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「自分らしさ」を手放すという自由について


(※今日の内容を音声で楽しみたい方はコチラからどうぞ(^^)↓)


どこかで書いた気がするけれど、ここ最近になって思うところがあって、改めて自分の持ち物だったり、自分に関係するあれこれを整理しているところである。

ちょっと前にずっとめんどくさくてやらないでいた、自分の書類とか何かの契約とかつくってそのままにしていたアカウントとか、そういうできれば向き合いたくないこととようやくしっかり向き合って、やってみたらやっぱり(ものすごく)めんどくさかったけれどそういう自分に関する物事をひとつひとつクリアして整理できたことが大きいかもしれない。

改めて自分のモノだったり契約だったり、書類だったりアカウントだったりスマホのアプリだったりを見てみると、たったひとりの自分に関する物事の多さにびっくりするというか、自分でちょっとあきれてしまった。

これまで自分なりにだいぶシンプルにしてきたつもりだったけれど、それでもまだこんなに自分に紐づいているモノだったりモノじゃないものがたくさんあることに気づいたし、そういう物事ひとつひとつが見えないけれど自分に鎖のようにつながっているんじゃないかと想像すると、なんだか身軽になった気分でいたけれど、実は全くそんなことはなかったのかもなあと思ったわけである。

なので、形として目に見えるモノもそうだし、あるいは何かの契約とかそういう自分に関する物事の全部を見直して、今の自分には必要ないモノやコトは手放していくことにした。

そして、ちょっとずつ何かを手放していくたびに、自分という存在がちょっとずつ自由になっていく感覚がある。

あと若い頃に比べて「自分らしさ」みたいなことに今は特に興味もないのだけれど、それでも自分のまわりのモノやコトで自分らしさをつくっていたんだなということにも気づいた。

例えば今はもうないけれど、CDがあれば「こういう音楽を聴いている自分」、DVDがあれば「こんな映画を観る自分」服であれば「こういう服を着ている自分」みたいな感じで、「自分らしさ」というものを自分のまわりにあるモノでつくっていたように思うし、だからこそモノたちを手放せなかったんだと今になるとわかる。

そのモノたちを手放してしまうと「自分らしさ」も手放してしまうようで怖い、ちょっと前までの自分はそんな感覚だったと思う。

とはいえ不思議なことに、実際そういうモノたちを手放していって自分が自分でなくなるということはなかったし、むしろそういうモノで決めつけていた自分らしさから解放されるような感じがした。

だからなんというか自分が持っているモノとか自分に関するコトでつくっていた「自分らしさ」を手放すことで、逆に自由にまっさらな気持ちで「これは自分らしい」とか「これは自分らしくない」とか決めつけずにいろんなことをやってみようとさらに思えるようになった。

もし自分らしさみたいなものがあるとして、それは常に一定ということはなくて雲のように、あるいは水のように形をとどめない変化するものなのかなと思う。

けれど、雲は雲だし水は水であることに変わりはないように、自分は自分であることに変わりはないし、そう考えるとなんだかあまり深く考えすぎることもなくて、気もラクに身軽に生きていけそうでなんだかワクワクする今日この頃である。



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ささきたけよし
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