葱とキャベツは冷蔵庫に入らない
紅白での浜辺美波があまりに美しくて見惚れてしまい外に出るタイミングを見計れずにいたのだけれどしばらくして「チバユウスケ!」との天啓を受けて外に出た。
片道50分の暗がりを歩いた。小雨が降っては止み、降っては止みをくり返していた。数日前に古着で買ったランズエンドのジャケットは思っていた以上に温かかった。小柄な僕をXLサイズのジャケットが温めてくれている。それでも夜は冷えこんでいて吐く息は白くてニンニク臭かった。念入りに歯を磨いてきたのにもかかわらず。
「おまえの歯は腐ってる!」誰かが言った。初老パンクスの顔が目に浮かんだ。彼のことはもう随分とむかしから知っている。初めて出会ったのはノースペースという名の地下のクラブだった。今となっちゃそのクラブも若き日の僕の魂と共に文字どおり埋葬、埋め立てられ、小銭の音を鳴らすコインパーキングに成り果ててしまったが、彼ならきっとどこかの地下で音楽イベントを催しているに違いない。
彼とは人生の節目でもなんでもない日に再会することが幾度かあり、その多くはたまたまだった。見かけて声をかけることもあれば、赤の他人を装うこともあった。洋服屋で紅茶を啜っているとき、小さな映画館でトイレから出てくる連れを待っているとき、あるいは道ばたや葬式で。
僕は彼を探さねばならなかった。彼がいる場所にこそ僕が求めている音楽がある。年を越すならそこが良い。音楽のあるところが恋しい。そう思った。そこを目指す道すがら、縁石に乗り上げている車を見かけた。盛りがついた猫にしては時期はずれだし、やけに大人しかった。物損事故に違いない、と結論づけて僕は先を急いだ。
繁華街に着いても吐く息の白さは変わらなかった。地下に下りる前に景気づけに一杯やろうと目当てのパブまで足を運んだが、お月様みたいな看板の灯りは消えていて、木製のデカい扉に貼られた貼り紙には、手書きでこう書いてあった。「ウディ・ガスリーを連れてこい」
僕はひとり彷徨った。賑やかな街をひとり、しかし背筋を伸ばして足早に歩いた。90年代J-POPを肩を並べて大声で歌う二人の若者を追い越し、自身の吐く白い息も追い越した。どいてくれ、シェイン・マガウアンが呼んでいるんだ、どいてくれ。
雨に濡れたメインストリートの一画にあるビルにたどり着いた。一組の男女が傘を折りたたんでいて、僕もそうした。地下に下りる階段の手すりの支柱に貼られた黄色のビラには赤字ででかでかと【全員集合】とプリントされていた。大山椒魚のような重低音が絶えず地下から這い上がってきていた。怯んだ僕は踵を返した。景気づけの儀式がやはり必要なのだ。
馴染みの燻製バーに顔を出してみることにした。面識があるだけの常連客がいないことを僕は願った。肩身の狭い思いをするのはごめんだ。だが鳥居をくぐるでもあるまいし、その願いは叶わないだろうことはわかっている。彼らは十中八九その店にいる。だからといってなんなんだ。日陰に咲いた花にでもなったつもりか。鼻つまみ者が来た、と視線や態度にこそ表れるかもしれないが、僕を責め立てるほど彼らも暇じゃない。大晦日だ、みんなハッピーにやってるって。灯りの照らす場所じゃ言葉の一つも発せないお利口さんばかりだから気にすんなって。だからおまえ、背筋を伸ばせ。
ランズエンドのポケットに手をつっこんで僕は意識して背筋をピンと張って歩いた。焼鳥屋やゲームセンターやコンビニなどの軒先でたむろしている人間がやたらと目につき、それを横目に見ては、帰ろうかしら、と思った。「お兄さん3000円、マッサージ」とだけ発する女の声にまとわりつかれるたびに、帰ろうかしら、と思った。
燻製バーの前を足早に通り過ぎ、迂回したのち少し離れたところから眺めてみる。灯りがブラインドの隙間から寒空に滲んでいた。いくつかの人影が蜃気楼かのように揺れている。暗い水面を跳ねる魚みたいな気持ちになった。もう少し歩いてみよう。そうすれば気が変わるかもしれなかった。傘もささずに歩いた。そうして再び燻製バーの近くまでたどり着き、さっきよりも人影が増えているのを認めて僕は、その場をあとにした。
しかしこのまま雨ざらしでいては路上の錆になる。ならば、と選択肢から真っ先に除外していたバーに向かった。燻製バーの常連客はここの常連客でもあるけれども僕の知ったことか。ガラス窓付きの青い扉の奥の暗がりに空席が見えた。恐る恐る扉を開け席に座るとバイトの青年に「おお、これは噂の……ひさぶりっすね」と温かいおしぼりを渡された。紅白の総合MCが歌を歌いはじめるところだった。「おっ、そうね、噂の」と応じて僕は生ビールを注文した。
バイトの青年が口にした「噂」とは、二か月ほど前の僕の所業を指しているに違いない。あの日、落胆が僕の心を回遊していた午前4時、愚かな僕は、くだを巻くだけでは飽き足らず、この界隈でそれはそれは愛されているのであろうお嬢さんに悪意をさんざばら撒いてしまっていた。彼女はとばっちりを食らったんだ。僕の落胆を察して手を差し伸べてしまったばっかりに。しばらくして僕は背中を丸めて店を出た。惨めで愚かな夜だった。僕が店を出るまで口をつぐんでいた酔いどれたちが、コの字型のカウンターでグラスを傾けながら僕を非難していただろうことは想像に難くない。これはいけない。
わざとらしくまごついた挨拶で迎えてくれた店のマスターもまた強調するように「噂の」と口にした。この店のマスターはずっと前から僕のことを苦手だと公言しているが、それは人見知りな彼なりの僕への歩み寄りのようにも思っている。そして僕は少なくともこの日ばかりはこの歩み寄りを無碍にしてはならないと思った。詠唱しなければなるまい。すべての人が許し、すべての人が許される魔法の言葉を。
僕は祈り、そして唱えた。「マスターも飲みますか」
今のところ僕の見知った顔は白髪まじりの男が一人だけだ。かのお嬢さんに非礼を詫びる心づもりはあったが、いないものは仕方がない。いずれこの店にやってくるのかもしれないし、悪目立ちする前に僕はこの店を出るかもしれない。いずれにしろ口をつけたばかりのビールグラスを置いて立ち去るわけにもいかなかった。
カウンターの向かい側には、ボケとツッコミにおけるチンポコ格差論を今まさに展開しようとしている女がいた。けれどもそのチンポコ冒険譚はバイトの青年の虚を突くような提案でもってあっさりと幕引き、切り捨てチンポコごめんをした。
青年曰く「おれぇー、したいことがあってぇー、年が明ける前に皆で乾杯したいんすよー!」とのこと。「もうちょいでA子たちが来るんで、来たら乾杯しましょー」
これに僕は閉口した。しまった、と思い、ああ、と吐息が漏れた。ビールを一息に飲んでグラスを空にした。青年は決して悪くない。けれどこの青年の素直さと一視同仁の態度がどうにも憎い。だからといって興を削ぐわけにもいかない。僕は空になったグラスをじっと見て、むーんと唸り、天を仰ぎ、そしてまたグラスをじっと見た。
間もなくしてA子たちがやってきた。かのお嬢さんはいないようだった。代わりに妙に可愛い子ぶった女性と一緒だった。A子は僕の隣の空いている席に座った。奥から二番目、トイレ前の特等席だ。その隣の一番奥の席にずっと座っているスキンヘッドの男とA子は面識があるようだった。飲み会がどうだのデートはどうだのと喋り散らかしている。恋に関することなら酸いも甘いも知っているとでも言わんばかりだ。僕は赤の他人を装って“絶”に努めた。気配を消さなきゃならない。しかしA子は“凝”を怠っていなかった。バイトの青年が「んじゃあ、乾杯しますかー」と言ったタイミングでA子は、僕のグラスが空であることを指摘したのだ。僕はしどろもどろにこう応えた。「あっ、いやぁ、えっ、あっ、ははっ、じゃあ」
年が明けるとともに再び皆で乾杯をした。僕は店を出るタイミングを逃してしまっていた。店内には湿っぽい音楽が流れていた。90年代のヒット曲だ。チンポコ格差論の提唱者が選曲したものだとすぐにわかった。
僕は会計を済ませすぐに店を出た。高くついたのかどうかは後々わかることだろう。僕は足早に歩いた。雨は止んでくれているようだった。A子に挨拶のひとつでもしときゃよかったと思った。それでも先を急がなきゃならなかった。店内で流れていた曲を早いとこ洗い流さなきゃならない。血痕が付着しているんだ。殺された気分だ。
雨に濡れたメインストリートの一画にあるビルにたどり着いた。地下に下りる階段を覗き見ると、階段の下の方の踏板に腰かけている長髪の後ろ姿と、それに対面しているやけにめかしこんだ女性の姿が見えた。そこが喫煙スペースらしかった。めかしこんだ女性と目が合って僕は階段を下りはじめた。下りながら長髪の後ろ姿に声をかけた。「ロックンロールはもう終わりましたか?」
「おお、生きてたか」初老パンクスは振り向いて僕にそう言った。