なぜ話がかみ合わないのだろうか

どうしてもわからないこと、として幾つか書いてきましたが、なぜかみ合わないのか。それは、話の前提が違うからだ、としか言いようがないのかも知れません。どんなことでも、議論を深めたいなら、何を元に何を話すのか、すなわち何を前提と考えるかを確認しなけれは始まりません。

ということで今回は、前提について考えます。

このプロセス、前提をしっかり考えることは、とても大事です。自分が何を根拠に、どんな方向で考えを組み立てているのかを振り返ることになるからです。

個人的に大事だと思うことは、2つあります。

(1) 事実認識:わかないことをわからないと認める
(2) 不明なことへの対応:わからないことをわかないとして扱う
これが前提になると思います。

 事実認識。何が事実で、何が不明なことかを意識しているか。意識することで、何が不明なことがもわかります。その不明なことを不明だと受け入れることができているかが重要です。
 不明なことへの対応。わからないからとりあえず無視、なかったことにする?それともわからないことを認めて対応する?

この2つは、ペアで考える必要があります。まず、わからないことは無視せず、わからないと認める。認めることができれば新しい事実や理論へ近づくことができます。事実と思っていることが批判に耐えうるかは常に考える。何か不思議な現象があれば、不明なこととして再度考える。

これが科学的に物事を考えることであり、誰かと建設的な議論をするための前提なのではないでしょうか。

例えば天動説。望遠鏡が発明される前は、正確な計測は難しかった。だから太陽が地球の周りをまわる、という「事実」を疑問視する人もいなかったでしょう。しかし望遠鏡により計測が正確にできるようになると、様々な疑問が出て来ました。「不明なこと」が見つかってしまった訳です。しかしわからない、何か違う、と認めることで地動説に進むことができました。

植物が成長する時、昔は土から栄養が吸収されるからだと思われていたそうです。最初の頃の「事実認識」はこうでした。しかし厳密に土の量を計測し、水の量も計測しながら植物を育てると、土の重さの減少よりも、植物の重さの増加が大きいことがわかりました。これが不明なこと、となりました。後に直物は二酸化炭素を空気から吸収して育ち、酸素を出すということがわかり、これが新たな「事実認識」になった訳ですね。


しかし、わからないから無視したり、願望を事実だと思い込むようになると、何も議論は進みません。(同じ考えの人同士でも、堂々巡りが起きるだけで、展開はないと思います。)

実はこれは意外に頻繁に起きています。「主観的な願望を客観的事実にすり替える」にも書いた通りです。第2次世界大戦で起きたこととして知られています。最近も、消費税増税のため、そして経済がうまくいっていると見せたい、GDPを高く見せたいという願望があったので、統計をいじって事実にしようと試みたのだと思います。(勿論後に破綻します)

そして、「コロナは風邪のようなもの」という主張は、願望を事実にすり替えること、そのものに見えます。確かに、コロナなど意識しないで行動したい。マスクなどしたくない。その気持ちはわかります。しかしコロナを風邪として考えて良いか、まだ誰にもわからない。長期的な影響など誰も知らない。(長期的に風邪と変わらないという根拠があれば教えて下さい。)

つまり「コロナは風邪のようなもの」を事実として行動してしまうと、感染が広がり、今は誰も知らない後遺症で多くの人が苦しむことになる。この可能性は否定できないと思います。


話が通じ、議論ができるいようになるためには、
・わかないことをわからないと認めること。
・希望的観測を元に、何かを勝手に事実だと思い込まないこと。

まずはこれが前提になると思います。