揺れることさえ楽しめるくらいになりたいことについて
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同じような日々を過ごしていても、体もそうだし、心の状態というのもいつも一定というわけではなくて、あっちに行ったりこっちに行ったりしているものだと思う。
特に僕はメンタルが弱めな方だと思っているので、メンタルを安定させるための土台づくりとして、体の健康、と言っても特別なことではなくて、よく寝るとか軽く運動するとか、ほどほどに食べるみたいなことをしてまず体の調子を整えることで、メンタルもできるだけ安定させようとしてきた。
僕の場合、躁鬱というほどではないのかもしれないけれど、気持ちの浮き沈みが大きくなってからは「心の平穏」をいつも求めていたし、いつも気持ちが春の海のように穏やかでありたいと願って生きてきた。
だから、普段のちょっとしたことで気持ちがグラグラと揺れてくると「このままではいけない、揺れちゃだめだ」みたいに思っていたし、なんとかしようとしていた。
なんというのか、僕が目指していたのは、大きな岩のような、何があってもびくともしない精神だったのかもしれない。
けれど、最近はもしかしたらちょっと違うのかなと思い始めていて、僕が目指すものは「岩のようなかたさ」というよりは「水のようなやわらかさ」に変わってきた。
それはなんだろう、岩のようにどんな物事が向かってきてもはねのけるような強さ、精神性、つまり僕にそもそもないものであるわけだけれど、ないからこそ欲しかったのだろうし、岩のようなかたくて強い精神を持つことで、自分のメンタルも安定させることができると思っていた。
けれど、どうやら僕はそういうタイプではないというのか、違和感が出てきて、うまく言葉にまだできないところもあるのだけれど、岩ではなく、水のように、物事が向かってきてもはねのけるどころかすり抜けてしまうというのかスルーしてしまう、そんな精神性を求めるというのか「やわらかい強さ」みたいなものを目指すようになった。
そして、これまでは何かあって、それによって心が揺れることはいけないことだと思っていたし、揺れるたびに「これではいけない、もっと強くならないと」みたいに、揺れる自分をダメだと感じていた。
けれど、メンタルを壊した時がそうだったように、自分に向かってくる物事に対して「逃げちゃいけない」と思って耐え続けた結果、自分の心がボッキリと折れてしまったわけで、そうやって強い風が吹いてきた時にその風に大木のように真正面から向かって耐えるのではなくて、竹のようにその風の吹くままに逆らわず、自分をしならせて受け流す方がダメージも少ないというのか自分には合っているように感じる。
なので、自分に向かってくる物事によって心が揺れたとしても、それは自然なことというのか、風が吹いたら野に咲いている花が揺れるように、揺れていいのだと思うし、むしろ揺れることさえも楽しめるくらいの心の余裕をもちたい。
風が強ければ強いほど、抵抗せず、その風の吹くままに揺れて受け流してまたいつもの自分に戻る、というか、そもそもどんなに強い風が吹いて大きく揺れたとしても、自分が自分であることに変わりはない。
だから落ち着いている時の自分も自分、心が揺れている時の自分も自分くらいに思えると、気持ちもだいぶラクになるように感じるし、これからはそういうふうに揺れることさえ楽しみながら生きていきたい。
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