
思想:専門書の読み方(試案)
僕は本を読むことが好きだ.少なくとも今見ている日常とは別のところに連れて行ってくれる.この世界を言葉でどうにか論じようとするその傲慢さが好きだ.特に僕が好きなのは数学書だ.それは僕を諍いのない綺麗な世界の断片を見せてくれる.世界の肉を削ぎ落した骨組みだけを見せてくれる.
でも,どうしても思う,めっちゃむずい.今でこそ数学書を読むための"読書筋肉"を付けているから耐性ができたが,前はある1ページに2週間掛けたときもあった.今でこそ悩み方も身についたが,やはり難しいものは難しい.
数学書だけじゃない,あらゆる専門書でこれは起こる.
学問の意義や目的から用語の使い方,論法,記号,雰囲気,許容する曖昧さなどに慣れるまでにかなりの時間を要する.しかも慣れてからがスタートであり,新しい概念はいくらでも出てくる.なんなら本を読む意義はそういう「慣れてから学ぶ新しい概念に慣れる」だったりする.ある程度慣れていても抽象度が増減するたびそれも慣れる作業がいる.
要はいつまでたっても時間はかかる.
僕も本の読み方には紆余曲折があった.分野によって変えている部分も多いし,今も試行錯誤を繰り返している.そうして自分なりの読み方を探してゆく過程は案外楽しい.
少しずつ改造していくことを前提に,専門書を読むにはどうするべきかを自分なりにまとめてみた.あくまで私の考えなので,各々の信条に合わせて使ってほしい.
専門書を読む前:一般書
「入門」は門前払いされない程度
専門書の「入門」は生身で突っ込むとやばいときがある.まぁ最近は少しマシになった気がする.少なくとも僕が大学に入って一番最初に読んだ松坂先生の『集合・位相入門』は慣れていないときに,しかも一人で読むべきではなかった.名著ではあるし後悔はしていないが,あの読み方はおすすめできない.一般書を読んだうえ,もしくは前提を多少知ったうえでの入門 である.
「前提知識なし」でも知識は必要
専門書では序文などでも「前提知識なしで」などの文言が書いてある場合がある.覚えておいてほしいことだが,多分それは嘘である.確かにその本の中に出てくる知識だけはなくてもいいっちゃいい.でもそれは 学問の前提がある程度わかる人にとっての前提知識なし であって,雰囲気や言葉遣い,学問の目的がわからない人にとっては難しい.知識がなくても思考形式はある程度身についていることが必要になる.必要ないのは本の中の知識だけであって,思考様式や記述形式の知識や感覚は必要になる.
専門書と一般書の使い方
専門書は「おもしろいなぁ」って思えた学問に対してさらなる面白さを深掘りしていくための,いわば巨大な掘削機械のようなもので,有資格者じゃないと扱うのはだいぶ厳しいのは確かである.たまに本当に易しく書いてくれてあるものはあるが,今後のためにも専門書特有の読む覚悟は多少あった方がいい.
易しめの本で前提知識をある程度付けると挫折が小さくて済む.新書や一般向けっぽいカバー,ほかにも「一歩一歩ていねいに」とか「○○の読み方」とか「歩き方」とか,明らかにターゲット層が初学者っぽい文言がある本はねらい目である.できれば複数冊読んだ方がいい.
ここら辺はスコップとかシャベルみたいな立ち位置であり,穴の掘り方を学びつつ,使いやすい道具を使ってちょっと下の世界のちょっとした面白いお宝を見つけたり,さらに下のお宝を探しやすくする.
固くなっていく地面に合わせて徐々に持つ道具を持ち替えて(=専門書に徐々に寄って行く),もしくは別の一般書で周辺分野を少し掘り下げて知識のネットワークを作りつつ別の地質の穴を掘る練習をする(=新しい概念を受け入れる練習をする).
そうこうしているうちに,必要な読書筋力がある程度は付き,頑張れば専門書が読めるようになっている.一般書ではやはり必要な知識が完全ではないことが多いが,専門書でようやくくっきりと学問が眺められるようになる.
難しく感じたり時間がかかるのは仕方ない.学びとはそういうもの.
※注意
「基礎」と付いたら基本的に他の専門書より難しいと思ったほうがいい.理解するための基礎ではなく,学問そのものを成り立たせるための基礎を指していることがほどんどであるからであり,かなり厳密であることが傾向としてある.
(『熱力学の基礎』は緑の悪魔と呼ばれすぎて表紙が変わったぐらいだからね……(諸説あり))
まぁまずは中身をちょっと見ることをおすすめする.
専門書を読みながら
いざ専門書を読み始めたとして,そもそも学びたい概念が抽象に寄りすぎていて難しくて読めないことは往々にしてある.体調次第ではそもそも文字が滑ってしまったり頭が文字を受け付けないこともしばしば.疲れたときは休もう.
特に数学においては,定義はわかるが何のためにわざわざこんなものを使っているかがわからなくなるし,命題を証明する方針が書いていないことは普通である.物理などでは基礎方程式は本当に基礎なのか疑わしくなったり,使い方が全然思いつかないことも多い.
そういうときでもなお,何を使ってでも理解にこじつけていくのが学徒である.
専門書に書き込む
これを一発目に書いたのは,本には書き込んではいけないという固定観念がある人が多いからである.またそうでなくても,書き込みを嫌う人も多い.僕も前まではそうだったので気持ちはわかる.しかし,いくつかのメリットはある.
わかったこと,思いついたこと,繋げられそうなことを書き込むことで再びその感覚をそのページで思い出すことができる.
特に重要な部分には補足説明や具体例を書き込むことで知識を補強できる.特に自分で埋めた行間を書き込んでおくことはよい.
教えてもらったことを書き込んでおくことで思い出と専門書をつなげることができる.
そして何よりのメリットは,書き込んで補足を大量に足した専門書は世界で唯一の,自分だけの専門書 になり,自分が知識を取り出すのに最適な形に変わっていくことである.書き込んでいくたびに,自分と専門書が同化していくのを感じていくはずである.
専門書の著者が最も喜ぶことは,著作がボロボロになるほど使い込まれることである.プレーンな参考書の見た目はキレイだが,よく使い込まれた専門書は意志を垣間見ることができ,美しい.
書くときはシャーペンなどではなく鉛筆をおすすめする.単純に書きやすい.
文面を写経・音読する
効果的なのが「写経」と呼ばれる儀式である.つまり,わからない部分の文言を一言一句違わず書いてみることである.その辺の紙でもノートでもなんでも,とにかく書き写すのも手段の一つである.
これをすると,読み飛ばしていた部分をちゃんと認識でき,何がわからないかを理解し,必要な言葉の使い方がわかったりする.
それでもわからなかったら声に出してこれも一言一句違わずに言ってみるのもいい.音読しても読み飛ばすところがでてくるから,そこを埋めながら読んでいく.おそらくちゃんとやれば同等の性能を発揮する.あなたも「蜂のように」音読してみるのはよい.
エンジニアリングの文脈では「ラバーダック・デバック」と呼ばれるものに近い.疑問点を聞くものなので正確に対応しているわけではないが,わからないものの何がわからないのかを明確にするという点で同じである.
わからないところや解決できない部分をラバーダックに吐き出して相談する間に認識していくという手法である.古典的だが,ずっと語り継がれるほど有用な方法なのだろう.話し相手ができるから一石二鳥かもしれない.
一旦認めて進む
書いてあることの真偽や証明や書いてあることへの理解が怪しかったりするとき,まずは認めるのも手段である.一旦正しい,一旦先の主張を確かめる,意義とかは一回おいといて操作だけ覚えて先に進むなど.
どんなものがあるかを確認してから戻ってくると,意外と「これ,すげぇな」みたいな道具であったときもある.
それに,先のほうで普通に意義が書かれていることもあり,あとでそれを確認すると少し悲しくなる.たまには勇気をもって進んでも許される.
一旦別のことをする
これも保留の一つだが,わからないまま散歩に出かけるなど,べつのことをするというのも一つ手になる.一見意味なさそうだが,本当にわからないものがあったときに意外といい.
このとき重要なのは 問題やわからないものを頭に飼う ということである.何を言っているかわからないかもしれないが,よく読み込んで頭の中でずっとひっかけておいて,何かの折に思い出すことである.そうすると天才的なひらめきが降りてきたり,他の概念を学んでいる最中に共通点が見つかるなどしてわかるようになる.わかったときはかなりうれしい.先輩からよく言われたアドバイスの一つがこれである.
それに,どこの数学者か忘れたが,わからないことを相談した相手の数学者が「今日はスキーに行く!」とすぐ出て行ってしまって,夕方帰ってきたときに「朝相談されたことなんだけど」と解決策を思いついて持って帰ってきたことがあるらしい.
詰まったときは一度外に目を向けるのもいいのかもしれない.
具体例を探す
具体例は抽象概念を理解するのには確かに必要なピースである.抽象は数多の具体によって構成される.また,一説によれば1つの知識は10の使い方を学ぶことでようやく会得できると言われている.
数個ぐらいは専門書に書いてあるはずである.見覚えがないものであった場合は紙の上などちょっと具体例で遊んでみるのも手ではある.よほどヘンなものでない限りは探せば出てくる.
また,具体例が現実世界でも見つかりそうな場合は,実際に見てみたり聞いてみたり実験したりすることも手ではある.経験とは身体からの刺激によって認識できるものとされる.
概念を血肉にしたいのであればあらゆる手段でそれを認識していく必要があろう.
演習問題を解く
理系の専門書,あるいは演習書と言われるもので演習問題を解くことは,ある側面では具体例を探すことに似ているが,明らかな問題解決を望まれているのが演習問題と具体例の違いである.もちろんこれらは表裏一体であるが,抽象概念を理解する能力と抽象概念を活用する能力は別物とみなせるために,区別して記入した.
具体例を探すことを 帰納 とするのであれば,演習問題を解くことは 演繹 にあたる.そしてこれらはどちらも重要な推論である.
ちなみに,近年ではアイデアを思いつくクリエイティブで非論理的な推論として「アブダクション推論」というのがあり,研究されている.アブダクション推論によって思いついたものを証明する手段が実験的な「帰納」と公理的な「演繹」である.人類の学問はアブダクション推論によって進化したと言える.
わかったことをアウトプットする
理解するということは素晴らしい.しかし,忘れてしまってはもったいない.まぁ別に忘れても思いだせばいいだけだが,せっかくなら効率よく学びたい.人が忘れないためにはインプットだけでは足りない.学んだものを 自分の言葉で アウトプットする必要がある.
もし自分の言葉で説明できないとき,単に語彙力が足りないか理解が足りないことがわかる.アウトプットとは,インプットで詰め込んだ自分の知識の欠けた部分を発見することと言える.なお欠けた部分が見つかったら確認してちゃんと書き直せばいい.気負う必要はない.
一番おすすめ"しない"のは「Twitter勉強法」である.要は学んだことを文字数制限があるtweetで吐き出すということである.限られた文字数で整理できる(最悪ツリーにもできるが,それでもある程度はまとめるだろう?),ツールが基本無料といういいことづくめだが,最大のメリットかつデメリットは,どういう原理か不明だが,自分が間違えてたらどこからともなく指摘が飛んでくることである.
少しでもイキったが最後,間違えていたときは監査が入り猛烈に恥をかく.
おすすめは,Notionという総合エディタのようなWebアプリを用いてデータベースに記録を書くことである.大まかにいえばWordとExcelを足して2倍にしたようなものである.使っていて楽しい.数式を書くのであればTeX記法も使えるのでノート代わりに使える.
同じ本を読む人と学ぶ
一人は心細くても,仲間がいれば助け合うことができる.互いに助け合うのは,実はただ人間が $${n}$$ 人 $${(n\in\mathbb{N},n\gt1)}$$いるより大きな意味がある.社会学からすると社会は3人から発生するとされる.たとえ2人でもそれはただの人間の総体なだけではなく,そこにはエマージェンスが発生する.
複数人集まることにより,知識の補完がスムーズになる.
集会による勉強の強制力が生まれる.
同じ志を持つ仲間を認識することで士気が上がる.
複数人集まったときは 輪読 を行うのが良い.同じ参考書を持つ人間を集めて行う勉強会のようなものである.流れは以下のようになる.
教科書を持ち寄る
発表順を分担する
各人は予習をする
担当者が発表する
なお,集まったときに全員で参考書を読み解いていくタイプの輪読もある.
人間は社会的動物であり,個人は社会から逃げることはできない.もしそうなら,自分の有利なように社会を活用するのもまた一興である.
補遺
ここではちょっとした補足を述べる.補遺が終わったらおわり.
最初は簡単な本からがいいと述べたが,その時期に専門書を買ってはいけないということではない.なんなら 専門書は気になったら買ったほうがいい.
本屋に行ったらこの本からいい匂いがした,かっこよさそう,友達に勧められたものがすごい気になるなど,なんでもいい.それはモチベーションになりうる.
チラ見したっていい.読めるところから読んでいくのも一つの手段である.もしかしたら,やりたい学問のある学部への進学は最も近道かもしれない.「挫折が小さくて済む」と書いてあるのは,どうせみんな何かしらで挫折するからである.思考やメンタルの破壊と再構築によって専門書に耐えうるソルジャーが育成される.
一つだけ知っておいてほしいのは,もし専門書がわからなくてもそれはあなたの問題ではなく,また たとえ挫折してもそれは学問が難しすぎるだけだから であり,多かれ少なかれみんなそうであるということである.わからないことを恥じる必要はない.堂々と挫折しよう!専門書を通読しようとすると,自分の国語力のなさに打ちひしがれることもあるだろう.何を隠そう,僕がそうだった.言葉を定義するという感覚や,言葉と言葉をつなぐ論理的読解などの技術が読むたびに補強されていく.
本を読んで得られるものの一つは自分の国語力のなさの自覚 である.そしてそれをちゃんと認識できるほど成長したとき,おそらく十分な国語力を身に着けているだろう.なお,副産物として「常識」(非論理的な信念)を疑う力を手に入れることもある.老婆心ながら一つ,国語力のご使用は計画的に.各々おそらく「苦手」,「できない」と思って手を出していない科目があったかもしれない.確かに苦手なものを学ぶのは認知負荷が高い.そこにはもしかしたら好奇心の塊が眠っているかもしれないのに少しもったいない.
では,我々はなぜ苦手と思うのかを考えてみる.そうすると,大体の場合は学校の先生のせいだったり,親のせいだったり,テストのせいだったり,そういう環境要因であることが多い.つまり,苦手という認識は過度な一般化(思い込み)である 可能性が高い.
ある時期のごく一瞬ちょっと点数がわるいとか先生の言う通りにできないだけで「お前は○○ができない!」とレッテルを張られ,そして有り体に言えば"洗脳"されてしまう.そしてやる気を失った科目はなかなか帰ってこない.
解決策は,自分の得意と結びつけて苦手を克服することが一番手っ取り早い.やりようは多い.知っていることが多いと,普段の日常に知識の色が付く.苦手だからと避けず,是非簡単なところからでも手を伸ばしてみてほしい.「数式を使わない!」などの触れ込みの本に飛びついてしまう人を見かける.そういう本は直感的には理解しやすく構成されていたりする.しかし,学問によってはそれで学べる事柄が頭打ちになってしまう.
数学や物理の苦手に注目してみると,記号がちょっと強そうに見えてメンタルがやられてしまっているだけで,記号内に内在している 意味(使い方)を見ていない・捉え方をただ知らないだけ だったりする.知らないだけだからちょっとでも知れば万人がちょっとできるようになる.それをなんども繰り返せばいい.
使い方はただの紙面の上の操作だけでなく,「なぜこういう記号をわざわざ使うのか」や「日常のもので使うとしたら」や「これの応用はどんなのがあるのだろう」といった,記号の目的の把握や経験への紐づけも含まれる.
人生の経験なども巻き込んで多角的に概念をとらえる人間が世界に革命を起こしてきた.革命とまではいかなくても,これに慣れれば日々の役に立つ思考法,構造を把握する力が完成するだろう.
また,こう考えることもできる.世の中のものは人間が考え付いたものだ.どんだけ天才が考えていようが,学ぶのにどれだけ時間が掛かろうが,人間の考え付くことはほぼすべて人間は理解できるはずである と.受験勉強から解き放たれた大学生以降,なんなら学びを求めた求道的な小中高の生徒も同じく,学びにおける周りとの比較など全くもって意味を為さなくなる.手段を問わずに概念を手に入れた者が勝ちであり,そしてそのパイは望む者全員に配られうる.つまり全員が勝つことができる.
我々学徒は解き放たれた好奇心の従者である.好きに学べばいい.