エッセイの『声』にさそわれて
剣も魔法も超能力もいらない。
毎日はそれだけでなんやかんやドラマチックだ。
共感覚というわけでもないのだけれど、
文章を読むと、だいたい、そこから声が聞こえてくる。
マンガ、小説のセリフはもちろんそれぞれのキャラクターの声だし、
ある程度まとまった文章なら、説明文であっても何かしらの表情や声の印象を感じる。
このほど、改めてエッセイというジャンルの読み物の『声』は、著者の声なんだなあ…と実感したのがこちら。
「お姉さん」と「ミホさん」がそれぞれに書いていて、あんなに似た雰囲気で、生活もほぼ一緒なのに、考え方も「声」もまるで違うのがおもしろかった。
文章なのに、もう完全にお姉さんの声で語っているし、ミホさんの声が聞こえてくる。
ついでにもう1冊…
こちらも、1巻の時と同じように聞こえてきているはずなのに、完全にご本人の顔まで浮かぶようになったのは、2巻を読むまでにテレビで数回みかけたせいもあるのだろうけど。
どちらの本も、非常に興味深く読めて、感じ入ることも多かったが、特にこれといった事件は起きない。
本が好きでも、概ね「誰々が死んだ」とか、「何故殺されなければならなかったのか」とか、「このミッションを達成できないとみんな破産だ」…みたいな極端な内容のものばかりを好んできたわたしにとって、おもえばエッセイというジャンルを楽しめるようになったのは、ここ数年な気がする。
それだけ日常の貴重さを尊べるくらいに成長し、あるいは実感し、その奇跡を味わえるだけの余裕もあるということだろう。大変喜ばしいことだ。
しかしながら、よく考えてみると、なんの血の繋がりもない、顔が似ているというだけでコンビを組んで一緒に生活しているふたりというのは…なかなかどうして、もうそれだけで大分おもしろい。
作り話であれば、リアリティがないなどと叱責を受けそうだが、事実だし。
平和な毎日の中にも、お世話になっていた定食屋さんの奥さんが亡くなったとか、まるでお仕事ができなくていい歳して泣きながら帰宅したとか、引越し先を探しに探して巡り合った奇跡とか、それなりに事件はあって…
あれもこれも全部、姉妹の目を通して見る阿佐ヶ谷の毎日はなんだかとても幸せだ。
(棚ひとつ買うにしたって、本人からしたら大事件じゃないか)
目まぐるしく変わる世界と、日英にまたがるルーツ、信じられないくらい真面目で賢い12、3歳の少年の毎日を見守る母親の日常は、もうそれだけで事件なんだろうな…と想像するのも難くない。
(そもそも学生生活に至っては、もはや完全にファンタジーなのでは? いくつかあるコンサートのシーンなんか、もう映画の世界におもえてしまう)
結局、新聞を賑わしてしまうような事件は、物語の世界であれば楽しいことこのうえないが、自分で体験したいわけではないのだ。
毎日は平和で、しんどくて、それなりにおもしろくて、穏やかで…それだけでとてもドラマチックで貴重で奇跡的なのだ。
(事実、とんでもない数の人々のたゆまぬ努力によって守られている)
そういう感慨を何気なく切り取って飾れたら、いくらかの感謝や喜びをお返しすることもできるのだろうか。
願わくば、少なくとも、誰かの喜びを増せるものであるよう、耳障りの悪くない声とボリュームで伝わっているといいなと今日も筆をとってみる。