で古い雪の層がざくざくと音を立てて砕けていくのが分かりました。吐く息は冷たい空気と混ざってまつ毛や髭を白く凍らせていき、灰色に霞んだ景色の中を子犬の頭ほどのボタ雪が音もなく大量に落ちていきました。
どのくらいそうやって足元に注意しながら進み続けたかわかりませんが、やがて私は烈風の切れ間に、何かこんもりと陰影を帯びているような、木々の集合のような場所を見つけたような気がして、その樹林帯と思しき場所に向かって、雪の斜面を水平方向に横切り始めました。林の中に入りさえすれば、おそらく風も少しは和らぐはずで、上手くいけば吹雪が止むまでなんとかしのげる場所も見つかるかもしれないと思ったからです。
荒く呼吸を繰り返しながら深い雪の中を無言で一歩一歩進み、強風で何度もよろめいては座り込み、ピッケルにすがりながらまた立ち上がる。そうして息切れと闘いながら無心で前に進み続けていると、ふいに何か大きなものが雪の下で寝返りでも打ったような、それに合わせて周囲の斜面がぐらぐらと動き始めたような気がして、不思議に思って辺りを見回してみたんです。
……地震か?
そう思いましたが、吹雪に侵された視界からは何も分からず、ひたすらに雪の礫が風に交じって額や頬を打ち続けてくるだけでした。不安を感じてその場からまた動こうとすると、突然吸い込まれるように体が胸元までするりと雪の中に沈み、次の瞬間には、どういうわけか目の前が真っ暗になっていました。
暗闇の中で轟音と共に周りの雪が流れ出すのを感じて、滲んでくる油汗と共に、ようやく自分が雪崩に飲まれかけているという事に気がつきました。焦りながら必死に手足を動かしてもがくと、顔が雪の表面に浮き出て一瞬視界が明るくなりましたが、動きを止めると、またすぐに体は沈んでいきます。
「雪崩だぞぉ…」
再び雪に潜ろうとしている刹那に、誰かが遠くでそう叫んでいるのが聞こえたような気がしましたが、助けを求める余裕も無いままに体は再び雪崩の中心へと引きずり込まれていき、足掻きながら重い流体の外に逃れようとしても、すぐにバランスを奪われて自分の体がもはや上を向いているのか下を向いているのかも分からなくなりました。
それでも暴れるようにもがき続けていると、今度は勢いのついた重い雪塊と衝突して、すさまじい力に翻弄されながら、気づくとなす術もなく流れの底を転がり続けていました。私はさながら無力な小石のようで、轟音の中で何度も雪を飲み、どこが手でどこが足かも分からなくなり、死の予感が絶え間なくちらつき、そうやって永遠と思えるくらいに長い距離を流され続けていると、最後にどこかの樹木にようやく体が引っ掛かって、安心したのも束の間、締め付けてくる雪の圧力の中でどこかの骨が砕けるような感触がしました。粘りつくような血の味を口の中で感じた後に一気に呼吸が苦しくなって、みしみしと音を立てながら絞まっていく雪の中で、視界が明滅しながら、次第に真っ暗になっていくのが分かりました。
……ほんになぁ。……ふびんでなぁ。
再び意識を取り戻した時には、冷たい闇の中で手足すら思うように動かせなくなっていて、少しでも口を開くと、雪が容赦なく入り込んできて、喉の奥が塞がれて思うように呼吸もできませんでした。
――まだ死にたくない…。
冷たい絶望の底でその思いだけが頭をもたげて、余力を振り絞って体を思い切り伸ばそうとすると、奇跡的に右手の指先だけが雪の外に出たのを感じました。
暗い雪の中で頭を力一杯前後に動かすと、顔の周りに僅かな隙間が生まれてようやく呼吸もできて、深く埋まっている左手の指先を動かして、中の雪を掘りながら体の周りのスペースを少しずつ広げていきました。最後に体を圧迫していた雪の密度が崩れたのを感じると、柔らかい雪を押し分けるようにしてなんとか外に這い出て、激しさを増している吹雪の中で、とにかく夢中で雪を掻き分けながらまた前に進み始めました。
どこへ向かえばいいのかそれを考える余裕もないまま、壊れた機械のように手足だけを無心で動かしていると、次第に雪の中を泳いでいるような浮遊感が訪れて、気づけばほんの数メートルも移動しないうちに私は前方につんのめるように倒れこんでしまっていました。切りつけるような烈風が頭の上を通り抜けて、周囲の雪はなけなしの体温をじわじわと奪い去っていきます。すでに手足は凍ったように感覚がなくなっていて、ここから移動しないと死ぬと言う事が分かっていても、精も根も尽き果ててしまってどうにもなりませんでした。
――もう駄目なのか……。
どこか諦めたようにそう考え始め、どうする事もできずに雪の中でじっとしていると、やがて少しずつ眠気が増してきて、同時にぼやけた意識の隅に誰かの気配が感じられることに気がつきました。
うつ伏せたまま首だけをゆっくり起こし、気配の方へ目を凝らすと、それは雪で霞んだ視界の先からこちらを見下ろしているような、まるで高見の見物でもしているような様子でただぼんやりと立ち尽くしていて、幻視なのか、それとも自分と同じように遭難している登山者なのかも分からないまま、気づけばその相手に向かって私は掠れた声で必死に呼びかけていました。
……おーい。助けてくれ。
……おーい。助けてくれ。
……おーい。助けてくれ。
気力を振り絞って声を出しても向こうからは何の返答もなく、試しに手も振ってみようとしてみましたが、やはり首以外はほとんど動いてくれませんでした。
「……子供か?」
そう呟いてから、しばらくその小さな人影と見つめ合うようにしてその場で動かずにいると、遠くで地鳴りのような低い音が響いて来て、動かないはずの人影が、ふいに首を曲げて山の上方に視線を移すのが分かりました。
その頃遥か上層で滑りだした二度目の雪崩は、柔らかな新雪を吸収しながら急速にその体積を膨張させていき、途中にあった草や枯れ木を引き抜きながら凄まじい勢いで加速を始めていました。圧倒的な力で行く手にある全てを飲み込んでゆくと、そのまま勢いを緩める事なく魔物めいた疾走を続け、山を崩しそうな程の地響きを轟かせながら、やがては崖の下へと吸いこまれるように崩落していきました。
後には斜面から突き出た針葉樹の枝葉や灰色の岩の一部だけが僅かに顔を覗かせ、やがてそれらも深い雪の底に沈められると、もうあとには白いばかりの無の世界がどこまでも広がっているだけでした。
激しい降雪はその後も止むことなく続き、結局、身寄りもなく、登山計画書すら出していない私の不在に気づく者は誰ひとりとしていませんでした。おそらく一週間もすれば仕事で関わりのある人間が私の家を訪ねたり、携帯電話に何度か連絡を入れる事になるでしょうが、結局どれだけ待っても私から返事が来ない事を悟ると、あいつらはすぐに自分の生活から私の存在を切り離す手続きをいくつか済ませて、次第にこの世に最初から私なんていなかったかのように忘れていくのです。
……まぁ、私なんて昔からそんなもんです。世の中で大して必要もない、だれから見ても取るに足りないような人間だったんです。
そして私を雪の底に置き去りにしたままその山には長い夜が来て、朝が来て、短い昼が過ぎるとまた長い夜がやってきました。標高の高い山の上層部は、どの時間帯になっても変わらず雪が積もり続けていて、ともすれば深い場所に埋まっている私の死体を見つけたり、掘り返したりする者もどこにもいませんでした。
とうに命はこと切れて私はこの世のものではなくなったはずでしたが、何故かその意識だけは雪の下で覚醒し続けていて、時折餌を探し回るカモシカや、道に迷った登山客が頭の上を通る気配を感じ続けていました。生きている者の気配だけを感じていられたのならそれはそれでよかったのですが、死んでからは死んだ者の気配もつぶさに感じるようになりました。特にうるさく独り言を言う妙な年寄が一人いて、それがいつ死んだ者なのか、一体何を訴えたいのかも分からないまま、私とは違う時代の話しを雪の下で延々と聞かされ続けました。
……ほんになぁ。もうなぁ。あっこのいえ。ややこぎょうさんこさえても。くわすもんないゆうて。つぎからつぎにやまんなかほかしてもうて。ほかしたさきからまたつぎからつぎへとややここさえて。めもあてられん。とめきつ。つけたややこさいごにするゆうて。そのとめきつ。またやまへほかすもんやから、つぎからつぎへとめきつがふえて。このやま。なんにんとめきつがねむっとるかしらん……。
そう話し終えると、必ず最後に老人は切なそうにすすり泣くのでした。
おそらく、その老人の生きた時代に悲惨な飢饉でもあったのだろう、とだんだん察しがついてきましたが、死んだ後となってはそれももうどうでもいい事でした。私はただただ自分の意識が速やかに消えてくれる事だけを望み続けましたが、また朝になり、昼が過ぎ、夜が来てもその感覚は上ずったように覚醒し続けるのでした。
雪の下で意識を研ぎ澄ますと、遠くの沢を流れる水の音や、熊が巣の中で寝返りを打つ音や、木の葉が枝から離れる瞬間の音まではっきりと聞こえてきます。小鳥の声、尾根を越えて木々を揺らす風、極限まで冷えた空気がパチパチと音を立てて水蒸気を凍らせる微かな音まで、まるで私の一部であるかのようにありありと意識の中に飛び込んでくるのでした。
やがて、私が死んだあの時よりも酷い吹雪の夜がやってきました。
私は相変わらず雪の下で自分が死んだ時の事や、それまでの孤独な人生を思い返し、暗い気持ちで一人後悔していました。頭の上でびゅうびゅうと鳴る風の音や、思い出したように轟く雪崩の遠い咆哮を聞きながら夜が過ぎるのを待っていると、私はふと、今までとはどこか決定的に違う、何かの異様な気配が近づいて来るのに気付きました。
その何かは、しゅるる、しゅるる、しゅるる、と布が擦れるような音を立てながらしばらく雪原の上を歩き回ると、ふいに私が眠っている場所の真上で足を止め、それから少しも動かなくなりました。
人も獣も寄せつけない猛吹雪の中、こいつは一体、何者なのだろうと私が訝しく思っていると、突然激しかった吹雪の音がぴたりと止み、辺り一帯に時が止まったかのような無音の時間が訪れました。
その静寂は、想像を絶する程の深さで、まるで地上の空気がすっかり抜き取られて、生きとし生ける全ての物が消滅してしまったのかと思うほどでした。
それから何故か、「なつかしい。この感じには覚えがある」と私は思いました。
そういえばまだ子供だった頃、私は道路に飛び出した拍子に車にはねられた事があって、その時急ブレーキの音と一緒に目の前の景色がスローモーションのように真っ白になっていくのを見たことがあったんです。
どうやら私は宙に高くはね上げられた後、車のフロントガラスに落下してそれを粉々に砕き、それからボンネットをごろごろと転がって地面に落ちたようでした。全身も複雑骨折だったようで、その後病院で随分苦しみましたが、はねられた瞬間はブレーキ音と例の空白以外は何も感じませんでした。
それから遠くで救急車のサイレンが聴こえてきて、背中が真夏のアスファルトで暖かくなってきたのを感じて目を開けると、いつの間にか知らない大人達が自分の顔を覗きこんでいて、私は自分に起きた事がまるで理解できず、ただ周囲が大変な騒ぎになって騒然としているのを不思議に感じていました。
それから、ぽっかりと抜け落ちてしまった空白の時間の事を考えながら、「なつかしい。あの感じには覚えがある」と、その時も確かにそう思ったのでした。
つまり、私にとって死とは今夜のような永遠に停止する空白のようなものの事で、自分はもしかしたら、車にはねられるよりもっと前にどこかで、あの空白の中にいた事があったのではないかという思いがあったのです。
そしてそれをまざまざと思い出した瞬間、急に私を睡魔が襲いました。
……あぁよかった。いよいよこれで消えていけるのだな。長かった苦痛もようやく終わるのだと、そう思っているうちにするすると染み込むように周りの雪が私の中に入ってきて、私も周りの雪に入っていきました。
それから気づくと私は雪原の上でむくりと起き上がり、裸足のまま、雪の上をふわりふわりと進み始めていました。
足の裏は雪の冷たさも何も感じず、あぁ、そういえば以前にこのような事もあったかもしれないな、とぼんやり私は思っていました。誰かの記憶と私の記憶が混ざり合って、それが走馬灯のようにスライドし始めると、私はいつの間にかまた山の中でボォウボォウと鳴く梟の声の波と一体になり、雲の上を飛び交う粒子の群れと交わり、空の奥で輝く三日月の下をもの凄い速度で飛び回っていました。
時間が溶けて、距離が消えて、無音の暗闇の中で銀色の輪廻が回りだして、気づけば私は巨大な羆となり、山の中を自由に巡礼し、誰の邪魔を受けることもなく木陰にうずくまってゆっくりと眠りました。そしてまたその体は溶け、地中に染み込んで樹木の根に吸い上げられると、暗くて深い樹海の中の白くて美しい一つの大樹となり、月の光さえも届かない闇の世界の大樹となった私は唯一無二の淡く神秘的な光を放ちました。
その高みから遥か遠くに見える爛々と輝く人工の夜景は、高層ビルの規則正しい赤い点滅の群れのせいか、暗い海の底で発光する深海魚達を思わせるのでした。
その空虚な光の中では自分達の手に触れられない気配や、説明のつかない予感は無に等しく、目に見えるものだけを言葉にして、狭苦しい言葉の檻に閉じこもって毎日を過ごしていくしかない。そうするしかないのです。
あぁ、イヤだな、と深海魚になった私は泡を吐きながら思っていました
ずっとここにいたい、とも
できればこのまま毛布のように柔らかい雪にくるまって、誰にも会わずに、永遠に空気が流れる微かな音に耳を澄ませていたい。
気づくと、吹雪の止んだ先にはいくつもの白い帳がゆっくり、またゆっくりとひるがえっていて、それは何かに似ていましたが、一体何なのかもう少しも……
……思い出すことができませんでした。
すると唐突に、玄関のチャイムが鳴らされました。
目を覚ますと、間もなくしてチャイムは連続して鳴り始め、私は眠気を引きずりながらコタツから出ると、玄関まで行って重い鉄の扉をゆっくりと開きました。
「ちっす!」
「……お前。何してんだよ?」
相手はそれには何も答えずに、私のことを頭からつま先まで何度も確認するように見ると、安心したように息をつきました。
「……間に合ってよかった」
「……間に合う?」
そう聞き返した瞬間に背中を殴りつけるような突風が吹いて。驚いて後ろを振り返ると、そこはもうアパートではなく夜の雪原の上でした。
「……お前で最後だよ」
にこにこ笑いながらそういう相手の背後も既に雪景色になっていて、早くもその頭や肩にはしんしんと雪が積もり始めています。
「ほんになぁ……。こないなどこで……。ずいぶんなげぇこと……」
そう言われても、状況が理解できない私は、ぽかんと口を開けたまま相手の顔を見つめ続けていました。
そしてその顔を見つめているうちに、私の頭の中では、当たり前だと思っていた一つの事柄がゆっくりと溶けて消えていき、その代わりにもう一つの疑問の芽がその葉を広げながら徐々に大きくなり始めていました。
――そういえばこんな奴、俺の知り合いにはいなかった……。
思い出そうとすればするほどに、自分の記憶の中で相手の存在が曖昧になっていき、何も言えないままに私は、目の前で大きく形を変えたり、広がったり消えたりしている人影を見つめ続けていました。いつの間にか降っていた雪がまたぴたりと止んでいて、辺りは風もほとんどなく、静かになっていました。
何一つ状況が理解できないままに私がその場で立ち尽くしていると、遠くで誰かが叫ぶ声がして、暗く淀んだ視界の先から、忙しなく動く光が四つ現れました。
サーチライトを手にした救助隊はしっかりとした足取りでこちらに近づいてきて、そのまま私達を通り抜けると、少し離れた位置でふいに足を止めました。
「この下から反応出てるぞ!」
一人がそう叫ぶと、他の隊員が担いでいた荷物からスコップを取り出して、地面を慎重な様子で掘り起こし始めました。
「……とめきつ。……なげぇことまたせた。……わるがったなぁ」
そう言ってその人は、老人の顔で優しく笑い、私の頭にそっと大きく温かな手を置きました。
「出たぞ!」
一人の隊員がそう叫ぶと、他の隊員もライトで照らされた同じ場所を掘り始め、二メートル程掘った穴の底に、人間の後頭部が見えていました。
隊員達がスコップを放り投げて、丁寧に手で周囲の雪を穴の外に掻きだしていくと、やがて背中が見えてきて、間もなく胎児のようにうずくまっている私自身の全体が見えました。
穴の外にゆっくりと引き上げられた私は仰向けに寝かされて、よく見ると両手で口元を覆うようにしたまま意識を失っているようでした。
「……エアポケット」
一人の隊員が呟くと、その後に他の隊員が手を叩き鳴らしながら私に向かって叫びました。
「聞こえますか!すみません!聞こえますか!」
次の瞬間、血の気が引いて蝋人形のように白くなった私の瞼がピクリと痙攣しました。
うっすらと目を開けると、オレンジ色の服を着た四人の後ろで、見覚えのある何かがちらちらと視界に映っているのが分かって、朦朧とした意識の中で、私はまるで立方体の蚊帳が宙に浮かんで静止しているような、半透明の衣のようなものがゆらゆら揺れ動いているような不思議な光景を見つめていました。
空中に浮いたその何かの真下には、はっきりと濃い影が落ちていて、それが大きな人影だと認識した次の瞬間にはもうそれは溶けるように消えてしまっていました。
そこからは記憶が途切れ途切れになってしまって、サーチライトに照らされた雪煙が夜の闇の中でゆっくり渦を巻いているのを見ていた気がしますが、気づいた時には私の意識はもう、薄暗い病室のベッドの上でした。
それから薄暗いその病室で、男は再びゆっくり口を開く。
「……長い夢を見ているようでした。……どこからが現実で、どこからが幻覚なのか、いまとなってはもう風を掴むようにはっきりしません」
そこまでなんとか話し終えると、男は安心したように深く息をついて、病室はまた静けさに包まれた。
そこから話し始める人間はだれもおらず、部屋の中では、誰かの微かな寝息と、僅かなテレビの音だけが辺りに漏れ聞こえていた。
男はゆっくり視線を動かすと、ベッドの両脇に固定された、何本指が残ったのかもよく分からない包帯だらけの両手を交互に見つめ、それから、テレビの音量が聴こえてくるカーテンの隙間をじっと見つめていた。隙間から見える隣のベッドでは、白髪頭の老人が横になりながら相撲の中継を見ていて、その様子をしばらく観察してから、男はまた青白い天井に視線を戻した。
相撲では、何かの大番狂わせでもあったのか、座布団が激しく飛び交う会場の賑やかな様子を中継が伝え続けていて、男はそれを聞くでもなく聞いているうちに、今度こそ、誰に邪魔されることもなく、深い眠りに落ちていったのだった。