「売る」から「買ってもらう」への原点回帰。年商20%の売上1億円を手放す経営判断は赤字の工場を救うのか
・はじめに
この内容は、社会人になって夢も希望も特になく、惰性で生きていた僕が、母を助けたい一心でやり始めたことを通して精神的に成長してきたことを、未来の自分のために記した覚書です。
いろいろと現在進行形なので、成功してハッピーエンド!という話ではありません。
会社が先の見えないトンネルの中にいながらベストを尽くして結果を出していこうと、僕も社員も必死でもがいている状況で、これまでの自分のプロセスを振り返りまとめておくことが将来の自分のための道しるべにもなってくれると思い書くことにしました。
それが自分だけでなく、読んでくださった方の何かの役に立てるなら嬉しいです。
現時点の僕は、自分の人生を幸せに生きていくために、大切なものをとことん大切にしたいと思って生きています。そういう意味では、満足いく生き方をできているので、幸せを感じています。
ただ、会社の経営に携わっていると「きれいごとで商売はできない」とか「しょうがない」とか「そういうもん」とか、諦めなのか思考停止なのかわからないですが、社員や取引先やお客さんなど関係者の利益に優先順位をつける話が出てくることが多いです。
そんなとき、僕の中の「大切なものをとことん大切にしたい」気持ちとぶつかって葛藤することがよくあり、抑えがきかなくなると論破しにいってしまうなど、気づかず相手に不愉快な思いをさせてしまうこともありました。
これは個人的な感情の話ですが、僕はこの葛藤を感じるのが嫌で、その度に深く考えることがあります。
商売は競争せずとも成り立たせられないのか??
誰かにとっての幸せを犠牲にしないと稼ぐことができないなら、稼ぐことは誰かを不幸にするほど価値があることなのか?
この葛藤は僕が社会人になり仕事を始めた頃からずっと感じてきました。
僕が社長を引き受けたワシオ株式会社はメーカーであり製造業です。
うちで働くスタッフたちは、それぞれの思いや大切にしている価値観に基づいて、心からお客さんを喜ばせたいと思ってものづくりをしているし、その価値を毀損せず届けたいと思って働いてくれています。
こういった想いを込めてつくられて完成した製品たちは、本当に価値あるものだし、それはうちだけでなく世の中にたくさんあるはずです。
でも僕の目に入ってくるのは、「パッケージ」とか「広告」に特化したほとんど実態のない製品が溢れている市場です。その圧倒的な情報量に覆われてしまい、本当の”価値あるもの”に出会う機会がどんどん失われていく危機感が日々増していくばかりです。
情報に踊らされて要らないものを買わされる社会がどんどん加速していくと世の中は余分なものが増えていき、使われないままゴミになってしまう可能性だってある。僕はそれを防ぎたいし、これまで培ってきた技術をもって本当に価値あるものへと仕上げ、そして社会に届けるところまで関わってくださる方々の想いを毀損することなく世の中へ届けたいと思って、仕事に取り組んでいます。
ただ、僕は代表取締役として会社を健全化する責任があるにも関わらず、この葛藤が影響してただ「売る」ということに抵抗を感じ、販売戦略に良くない影響も及ぼしていることに自覚はあるので、この部分はうまく折り合いをつけて納得いく在り方を模索していくつもりです。
僕が家業の仕事をするなかで、自分の心情が変化するとともにこんな風に考えるに至った経緯と葛藤についてを書き留めておくことによって、現在地点の確認とあわせて次のステップに踏み出したいと思っています。
ただ、読む方によっては少ししんどくなる内容が含まれている可能性があります。
それでも、最後まで読んでくだされば幸いです。
※ここから400字詰め原稿用紙100枚くらいの文量があります。
読了時間の目安にご参考くださいmm
・自己紹介&確認
こんにちは。ワシオ株式会社の三代目、鷲尾岳(たかし)です。
ワシオ株式会社は、兵庫県加古川市にある防寒衣料に特化したメーカーです。1970年に創業者の邦夫(僕の祖父です)が知人と共に編み機から開発した独自の起毛技術を確立、特許を取得し、その技術を強みに様々な製品を開発・販売を現在に至るまでやってきました。
この起毛技術でつくりだされた生地は、そのあまりの肌触りの良さから「もちはだ」と名付けられ、主に防寒肌着や靴下の製造・販売を得意としてきた歴史があります。
創業者の邦夫時代は、順調に売上も利益も伸ばしていましたが、邦夫が急逝し、引継ぎもなく1990年に二代目の吉正(僕の父です)に引き継がれました。
引き継いだ当初は順調でしたが、時代の変化に対応していく中で従来のビジネスモデルが崩壊、その中で自社の強みを見失い、業績は悪化していくのでした。
2016年、僕の入社時点で既に返すあてのない多額の借金を抱えて、自転車操業の状態に陥っていました。
僕が入社してからは、なんとか自転車操業から脱却して健全化させるために、社員と共にいろいろと取り組み、取引先さま、先輩、専門家、友人や仲間の協力も得ながら、会社全体で頑張ってきました。
そして2022年から組織開発に取り組みはじめ、より抜本的な部分の経営改革を推し進める準備ができたと判断したので、今年(2024年)の初めに、社員と共に会社を次のステージへと成長させるために三代目代表取締役社長に就任しました。
その就任の際の決心や想いを綴ったnoteがこちらです。
ちなみにどのくらい業績が悪いかというと、僕が今年(2024年)の1月に父親がもっていた会社の全株式(24,000株)を1株1円の24,000円で買取りました。
嘘みたいですが、それが現時点のワシオの正当な事業価値評価です。
事業承継において多額の税金を支払う心配をしなくて良いのはありがたかったです。
でも良かったのはそれだけで、長年の積み重ねによる負債を、一朝一夕で解消することはできず、財務状態の改善は本当に難しいです。
僕たちにはずっと、自分たちがつくるものはめちゃくちゃ価値があるという自信と誇りがあります。
実際、お客様からも高い評価を得ているので、使ってみたことの無い方すべてに一度試していただきたいと心から願って「もちはだ」を生み出し、届けてきました。
でも、先述の通り業績は良くない。
特に近年は暖冬傾向にあるので、どれだけ良いものをつくったとしても、使うタイミングがなく、本当に寒い冬が来ないとなかなか選んでもらえない状況が続いています。
あまりに事態が好転しなさすぎて「僕たちのやっていることは、ひょっとして世間からあまり求められていないただのエゴなんじゃないの?」と思ったことは何度もあります。
そう疑いながらも、僕も社員たちも頑張れば頑張るほどに自社製品の魅力に気づいていってしまい、どうにか続けさせてもらいたいと思って諦めずに活路を探っています。
僕のミッションは、この会社に存在する溢れるほどの魅力や価値を多くの人たちに知ってもらい、同時に、かつてワシオやもちはだが保持していた金銭的な評価を取り戻し、僕自身はもちろん、従業員のみなさんからも名実ともに胸を張って「良い会社」だと言えるようにしていくことです。
と、今は自信をもって言えますが、最初からそうではありませんでした。
ここから、今にいたる黒い歴史と苦しかった体験について、書き記していきます。
・自分は経営者だと勘違い!からの無自覚なパワハラ量産
少しだけ僕がワシオに入社する前の話に遡ります。
実はいきなり家業に入社した訳ではなく、2013年に大学を卒業後、父の伝手で神戸に本社がある会社に就職し、約2年半にわたって中国の天津市にて新規事業の立上げと経営のようなことをさせてもらっていました。
このとき、ビザの関係で半年に一回は日本に帰り、更新のために1週間ほど実家に滞在、家族で過ごす時間がありました。
そして夜は決まって両親が仕事のことで議論しているのですが話が噛み合わず、不毛な状態が続いていたので、それをなんとかするために僕が仲裁に入って話の整理を手伝いつつ、母の要望を父に噛み砕いて伝える役割を僕が担うのがいつもの形でした。
帰国する度に、いつも似た内容の母からの訴えに対して、さまざまな事情から対応しきれない父の話を聞き、なかなか経営って難しいなぁと感じていたのですが、2015年には母が精神的に参っているように(僕からは)見え、「このままやとオカンが潰れてまう!」と思いました。
2015年春、諸事情あって先述の会社を退職して、この先どうしようかぼんやり考えながら中国でプラプラしていたので、母を助けたいという想いと、家業ならいろいろできることありそうと思い、父に「会社に入れてください」とお願いし、ワシオ株式会社で働くことになりました。
入社を決めたのはたしか2015年秋くらい。年明けに帰国、1月は久々に友人と会ったり、全く知らない繊維や衣料業界のことなどを勉強する期間でした。
そしてこの入社前の準備期間に、当時ワシオで契約していた経営コンサルタントの方(以下、Xさん)を母から紹介されました。確か芦屋駅あたりでお鍋を食べながら、ワシオの状況についていろいろ教えてもらったのですが、このとき話した中で、8年経ったいまでも忘れられない言葉があります。
それは「ええか。従業員はカードや。うまく使え。」という言葉です。
要するに「従業員を道具としてうまく扱うのが良い経営者だ。」という話でした。
この当時の僕は、違和感を感じつつも、母が信頼し、自分より圧倒的に経験がある人が言っていることなので「そういうもんなのか。」と思い、経営者として頑張ろう。とやる気マンマンで入社することになります。
今だからわかりますが、この時点で僕は大きな勘違いをしていますし、勘違いをさせられています。
それは、僕はもう「経営者になった」と思ってしまったことです。
・まずは現状把握
2016年2月1日に入社すると、両親からは「Xさんの指導のもと、立派な経営者になれ。」と期待され、入社と同時にXさんは両親お墨付きの師匠となりました。くわえて、入社当時は社長付という役職でキャリアがスタートしたこともあって、振り返るとここでも自分は経営者という勘違いがさらに強化されたのだと思います。
Xさんからは、とにかく現状把握しろと言われ、会社のいろんなデータを集めて分析からはじめることにしました。しかし、PC内に整理されたデータがほぼ全く無しの状態。紙の資料から情報を拾い、様々な係数を分析するためのデータベース製作から始めました。ここでは、前の仕事で中国での新規事業立ち上げをした経験で身につけていたPCスキルと、損益計算書が読める・決算が示す内容がある程度分かるレベルの知識が役立つことになります。
Xさんは、これまでワシオの経営に携わってきた経験に基づき経営課題として「ワシオの商売はおそらく利益が取れていない。原価もまともに計算できていないし、商品リストもない。経費を削り、利益が取れる販売価格に調整する必要がある。」と断定されていたので、僕はXさんの指示にしたがって裏付けを収集し、整理していった感じです。
入社して最初の一ヵ月は、1週間くらいかけてエクセルに数字を打ち込み、それをまた何日もかけて整理していき、過去3年分のコストを取引先別で月次で確認できる資料と、暫定原価と売価が載った商品リストを作成していきます。
こうして、取引先ごとで利益が取れている先を分析できる状態と、コストカットできそうな項目が分析できる状態をつくりあげました。
入社から1ヵ月が経った2月末に決算が訪れます。
とにかく早く会社の状態を知りたかった僕は、それまで1ヵ月くらいかけて行っていた棚卸在庫の集計作業を、自作の商品リストを用いて3日でやりきり、資産額を算出しました。
正式な決算資料ができあがる前に、自分なりに数値を分析することで、暫定的な財務諸表を作りました。
が、そこには絶望的な数字しか出ておらず、入社前に聞いていた内容とも大きく異なり、会社がほぼ経営破綻している状況だと気づきます。
・立て直しを決意。師匠お墨付きのパワハラ息子誕生!
とまぁこんな状況からスタートする訳ですが、若さと無知ゆえの根拠のない自信をたっぷり携えていた僕は「Xさんもいるし、もちはだはすごいし、なんとかなる。」と思って、がっつり建て直すことを決意します。
今振りかえっても、正直、この時期は会社の誰よりも働いていたと思います。それは、この時はまだ通常業務を持たない僕以外の誰にも新しい仕事をするリソースがなかったので、Xさんの求めに応えていくには、僕一人でやるしかなかったからです。
その結果、社内の誰よりもワシオの数字を知り、誰よりも強い危機感をもち、仕事に取り組んでいくことになっていきます。
そしてこの当時の僕の目からは、唯一同じくらい働いていると感じていたのは、母だけでした。
それもあって当時の僕は、社長も含めた従業員の全員がサボっているように感じ、皆の働き方がワシオの業績を悪化させた諸悪の根源のように思うようになっていきます。
そんな状況で誕生したのが、【ワシオを建て直す】という大義のもと、正義感にもとづいて暴走する僕です。
そこにくわえて、師匠のXさんからは「従業員はカード、バカにするくらいでちょうど良い。事情は全部言い訳やから聞くな。手足と口があるのに言われたことをしないのは全てサボり。」という教えがあり、正義感に基づいて暴走をはじめた僕は、違和感なくそれを【正解】と思って教えどおりに従業員と関わっていきました。
パワハラ息子誕生です。
師匠Xさんにはたくさん褒められました。一方、当時は気づいていませんでしたが、僕がXさんに褒められる振る舞いを身につけていくと同時に、現場は疲弊していったのでした。
==当時のファクト==
当時、実態としてサボっている人なんて一人もいませんでした。むしろ経営者が事業の方向も示さず、場当たり的な対応しかしてこなかった影響で、スタッフのみんなは、それぞれの立場からお客さまと会社の利益を最大化するべく、それぞれの現場で自己判断に基づいて行動してくれており、それが会社を支えてくれていました。
みんなにとって自由度はあるかもしれませんが、環境を良くしていくために積極的に動くことは諦めざるを得ない状態だったと思います。
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当時を振り返って反省することとして、前職で中国での新規事業立ち上げをしたことで身についていたスキルや知識について、このころの僕は社会人の義務教育と勘違いしていたので、自動的にそれがそのままスタッフの評価基準の一つになっていました。
そのため、物事を数字に置き換えて話すことができない=仕事をやる気がない(出来て当然のことをサボっている)と当たり前のように評価していました。自分の主観的な評価基準で、かつ、それを示さず、一方的な評価にもとづいて関わっていたので、必然的にかかわりはパワハラになっていたことが多かったと思います。
また、会社の再生に必要な知識を得るために当時の取引先さんから会計士の先生を紹介してもらって顧問契約し、二人三脚で係数管理や財務戦略の相談にのっていただくようになったので、財務に関する知識をどんどん蓄えていき、さらに物事を数字に置き換えて話すことに磨きがかかり、それとともに僕目線の評価も厳しくなっていきました。
それに加えて、Xさんにしごかれて販売戦略を立案し営業活動などでも成果を出していった僕は、ものづくりの”も”の字も知らないのに、自分が一番会社のことを分かっていると勘違いが膨らんでいきます。
・パワハラ上司の完成
知識と経験を増やしていけばいくほど、、従業員に対するリスペクトを欠いた言動がエスカレートしていきました。入社1年目の後半には統括部長という社長に次ぐNO.2のポジションについたことで、実質的には経営者というマインドが完成し、非常に支配的なマネジメントをするようになっていきました。
現場の事情を全く汲まず全否定。
正論を振りかざし、ミスを叱責し、詰める。
完全にパワハラです。
しかし、恐ろしいことに、当時の僕はそれが立派な経営者になるための正しい振る舞いだと疑いの余地なく思っていました。この頃には「師匠Xさんのような人間になりたい」と心底尊敬するレベルになっていたのでした。
今からあの頃を思って恐ろしくなるのは、当時の僕は心の底から”みんなのため”と思っていたことです。
当時、僕の給料は部長になっても額面17万円の手取り15万弱で、業績が良くなっても2年間給料は変わらず、滅私奉公の意識で働いていました。
そのため、どこかで「自分はこんなにも皆のために頑張ってるのに、なんで思うように動いてくれないんだ。」という、全く見当違いな被害者意識も生まれ、それがよりパワハラ的振る舞いを増長させることになりました。
そして肝心の業績については、会社の空気が最悪になっていくのと反比例して利益が残る体質になっていき、1年で単年度黒字を達成し、この先も何年かそれが続きます。
結果がともなったことで、社内で僕を止められる人はいませんでした。
今の僕は、どんな理由があろうと優越的な関係で自分の強い立場を利用してパワハラを行い人を傷つけた事実は変わらないことを受け入れています。
自分のパワハラに気づき、本当に申し訳ないことをしたと心から反省できるようになってから、会社の皆さんに謝罪させていただきました。今は、「昔は酷かったですよね」と笑って話してくれる人もいるくらい関係は良好になっていますが、それでも過去の事実は変わらないので、僕自身の加害の歴史は忘れることなくずっと引き受けて、人生の糧にしていくものだと思えるようになってきています。
・先代の遺志を継ぎ、絶やさないことを目指した父
ここまでで、どうして社長の父親が登場せず、いつもXさんなのか疑問に思う人もいると思います。
実は事情があり、僕の黒歴史とも関係するので、父のエピソードを紹介します。
父はもともと祖父の立ち上げた会社を継ぐつもりはなく、体育教師になろうとしていたらしいです。
本人の話では、某体育大学に進学したのですが、休みにアルバイトで会社を手伝ったところ商売がおもしろいし儲かって楽しそうと思うようになり、考えが変わって「親父、後継いだるわ。」と言って継ぐことを決めたそうです。
父は昭和33年生まれ。まさに体育会系のノリという感じがしますね。
当時、祖父はすごく喜んだみたいです。父に後を継がせるためにそれまでは「鷲尾商店」だった屋号を「ワシオ株式会社」とし、1980年に法人化しました。
父は大学卒業後に祖父のつながりから3年間の約束で同業他社へ修行に出たそうです。
その修行途中で祖父の体調が悪化、戻らざるを得なくなり1982年に修行を切り上げてワシオに入社したそうです。
このとき、ワシオとその修行先の会社との違いに苛立ち、祖父と対立して「こんな会社辞めてやる!」と喧嘩したりといろいろあったみたいです。ちなみに何が違ったかを聞かせてもらったことはありません。
1990年12月に祖父がこの世を去り、そのタイミングで代表取締役社長に就任しました。
このあたりのことは伝聞ばかりで正確なことが分からないのですが、どうやら経営のことが良く分かっていない新米社長時代は取引先やいろんな方々に支えられ、なんとか乗り越えられたのだと聞いています。
当時は「先代社長にお世話になったから。」という理由で助けてくれる人がたくさんいたそうです。
父から直接何度も聞いたのは「自分は親父がつくってきた会社ともちはだをなんとか終わらせないように続ける事を目的にやってきた。発展させることはできなかった。すまない。」という話です。
本人も、経営は得意じゃないと言っていて、「自分ができないことを人に頼ってなんとかしてきた。」ということでした。
従業員を頼り、取引先を頼り、同業他社を頼り、地元企業を頼り、人の力を借りることでとにかく『もちはだを絶やさない』ことだけを考えてきたのだろうというのが現在の僕の理解です。
そんな父は、2000年にワシオ株式会社の進む方向を大きく切り替えます。
当時、中国にもちはだを持ち込んだところ、現地で飛ぶように売れたらしく、そのままの勢いで知り合いの社長を頼り、2001年には中国に合弁で会社をつくり、もちはだの工場を建ててしまいました。
中国進出をきっかけに、日本市場においてもこれまでの高単価で高付加価値の日本製もちはだのシェアを減らし、中国製で薄利多売の方向に舵を切ります。
それまで、もちはだの鷲尾式起毛は、世界中どこを探しても他に作り手がおらずある意味で独占できていたものでしたが、中国進出により、自分たちで廉価な競合をつくり日本製の従来のもちはだが売れなくなっていきました。
中国で生産することによるコストメリットで拡大を狙い、結果的にその中国の工場によって日本製の売上が下がり、日本の工場の採算が合わなくなるという自爆状態になってしまいました。
自爆状態は想定外の結果論でしかなく、当時はかなり多くの企業が似たような判断をした時期だったという話を先輩がたから聞きますが、この時の経営判断がいまの危機的状況に繋がっている一つの要因であることも事実です。
中国製ばかり売れるようになってしまったワシオは、差別化のために国内工場では品種を増やし、ロットも小さく、生産難易度の高いものばかりを生産する小回りの利く工場にシフトしていきます。
さらに追い討ちをかけるように、2012年ごろから一気に円安に振れていき中国工場で生産するメリットは吹き飛び、ビジネスモデルの崩壊が始まります。そこから財務状況が悪化しはじめ、2016年に出た最悪の決算に繋がっていきます。
父は、この状況をなんとかしようともがき苦しみ、打開策として自分なりにはじめたのが「かこっとん」という加古川で綿花を育て、純日本製の糸をつくり、それで製品をつくるというプロジェクトでした。
ワシオの春夏の売上をつくるために始めたそうですが、困難なことが多く、今日に至るまでワシオに利益はもたらされていません。
直接言われた訳ではありませんが、父の動きから読み取れるのは「ワシオの建て直しはXさんと母と僕に任せ、自分はかこっとんをなんとか事業化する。」という判断をしたのだということです。
こうして、父は既存事業の建て直しには手を付けず、かこっとんという新規事業に全てを注ぐようになっていたので、僕が入社した時点で、ほぼXさんに頼りきっていました。
・父の無茶振りに完璧に応えていく母
次は母についてです。
母は結婚前は銀行に勤め、結婚後に会社の事務を少し手伝い、出産してからは専業主婦となり、子育てに専念していました。
2000年ごろ、そんな母に対して父が「なんかHPってのがあるらしい。勉強して会社のHPつくってくれんか?」と頼み、PCの先生にコードを教わりながら手作りで自社サイトの立ち上げに挑戦することになります。
当時の僕は小学5年生くらい。このタイミングで子供用(うちは3人兄弟)に共有のPCを買ってもらい、母が先生から教わる合間にタイピングやインターネットの使い方などを教えてもらっていたのを憶えています。
当時のことでよく憶えているのは、母が寝食を忘れてPC作業に熱中している姿で、起きている間のほとんどの時間を費やしてずっとページをつくっていました。
買い物カートも導入して通販を始めるなど楽しんでいる姿が印象に残っています。僕の目から見て、ここまで母が没頭できるものに出会えたこと自体がなぜか嬉しく、なんとなく良かったなぁと思っていた気がします。
そして、母がサイトづくりを始めてすぐのタイミングで、兄が福井県の私立小学校に転校&寮生活することになりました。僕もそれまでは地元の公立小学校に通っていたのですが、新しい学校に通い出した兄が、人が変わったように楽しそうにしているのを見て、わがままを言って僕も2002年4月から転校させてもらいました。
その翌年には妹も転校し、3兄弟妹ともが3週間に1回しか家に帰らないという、ほとんどずっと家に子供がいない生活になりました。
母によると、子供がいなくなった家ではずっとPCにつきっきりで、”もちママ”というキャラクターをつくり、ブログを書いたり、社員へのインタビューを載せたり、お客さんにワシオの魅力を余すことなく伝えるための企画をたくさん立上げ、全て一人でつくりあげていったそうです。
こうして、ワシオの価値を発信していくと共にお客さんとのつながりを深め、「もちはだの良さが伝わった。。。!」と思える関わりがどんどん増えていったそうです。
そんなスタンスで自社サイトを運営していた母に、転機が訪れます。
2007年、社長(僕の父)から、通販で売上をしっかり立ててキャッシュを稼げと指示され、自社サイトだけでは必要な金額は稼げないということでECモールに出店することになりました。
社長からの期待に応えるべく、ECモールに出店してからも自分なりに工夫して店舗運営をしていたそうですが、なかなか売上を伸ばすことができず、苦戦していたそうです。
そんな苦戦している母のもとに、ある日一通のメールが届きます。それはECモールの新しい担当の方から送られた「売上を上げたい店舗は会社に来い」というメッセージが書かれたものでした。
それを見て母は、もちはだの靴下を携え、その魅力を伝えるとともに具体的な売上を伸ばすための対策を教えてもらいに先方のオフィスを訪れます。この時、前述のXさんと出会うことになります。
ここで出会ったXさんに母はもちはだの魅力を全力でプレゼンし、可能性を感じてもらったXさんからECモール内で売上を伸ばすために必要なあらゆることを大量の宿題とともに教えてもらい、それの全てに完璧に応えきり、すぐ次の宿題を貰いに行くという超人的な働きを見せたそうです。
母は、初めて、具体的に売上を伸ばす方法を教えてもらえる人と出会い、そしてその教えの通りにやるとしっかり成果が出るという成功体験を重ねていきました。
母にとって、当時、父からの無茶ブリ&丸投げにしっかり応えようとしたとき、このXさん以上に頼れる相手はいませんでした。成果がともなっていったので、母はXさんに自分の願いを叶えてくれるプロフェッショナルとして全幅の信頼を寄せていくことになります。
このとき、Xさんの存在がどれだけ母の救いになったのかは計り知れません。
が、本人も気づいていないところで、母にとっての仕事の意味が変容していきます。
社内に通販部が創設され、Xさんと出会い、本格的にモール攻略を始めたあたりから母のサイトを運営する目的が、お客さんにもちはだの良さを届けるためから、課された大きな売上目標を達成するために変わっていきました。
そして、母が当時を振り返ると「お客さんにもちはだの良さを届けたいのに、売ることの責任が増していくにつれて、気づいたらあれほど楽しく書いていた文章は書けなくなり、ブログの更新も止まって、当時はその理由がわからなかった」と言っていました。
Xさんの指示のもと毎日膨大な量のタスクをこなし続け、仕事の達成感は得られるものの、逆にあれだけ楽しくやっていたお客さんにもちはだの価値を届ける楽しみは感じられなくなっていったのでした。
・母を助けたXさんとの関わり
ここで少しXさんとの関わりについて、できるだけファクト(事実)ベースで紹介します。
・ワシオが出店したECモールの担当者として出会う。
・Xさんの協力で、ワシオの店舗は年間1億円以上を販売する規模まで成長する。
・母にとって、父からの無茶ぶり(ECモールで稼げ)に応えるための頼みの綱であり、実際に救われた。
・母はずっと売上獲得のみならず、会社のマネジメントなど含む多方面で相談に乗ってもらっていた。
・その実績から、父から何度もお願いし2012年には経営コンサルタントとして契約。
・2012年時点で、ワシオのビジネスモデル崩壊の兆しはあり、利益確保のため新ブランド立上げを指導。
・2016年1月に「Yetina」ブランドが販売開始。同年2月に岳が入社。
・父から「息子を立派な経営者に育ててやってくれ」と使命を帯びる。
という感じで、ECモールの売上を伸ばしてくれたXさんに対し、ワシオの行き詰った経営を建て直すために関わってくれと社長が頼みこみ、ワシオで初めて社外の人が経営に参画することになりました。
かなり長くなりましたが、ここまでが話の前提だと思ってください。
この後に起こることを理解するには最低でもこのくらいの周辺情報が必要だと判断しました。
・ 「従業員はカード」の行きつく先は
この言葉はたくさんの人を不快にすると思います。
ただ、避けて通ることはできないので、こういった考えが生み出す世界を僕なりにお伝えしたいです。
今の僕から振り返ると、そもそもXさんは、優秀なマネージャーが、部下を思い通りに動かす形のマネジメントが成果を出すと信じている方だったように思います。いわゆる「軍隊方式」ですね。
入社してすぐのまだまだ経験の浅い僕は、ワシオの建て直しがうまくいくかどうかについて、日々のXさんとの関わりを重ねていくごとに、どれだけXさんの意に沿い、そしてそれを上回ることができるか?を判断基準にして行動を決めていくことになります。今思うと、特殊任務を命じられて作戦を遂行する昔の戦争映画の主人公みたいです。
具体的な関わりとしては、平日は事細かに現状を報告するフォーマットの日報を書き、そこで書いた内容を確実に実行、見通しが悪い場合にはXさんが納得する対策を提示できるまで書き続け、できなかった場合には叱責され、意に沿わない発言をすると暴言で潰されるような感じです。
日報を提出したらいきなり電話がかかってきて「●ねこの貧乏人!」と言われたことが何度かありました。
ちなみに、この日報を提出させて行動を全て管理するマネジメントが発揮されたのは僕に対してだけで、両親にはそのような関わりはありませんでした。
おそらく、師匠から弟子に対してのみ行われる昔の軍隊や体育会系的な熱意ある指導だったのだろうと思います。こうして僕はかわいい階級が下の兵隊もしくは部活の後輩さながらに言うことをよく聞いて反抗せず言いつけを守る忠実な部下のように扱われていきます。
この経験によって、僕のXさんの考えに基づく目標や目的を忠実に実現していくためのスキルは育ち、実際に思考する能力も実行する力もやり抜く力も養われていき、暴言を吐かれながらも言われたこと+αをきっちりやりきることによって、僕の入社後1年で会社の成績は黒字化するのでした。
ただ、Xさんのこの暴言はXさんとワシオの経営陣が参加する経営会議でも常に発揮されていて、その対象の多くは父であり、いろんな”経営者の仕事”を実行しないことに対してかなり強く怒気を含んだ叱責がデフォルトで飛び交っていました。
そんな日が続いたあるとき、経理部長から「社長への暴言が目に余る。契約を解除して欲しい。それができないなら自分が辞める。」という申し出がありました。
この申し出を受けてXさんとも相談した結果、最終的に会社としての契約は解除し、鷲尾家から個人的にお願いして引き続きコンサルタントを引き受けてもらう形を取ることになります。
今の僕から当時を振り返ると、Xさんとの関わりを続けていくことについて、経理部長と同じようにおかしいとは思えなかったのが怖いですが、この時、僕たち家族はXさんが居ないとワシオを再生させられないと疑いもなく信じ切っていたのと、経理部長がいなくなるとたちまちワシオの経営が成り立たなくなることを踏まえ、どちらとも両取りする方法を考えた結果でした。
こうして”会社間の付き合い”から”個人的な付き合い”のように関係性が変化する訳ですが、この契約関係の変化による影響がいたるところに出てくるようになります。
それまでは、会社の部長職以上で共有しながら進めていたことは、鷲尾家が決めて降ろすような形になり、会社にはもう決まったことを持ち込み、従業員には指示通りに動くことを求め、その結果を僕が毎日の日報で報告するようになります。今だからわかるのは、これで完全に軍隊の仕組みになってしまったということです。
鷲尾家は社内の誰とも相談せず、向かう方向もやることも全てXさんの指導の下で決めきり、社員の自主性など求めない、言われた事だけ確実にやるよう管理するマネジメントがどんどん強化されていきます。
要は、部下の仕事の能力など全く信じず、ただの機能として望み通りに発揮されているか否かが全てでした。これを全て会社のため、ひいては従業員のため、と信じて実行するというなんとも恐ろしい状況が出来上がりました。
これでもし給料が多かったり他の待遇が良かったり、大きなやりがいに繋がっていたらまだマシですが、そこの改善にリソースは全く振り向けられていなかったので、従業員からすると最悪の状況だったと思います。
悪気がないことは言い訳にならないと思いますし、このとき働いてくれていた皆さんには本当に申し訳ないことをしたと今でも悔いています。
ということで僕は従業員のためにという大義で従業員をもの扱いするというマネジメントを行う最悪のパワハラ上司になっていったのでした。
また、Xさんから「自分ができること以外、他人にさせることはできない。」という教えがあったこともあり、誰かが「できない」と言ったことに対し、(現場の事情を汲まずに)「こうやったらできるでしょ?」という正論を振りかざし、そしてそれを一生懸命実行し、タスク化して渡すやり方をしていました。
この時、本当にタチが悪いのは”自分の立場の強さに無自覚なまま”自分のやり方をそのまま部下にさせようとしていたことです。僕のやり方は僕の立場(三代目、統括部長)の強さで実現できる内容がかなり含まれており、一般社員では再現が不可能な要素がいくつもあります。
当時の僕は、部下のやり方や主体性を信用せず、自分がプレイヤーのつもりで手本を示して、同じようにやれ、というのはマネジメントではなくただの強い立場を利用した命令だということに全く気づけませんでした。
そして、こんなことになっている会社の裏で、僕はXさんからずっとプレッシャーをかけられ続けており、
2019年末、生産の失敗と記録的な暖冬、コロナ禍の到来が重なり、Xさんの熱意ある指導は激しさを増していきます。
・暖冬、生産トラブル、コロナ禍で気づいた自分の勘違い
2019年の冬、日本には記録的な暖冬が訪れます。そして同時にワシオはとあるメーカーからキャパ以上の仕事を受注していまい、途中工程が詰まって大幅な納期遅れを発生させていました。売上が欲しかった僕は、無理めな生産でも気合いと根性でなんとかできると思ってしまったんですね。
当然そんなことはなく、そのトラブル対応と不足した売上の手当で現場がてんやわんやの状態に加え、更に中国で新種のウイルスが発生したというニュースが入ってきたのでした。
年末時点ではそんなに大きな問題と捉えておらず、とにかく目の前の問題に対処すれば良いと考えていたのですが、年明け2020年1月23日には武漢でロックダウンが発生、ここから一気に世界中にウイルスが広がっていきます。
2020年2月末、決算成績は最悪のものでした。僕の入社後からここまで必死に皆でつくってきた利益が吹き飛び、2016年以来はじめて赤字に転落します。
いま考えると本当にいろいろ限界だったんだなと思いますが、僕はここで会社の建て直しを諦めそうになり、再就職も視野に入れて、自己PRのために自分のスキルを書き出していったりしていました。
そんな状況だったのですが、Xさんからは「業績悪化は全部お前のせい。」「何が悪いか考えろ。」「自分を見つめ直せ。」と言われ続けました。
僕は自分がワシオを経営している経営者だと認識していたので、逃げずに向き合う責任があると思い、理想を言語化しながら現状を分析し、差分を確認していきます。
そこで気づいたのが「自分がやってきたことは、スタッフのみんなが作ってくれた価値の上澄みをすくってうまいこと社会に届けていただけだった」ということ。
僕は、入社から再生させていく実績を保持し、その経緯をいろんな切り取り方で各種メディアに取り上げてもらい、講演の依頼があったりいくつか賞をもらったりするなかで、いつしか自分一人の力で会社を成り立たせていると勘違いしていたのでした。
そんな自分を恥じて振る舞いを正し、改めて会社の建て直しにフルコミットすることを決意します。従業員の雇用を守るために、助成金を活用したり、展示会出展を企画したり、都度スタッフのみんなに協力を仰ぎながら、当時の僕なりに考えたプランをXさんに提示し、叩かれて許可を得たことを全力で実行していきました。
・お前は人間性がクソ。失礼にも程がある。byXさん
約1年後の2020年末を迎えた時、「年末年始の時間を使って経営戦略を考えてこい。」とXさんに課題を渡されます。このとき僕は恋人と年末年始に旅行の計画を立てていたので、年始に旅行から帰ってきた後に着手するつもりだとXさんに伝えていました。
旅行が終わり、Xさんに年始に挨拶の電話をします。そこで言われたのは「旅行には水差したくなかったから言わんかったけどお前クソやな。」「俺の宿題より彼女を優先させよった。」「人間性おわっとる。」という内容の全面否定でした。
僕はこのとき「師匠を怒らせてしまった!!」とテンパり、ひたすら謝ることしかできなかったです。
そして年明けに予定していたオンラインMTGにてXさんは終始ずっと僕の人間性を否定し、罵倒を繰り返し、最後に「俺の2時間を無駄にしたからその分のお金を払え。年収から換算したら30万や。用意しろ。」と言われたのでした。
当時の僕はXさんから「自分には能力が無い。人間性もクソ。これまでできたことは全てXさんのおかげ。自分でやれたことなんて一つもないと思え。」と言われていたので、Xさんの力を借りないと会社を再生させることはできないと思っていました。
そのため、なんとか許してもらうためにも30万を支払おうとします。
でも、そんなお金は無いのでどこかから借りてくるしかありません。
借用書を用意して母に頼み30万円を貸してもらうことにしました。そして、それを支払う用意をしていたら、全く予想外の話に発展します。
支払う準備ができた、とXさんに話した後にまたオンラインMTGが設定されました。そこで言われたのは「お母さんから聞いたけど、お金は母親から借りたらしいな。ほんでお前家賃も払ってないらしいやないか。クソやな。」という内容でした。そこからまた1時間くらい罵倒され、「追加で10万払え、あと家にも毎月8万円家賃入れろ。40万は分割で良い。毎月7万+気持ちで払え。」と言われ、僕は師匠に許してもらうためにそれを受け入れます。
こうして、Xさんに許してもらうための日々が始まりました。
幸い実家暮らしだったので食費はかからずに済んでいましたが、平日週末関係なく朝から晩まで仕事をしているので、副業も厳しいです。Xさんからは新聞配達でもしたらええと言われましたが、さすがに体力がもたない。なので、保険を解約したりとにかく節約をがんばることで乗り切ることにしました。
そして、なんとか4ヵ月ほどで40万円の支払いを終えるも許してはもらえず、ずっと「お前の失礼がどうやったら治るか考えてその方法を言いに来い。」と言われ続けた結果、僕は自分から「毎月、日々の失礼を1回1万円として、たまった金額を支払う。」という提案をすることになります。許してもらうにはそれ以外の方法は思いつきませんでした。
具体的には、毎日の失礼を書き出してその失礼件数×1万円の計算をし、毎月その失礼をリストにして、どうやったらその失礼がなくなると思っているかをひとつずつ説明していくというものでした。
Xさんからは「じゃあその方法でやってみよか。」と言ってもらうことができました。
実際に始まると最初の1週間で20万くらいまで到達してしまい、到底払えないということでMAX10万円/月に変更して欲しいと頼み、了承を得ました。ここから毎月、1日最低1失礼くらいは溜まっていくことになったので、これは10万円の固定費と化しますが、家賃8万円の支払いは継続しているので、確実に足が出るようになってしまいます。(17-8-10=-1)
ここで取ったのが自分の資産をフリマアプリで現金化していく方法でした。自分のためのお金は一切使えず、どんどん自分が切り刻まれていくような感覚で生きていました。
こうしてXさんが納得する答えを僕が出すまで否定され続ける日々を過ごすことになります。
僕個人としては工場の赤字や納期遅れが気になっていたため製造の改善に着手したかったのですが、Xさんからは”売上が全てを癒す”と言われ、売上を獲得するために営業活動をすること以外許可されませんでした。
この時の僕の生活は、週末に300件くらいの洋服を扱う店を探してアタックリストをつくり、平日は毎日朝から50件テレアポ、週2回は出張、訪問にあてて新規開拓に集中するのと同時に資金繰り、生産管理、広報活動、経営企画などの業務と責任を(当時の自分の認識としては)独りきりで負っていました。
おそらくですが、Xさんは自分が引き受けた「岳を立派な経営者にする。」という任務を果たすことに全力を注いだ結果、最短距離で成果に直結する方法を選んだのではないかなと思います。
それが僕を自分のコピー化するというものだったのだと思います。
ただ、それで方法論はインストールされていったとしても、そもそも違う人間なので、うまくいくことはありません。
そんな状態でもXさんは絶対的な師匠なので、自分から「できないので辞めます」と言えない関係性だったこともあって、続ける選択をこちらに迫る関わりが増えていきます。
最終的に、続ける条件としてXさんが60歳になるまで15万円/月を支払い続ける契約を僕が個人で結ぶ提案をされ、僕はそれを了承しました。
==余談==
自分が体験してみて思うこととして、罰金を課して払わせるというやり方は一時的に言うことを聞かせられるかもしれませんが、そもそも人間扱いしていないやり方なので、最悪の手法だと思っています。
このとき、大事なものをいくつも現金に換えました。
背伸びして買ったお気に入りの服やバッグ、マウンテンバイク、漫画などです。
正直、手放した時に最も精神的にキツかったのは、高校生のころからずっと買い続けて揃えたジョジョの奇妙な冒険シリーズ全巻でした。
長い時間をかけて積み重ねていったものは、思い出もセットになっていることもあり、手放すときは思わず涙が零れるほどつらかったです。
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ちなみにここまで、Xさんとの関わりだけを記載していますが、実はもうお一人ワシオの再生に伴走いただいている方がいます。
さきほどちょろっとだけご紹介した会計士の先生で、西谷剛史(つよし)さんという方です。
いまの僕が財務の観点から、その健全化をどう目指すか?金融機関からはどう見えているのか?ワシオは客観的に見てどんな状態なのか?といった思考ができるのは全て西谷先生からいただいたものがベースになっています。
月に一回は確実に様子うかがいの連絡をくださったり、生意気な僕の話をいつでも真剣に聞いてくださったり、悩んでいる時には心から寄り添ってくださる方で、心の支えになってくださっていました。
一部だけ、この財務の部分では僕がXさんと互角以上に渡り合えていたので、もし西谷先生がいなかったら経営において「売上至上主義」という考え方しかできなかったかもしれません。
・恋人のおかげで見えた希望
Xさんとの関わりで精神的に追い詰められていく僕でしたが、なんとか前を向いて頑張ることができていたのは、プライベートでは恋人の存在が大きかったです。
当時、罰金の話はさすがにできませんでしたが、会社で起こっているいろんなことの相談をしたり、会社をこういう風にしていきたいという話をいつも肯定的に聞いてくれていました。
でも、ある日突然「あなたのことは好きだけど、Xさんの話をするあなたといるのはしんどい。別の人みたい。」と言われて、「別れるか一緒にカウンセリングに行くか選んで欲しい。」と泣きながら訴えられました。
当時の僕は、冗談抜きで恋人を除いた世界の全てから否定されていると思っていました。
この話が出てくるまで、僕は何度も恋人に対して「自分に価値はない。会社の業績が悪いのは全て自分が悪い。自分の人間性がクソなのを直さなければいけない。Xさんにそう言われてる。」という話をしていました。
こうやって書くと分かりますが、当時の僕は明らかにおかしいです。
彼女も恋人とのこんなやりとりは苦痛でしかないはずなのに、何度思い出しても、よく当時の僕に向き合い続けてくれたと思います。いまは結婚して夫婦へと関係性が変わりましたが、ずっと感謝しかありません。
それでも、恋人に対して別れるかどうかを選んで欲しいと訴えるということは、ついにその関係に限界が訪れたということです。
ただ、彼女はそんな状態でも僕と一緒に生きる選択肢も提示してくれました。本当にすごいことだと思います。
僕もぎりぎりのところで、こうやって差し伸べられた救いの手を必死でつかむことを選びました。
・二人でカップルカウンセリングを受ける
こうして恋人と一緒にカウンセリングを受けることになるのですが、この時に出会ったのがいまも会社の組織づくりや僕の思考を整理し言語化するお手伝いをお願いしている池内秀行先生でした。
東京、恵比寿でプロカウンセラーとして活動されていて、恋人がかつて苦しんでいたときにそこから抜け出すお手伝いをしてくださった方です。
正直、このあたりの記憶はあいまいな部分もあって、詳細は憶えていないのですが、とにかく僕はずっと「Xさんは悪くないです。めちゃくちゃ善い人です。言うとおりにできない僕が悪いんです。」と言い続けていたことと罰金については話せなかったことはよく憶えています。
1回終わって、そのあと2回目の予約を入れ、その2回を経て「あれ、なんかおかしいかも。」と思うようになりました。
確か、「Xさんはコンサルやんね?経営者じゃないよね?責任取れる立場でもないし、ワシオが依頼してやってもらってる人やんね?」というような感じで、Xさんとの関係性が健全な状態から大きく逸脱していることに気づけるように質問してくださった気がします。
あと、今回この文章を書いていておもしろいなと思うのですが、ここのあたり、どれだけ思い出そうとしても詳細を思い出せないです。たぶん自分がいままで見ていた世界が崩壊したのだと思います。この話を池内先生にすると「細かい専門的な説明はいろいろあるけど、プロセスがすすむと記憶ってそんなもんなんだよ」とさらっと言ってくれます。
ただ、どんな話をしていったのか「僕はめちゃくちゃ尊厳とかいろんなことを踏みにじられた。すごく傷ついている。そしてそれを恋人が純粋に心配してくれている。」と素直に受け止められた時に「あ、僕は洗脳状態に陥ってたんだ。」と気づきました。
本当に、一気に世界の見え方が変わり、最初は不安でしたが自分がこれまでやってきたことに少しずつ自信を持つことができるようになっていき、もうXさんと関わるのを止めて自分でやってみようと思えるようになっていきました。
そして僕は「もう限界なので僕は降りさせて欲しい。日報は書き続ける。」と両親に話してXさんに伝えてもらい、関わらないことになりました。2021年9月のことでした。
==補足==
いま思うと、Xさんと両親と僕の〈ワシオの再生〉という目的は同じように見えても、Xさんは「鷲尾家(両親)の金銭的な利益を最大化すること」と捉えていたと思います。
そしてXさんの考え方は、「ええか。従業員はカードや。うまく使え。」です。
実は、僕もXさんに、鷲尾家の金銭的な利益を最大化する目的のために、うまく使われていたのかもしれないのです。
この視点で振り返っていくと、そもそも苦しんでいる母を助けようという目的で入ったのに、Xさんの指導に従い応えていくうちに、逆に人を大切にする母を苦しめるようなことを正しいと信じて行ってきたのではないかという疑問をもてるようになっていきました。
この時点ではぼんやりしていましたが、ここから先、それがはっきりわかるようになっていきます。
結果的に、Xさんの目的達成のために動く=僕の仕事になっていたと気づけるようになっていったのでした。
すごく興味深いなと思えるのは、いまの僕はこれをXさんは100%本気で僕のためだと思っていただろうと想像できることです。
これはいろんなことで言えると思いますが、どれだけ相手のためだと考えたとしても、自分の中で正解を決め、それを押し付けて型にはめようとするのは、相手を独立した1人の人間として見ていないということになるのではないでしょうか。
そうなったとき「あなたのため」という言葉はエゴでしかなくなり、強制や支配的というハラスメントとなり不幸を生んでしまう、それが僕が経験から身をもって学んだことです。
なにより、洗脳状態が解けてくると、自分がハラスメントの被害者でもあったことがわかるようになり、その経験から【教育(教える、育てる)】や【救済(助ける、救う)】といった関わりは、立場を誤解させてしまう危険をはらんでいることが身をもってわかるようになってきました。
自覚がもてないことで、自然と上から目線であることに気づけない、それが当たり前になり「やってあげてる」と思ってしまったりすると最悪なんです。
で、思い通りに動かない相手に対してどんどん否定的になっていき、そこに全く疑問を感じられなくなる。
無自覚は本当に恐ろしいと思います。
あれ?これ僕が最初に陥ったパワハラ息子の構造ですね。
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こうしてXさんの洗脳が解けたあと更なる地獄が待っているのですが、このときはそんなことを露ほども感じていませんでした。
・勝手にうつ病と疑われる
僕はXさんとの関わりをやめ、Xさんからいきなり掛かってくる電話におびえずに日々を過ごせるようになりました。
いままでのような無茶な働き方はやめてまともに睡眠時間を確保したり、改善したかったところから手をつけ、従業員のみんなとの関係をしっかり構築しようと努力のベクトルを切り替えられたように思います。
ただ、僕が降りたとしても会社の契約(コロナ禍のタイミングで結び直していました)と僕個人の契約(Xさん60歳まで毎月15万円)は残っており、両親とXさんとの関わりは続いていました。
僕の居ないチャットグループでなにやらやり取りをしたり、月に一回XさんとMTGしていたと思ったら、両親からいきなり「Xさんがお前のことを鬱やって言ってる。いままで何人も同じようなのを見てきたって。精神病院に行って欲しい。」と言われます。
ちょっと自分に置き換えて考えてみて欲しいです。
両親から”息子を鬱にしたかもしれない明らかな元凶から「あいつ鬱や」って言われて精神病院の受診を薦める”ってやばくないですか。このへんで両親への信頼が僕の中で完全に崩壊します。
僕視点では「あ、僕が抜けた後のグループで僕は鬱扱いで、そうなった原因は僕にあると思われてるんや。」と感じてしまったからです。
このころ、僕の目からは、両親が人の形をしたバケモノみたいに見えていて、逆に鬱じゃなかったら何されるか分からないと怖くなりました。そこで、まずカウンセリングを受けたいと両親に話をし、先述の池内先生と個人的にセッションを入れ、その費用負担をしてもらうお願いをしました。
そのお金は出してもらえるということで、まず池内先生とのカウンセリングセッションで現状認識を進めて落ち着きを取り戻し、池内先生からは病院に行ったら健康だって言われると思うよと言われました。でも安心を得るために、病院に行って正式な診断をうけることも勧められました。
精神病院に行くのは精神的にハードルは高かったですが、大丈夫だと確認する目的で行ってもいいことを教えてもらい、その後タイミングをみて精神病院に行って鬱ではないと診断されました。
ただ、鬱ではないなんて結果を持ち帰ると怖いので、なんとかならないかと先生に相談したら、当時の僕の客観的状況と僕が両親やXさんに話すのが怖いという状態から適応障害という診断名がつきました。
そして両親には病名を報告し、放っとく&池内先生の費用を出すと約束してもらい、僕は定期的に池内先生のセッションを受けながら、自分が本当にやりたかったことに集中し仕事をしていけるようになっていきます。
このとき、僕が池内先生と個人的に相談していたのは”理想の組織づくり”という内容です。
ワシオ株式会社にはこれまで組織らしい組織がなく、それぞれが経験に基づいて自己判断する要素が多く存在し、戦略らしいものも計画もかったのですが、現場の方々が個別最適を繰り返してなんとか事業を継続してこれていました。
僕としては、とにかく連携を強化して、全員が同じ方向を向き、社内で対立せず力を合わせて事業を推進する関係性を構築しないと、そもそも会社が続けられないと感じていました。
それは、このままだともちはだは作り続けられるかもしれないけれど、それを適正価格で納期に合わせて必要量の受注を取っていくことは明らかに難しく、この体質を変えないと本質的に改善できないと思ったからです。
その問題意識からいろいろな研修を調べ、管理職の傾聴研修とか取り入れてコミュニケーションのスキルを身につけるための機会をつくることなどを具体的に考えていました。
セッションで池内先生に「こういうことやっていきたい。」と話をしていたら、「傾聴の研修など単発のものは定着しにくいので、それなら最初から組織開発として継続してチームビルディングに取り組む方がいいのでは」という話になりました。
僕が必要としている、傾聴や関係性改善も含めた組織開発のサポートも提供しているということだったので、会社で相談して、母に池内先生に会ってもらい、OKが出たので、組織づくりのサポートをお願いすることになりました。
細かく書くと池内先生の利益を毀損する恐れがあると思うので簡単に書きますが、月に複数回、東京から兵庫にお越しいただき、主要スタッフとの組織開発を目的としたグループコンサルティングセッションを通じて我々の理解を促進してくださいました。
こうして池内先生とは個人、会社ともにサポートしていただくようになりました。
そしてより根本から問題を解決していくために更に範囲を広げ、家族の問題にも関わっていただくようになっていきます。
・兄と妹に救われる
2022年10月10日、家族のグループLINEで父の誕生日会が企画されました。家族5人(両親+兄+妹)で何を食べるか、どうするか?という話が展開していくのですが、僕はもう到底参加できるような心情ではなく、理由は言わず無理だと伝えて不参加を表明しました。
その会自体はそのまま開催されたのですが、母は僕が出られなかったことを気にして「何が辛いかを話してもらう場をつくるから話して欲しい」と言ってきたので「分かった。」と返事をし、その場をもつことになります。
ちなみにこの時点では、母もXさんの影響を強く受けていたため、Xさんの僕へのハラスメントをハラスメントとは認識しておらず、体育会系の「僕への愛情からの熱意ある指導で、Xさんに僕が迷惑をかけている」という認識でした。
母から来た事前連絡の内容がどうにか明るくしようと頑張っている感じで、行く前から本当に憂鬱だったのですが、行ってみると想像通り楽しい会にしようと頑張る母の姿がありました。
雰囲気に耐えられず、本題に入ろうとしたら父と言い合いになり、我慢できずビールを父にかけてしまいます。
僕のことを”鬱になってしまった可哀そうな息子”だと思っているからこその対応だったのだろうと思いますが、傷ついている相手を理解したいと思って関わるのではなく、機嫌が悪い息子をあやすような扱いは鬱とかは関係なく、一人前の大人として扱われていない体験になってしまいます。
ビールをかけた後にひとりだけ帰ろうとしたら妹に「言ってもらわなければ分からない!」と言われ、罰金のことや人格否定や一方的な鬱認定の話などを全て話しました。
このとき、本当に兄と妹に救われました。
聞いてすぐ「それはおかしい!!」と言ってくれて、両親に対して「まともじゃない。」と話をしようとしてくれたことが、僕にとっては信じられないことが起きたように感じたのです。
当時の僕は、それまでの積み重なるエピソードから、家族全員がバケモノのように見えていたけど、少なくとも兄と妹は「おかしい」と言ってくれたし、二人から両親に話すとも言ってくれました。あのときの関わりはいまでも心から感謝しています。
ただ、母は「Xさんはそんな人じゃない!」と譲りません。なので、いったん僕が退席して妹から連絡があったら戻るということにし、1時間くらい外で過ごしていたら連絡があり席に戻ったのですが、状況は変わっていませんでした。
僕は母に「洗脳状態になってるよ。」と言うのですが「Xさんは本当に善い人」という認識が1mmも動かなかったです。ちなみに父はこのとき「俺は罰金のことは知らんかった!知らんかったものはどうしようもない!」という主張に終始していました。
ここで、僕が受けていたカウンセリングセッションにて池内先生から提案があったことを伝えます。
池内先生からは、Xさんに関係することを会社のグループセッションでテーブルに乗せない方が良いという判断を聞いていました。
その理由は「組織開発のグループセッションでの僕と父のやりとりを見るに、Xさんの話まで入ってきたら会社の人たちが混乱することが想定できるので、ご両親がOKなら別で家族カウンセリングとして取り組むほうが良い。」というものでした。
僕はその提案を伝えるタイミングだと思い、「僕と両親と池内先生で家族でカウンセリングを受けて欲しい。」という話をしました。
両親もなんとかしたいと思ってくれていたので、家族カウンセリングが始まることになります。
ここでの内容は池内先生の業務上の財産に関わることだと思うので言及しませんが、結果だけ書くと池内先生は事実関係から、Xさんの僕への言動はハラスメントだという話を最初から両親に説明してくれていましたが、両親が頑なに「岳のために熱意からしてくれていることでXさんはおかしくない」という姿勢は変わらず、3回の家族セッションを行った時点でも、母の洗脳状態は解除されませんでした。「Xさんは罰金でもらったお金は将来的に岳に返すつもりだと言っていたし、あの人はそうしてくれる。」と「罰金=僕のため」という解釈を曲げられなかったのでした。
父は父で、2回目のセッションで、Xさんとの契約を解除してほしいという僕の願いを聞き入れ、Xさんのところに契約解除に行くのですが、その後の報告は耳を疑うものでした。
父「会社の契約は解除したけど、お前個人の契約は残っとる。それまで解除したらXさんに何されるか分からん。」というなんらかの攻撃にさらされるリスクヘッジのために僕個人の契約を残したということでした。
そのタイミングで池内先生から提案があり、池内先生とは違う専門として、僕と両親の3人で弁護士に相談して、弁護士目線でこの件をどう捉えるのか?を聞きに行きました。
事の経緯を説明した後、弁護士の方から出てきた最初の言葉が「このXちゅうやつ許せないですね。腹立ってきた。どこまでやりますか?」というものでした。
この時の僕からは、自分の代わりに心から怒ってくれたように感じました。これは、僕が両親に求めていた振る舞いそのものでした。
このとき、事情を説明する際にXさんとのグループチャットを父から見せてもらいます。そこに書いてあったのが「息子が迷惑をかけ誠に申し訳ありません。」という言葉でした。当時の僕はこれを見て「この父親は何を大事にして生きているんだ。少なくとも僕を悪者にしてでも守りたい何かがあるのだろう。」と解釈したことで深い絶望を感じました。
ここでも詳細は伏せますが、その後も組織開発のグループセッションと並行して家族セッションを続けながら、最終的に家族全員で事業に専念した方がよっぽど実りがあるということで、契約解除の内容証明をXさんに送って契約解除にいたります。
こうしてXさんとの関わりは消失した訳ですが、このあと父は「Xさんのことは最初から好きじゃなかった。」と言い、母は少しずつ洗脳状態から脱し始めます。
母は僕に対して「ごめんなさい。」と涙ながらに何度も謝るのですが、僕は「何も分かっていないやつからの謝罪はいらん。どうせ嘘やろ。」と返し、僕と両親の関係性は一度完全に崩壊してしまいます。
==補足==
このとき、僕は両親に対して〈愛情の有無〉を争点に主張しており、なんとか両親に「僕を愛していないこと」を認めさせようとしていました。
当時の僕は「いままで僕にやってきたことは愛情が欠落していないと納得いかない」と怒っていました。愛情がある息子に対して会社を再生させるための生贄として扱うようなことをする筈がないと思っていました。
このときの僕の精神状態は、Xさんに「息子を立派な経営者に育ててくれ」とお願いしたことは「僕を生贄に捧げた」という理解に変わっており、この心情を含めて理解して欲しいというものでした。
一般的な話として、家族とか恋人の関係だと、相手のやったことに対して強い怒りを感じたときなどは特に愛情とか好きな気持ちを論点にしやすいと思います。
こんなこともあったので、自分なりに”愛とは何か?”をたくさん考えましたが答えは出ていません。いったんは「どんなときも理解しようと努める姿勢」かなぁと思っています。僕は両親にこれをずっと求めてきました。まぁでも愛の定義なんて人それぞれですしね。正解は無いと思います。
また、この当時は冷静に起こっていたことを振り返ることが出来る状態ではなかったのですが、現在の僕は、池内先生とのセッションを重ねていくなかで、当時のXさんに対する父と母の心情や、どうしてこんなことになってしまったのか、こういうことだろうという自分なりの理解があります。
それは、父もXさんも昭和の体育会系や軍隊式の上下関係がデフォルトであり、暴力的な叱咤激励、何かを習得する時の指導としての人格否定は「熱意ある指導」として歯を食いしばって、次に自分が上の立場になることを糧に我慢して頑張るという価値観が共通していたのではということです。
母と父は同じ世代です。Xさんは一回りくらい下ですが、過去の経歴をうかがうと師匠や先生は偉い人で、どんな酷いことをしても「本人のことを思って何か理由があってしている」という捉え方をしやすいのは一緒だと思います。
結局、できない弟子や生徒が悪い、それが自分の子供なら親の立場では「うちの子供はまだまだなのでお願いします。」という何の疑いももたない負のループが出来上がってしまいます。
さらに、Xさんの「ええか、従業員はカードや。うまく使え。」という価値観は、Xさん視点で捉えると、Xさんが仕事をする際に取引先のことも同じように考えているところがあっても何ら不自然ではありません。
ということは、実は母もXさんにとっては、自分の成果を出すためにうまく使われていて、僕より先に弟子化していた可能性があるということです。
現在の母は、当時を振り返り、僕に対しての振る舞いを親としての関わりではなかったと深く後悔しており、今もそれを抱えながら一緒に仕事をしてくれています。
母がここに至るまで、本当に苦しいプロセスを歩んできたと思います。父とはこの話をしないので、どう思っているかはわかりませんが、これは体育会系の価値観を根底から揺るがす話でもあることから、母とはまた違う体験をしているのではと想像しています。
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・経営責任の果たし方
いろいろあったにせよ、いったんXさんとの関わりは区切ることができました。
ただ、僕は両親を全く信じられなくなったことで、父は自分に悪気が無いことを証明するのに一生懸命で、母はあまりに強い自責の念からどうにか自分の行いを正当化しようとしているようにしか見えなくなりました。
両親とも善い人か悪い人か?という質問から考えた場合にはどちらも確実に善い人だと思います。
でも人はみんな”加害者になりたくない”という思いが非常に強く、二人ともが意図せず息子に対して害を加えていた事実に向き合えず、自分がやったことを客観的に捉え直して理解することに相当のハードルがあるように見えていました。
会社での組織開発グループセッションと、それとは別の家族セッションと両方のプロセスの中でいろいろと衝突したこともありましたが、家族も会社の管理職もそれぞれが自分の役割や責任を自覚しつつ前を向いて努力を積み重ねていってくれています。
それぞれが今までの考え方や方法も大事にしながら、少しづつ現在の状況に役立つ考え方や方法を取り入れて、トライアンドエラーとその振り返りを重ねていくことで自分たちで見極めながら変わっていきました。
ただ、そこで最後まで〈経営者の社会的責任〉について認識が合致しなかったのが父でした。
入社後からこれまでずっと、僕から父に「経営者の責任(ワシオの事業再生にフルコミットすること)」を果たして欲しいと訴えてきていたのですが、その都度「これが俺にとっての社長の仕事の仕方や。気に食わんならお前が社長なったらええやん。」と言われ続け、「こんな状態の会社を継げる訳がないやろ。実質破綻してるのとなんも変わらんぞ。会社をこんな状態にした責任を取って仕事をしてくれ。」と常々ぶつかっていました。
ただ、父からは決まって「俺はそうは思わない。破綻とか言う言葉使うな。」と激怒しながら回答されるというやり取りが続きます。
そもそもの〈ワシオは実質経営破綻している〉というところの認識が揃わない父とはずっと前提が違うために議論が平行線になり、いつか見た両親の不毛な議論と同じ構図が、僕と父の間でも再現されていくのでした。
そして2023年8月2日、家族セッション(両親+池内先生+僕)にてまた同じ議論になります。僕の訴えに対し父は「責任を果たす。」と言ったので「どうやって果たすの?」と尋ねると「死ぬ。保険金で借金を払う。」という内容の返事でした。
本当にショックが大きかったのは、万が一のことを防ぐ目的で父の死亡保険で手に入る額では会社の財務を正常化するには足りないと何度か伝えていたにも関わらず、この場の議論に勝つためだけに”自分の命を人質にした”ように見えたことです。
ここで僕も感情的になってしまい「じゃあ今すぐ死ね!目の前に道路あるから走ってる車に飛び込んでこい!しないならいつ死ぬかを決めて教えろ!ほんまならさっさとしろ!」と声を荒げ、大喧嘩になりました。
僕は池内先生から言われ、いったん席を外し、父と入れ違いで戻るような形にしたのですが、心の中で”自分が社長になるしかワシオは再生させられない”と思い、このときから徐々に自分が会社を継ぐ覚悟を決めていきます。
==補足==
父はいまも元気で生きています。
当時のことを振り返ると、自分に精神的な余裕がなく本当に良くないコミュニケーションだったなぁと思いますし、正当化するつもりはありませんが、それでもあのときの僕には他にどうしようもなかったです。
たぶん、父も同様です。時代の変化も含めて、自分にはこれ以上できないと痛感していたことをうまく言葉にできず、余裕の無さから感情的な反応だけが表に出てきていたのだと思います。
この当時の僕は、親に対する過剰な期待と、父の息子に対するプライドと申し訳なさみたいなものがぶつかって、まともに話ができなかった気がします。
僕の方も、父なりに頑張ってやってきたことを結果論から人格ごと全て否定するような関わりをしていたので、父からすると耐えられなかった部分がたくさんあったことは想像がつきます。
まぁでもとにかく今でも元気で生きてくれているのでよかったです。
売り言葉に買い言葉で、父が極端な選択をした可能性は僅かでしたがあったと思っています。
当たり前ですが、命はお金や仕事より重いです。投げ出して代わりに何かを得るために使うものではありません。
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・史上最悪の暖冬、社長就任、最悪の決算
こうして紆余曲折あり、会社を再生させるためには自分が社長になるしかない、と思うようになりました。8月に決意し、10月には経営陣(社長と部長の方々)に対して意思表明、そこから専門家の力も借りつつ金融機関との調整を進め、2ヵ月で段取りを整えました。
10月に意思表明した際には父から「ようやく覚悟が決まったか。」と言われ「なんでそんな偉そうやねん。」と感じましたが、基本的には父の望み通りに進行することが最もスムーズだったので、淡々と段取りを説明し、実行していきました。
==余談==
少し本筋とズレますが、父との関係で自分なりに学んだことがあります。
祖父が急死していきなり社長になった父は〈とにかく会社を潰さないこと〉に必死になったはずです。本来ならば、時間をかけてじっくり会社のことを理解していき、経営者のポジションに就くころには現場の仕事もよく分かって適切な差配が出来る状態を目指せていたのでしょうが、結果的にそのあたりがすっ飛んでしまったのだと思います。
“自分よりも事業が良く分かっている古参のスタッフ”と”担がれた若社長”という構図。
それが父の社長としてのはじまりだったのではないかなと。
なのでどうしても父は〈立場の力(権力)〉で仕事をするやり方しかうまくいかなかったのだろうと思います。ここに昭和の体育会系の価値観がうまく重なってしまったのではないか?というのが僕が実体験を通して辿り着いた洞察です。
そして周囲の関わりもそのようになり、「祖父のつくった会社と製品を守る」という目的が一致しているスタッフ達からはおそらく「社長は社長にしかできないことをやってください。現場はこちらでなんとか回しますから。」といったような話がなされていたのではないかなぁと想像しています。
これまでのやりとりから学べるのは、体育会系の絶対的な上下関係が自身の体験から身についているということです。
元々体育大学出身ということもあり、体育会系のきびしい上下関係で育ち、そして社長になってからも青年会議所や上下関係の厳しい事業者コミュニティに属し、それが常識となって強化されていったのだと思います。
“上から言われたことは絶対”という常識を保持し、それが通じる場所にいる間は通じますが、人に上下なんてないという常識を保持する僕と一緒に仕事をすることになった場合、仕事上の関係性に対する理解が前提からして違うので、意見がマッチすることなどある訳がありません。
カウンセリングの中で父は「後輩は先輩の奴隷だった。上級生は神様みたいな扱い。」と体育大学時代のことを振り返っているのを何度か聞きました。
また、長く続いた家督の考え方も影響していると思います。
僕は常に父の立場に対して配慮を欠き、正論を用いて論破するようなことを繰り返したために、父のもつ「家長でもあり社長でもある父に対する尊重が無い生意気な息子」という枠から出られなかった気がします。
どっちが正しいとかではなくて、相手にはそう見えているんだな、相手の常識はそうなんだな、と理解を示してお互いが相手の考え方を尊重できればそんなにトラブルに発展することは無いと思いますが、僕と父の場合はこの常識の対立を最後まで解消できませんでした。
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こうして2016年の入社時点では想像もしていなかった出来事を経験してから社長に就任するわけですが、2023年12月~2024年2月はかつてないほどの暖冬で、極寒の環境でこそ真価を発揮するもちはだはほとんど売れず、僕が入社してから最も悪い決算結果となります。
12月の時点で、今期の決算はもうどうしようもないだろうな、と思っており、2024年の商売には全く見通しが立っていませんでした。
こんな状況で社長になるなんて、いま客観的に捉えたらとんでもない決断だなと思いますが、このときの自分にはなんとかできると信じられる出来事がいくつか起きていました。
まず、1月に起きた能登の地震にて「もちはだに救われた。」という連絡をいただきました。お寺の住職さんだったのですが、地震で建物が崩れ家財を外に運び出す必要があったそうで、そのときにもちはだのインナーを着ていたから寒さを全く気にせず作業ができた。本当に助かった。と言ってくださる体験をします。
そして何より、池内先生に協働していただき、社員全員で取り組んできた組織化の成果もあって、僕からは従業員のみんなが少しずつ活き活きとしてきだしていて、一部の方々は水を得た魚のように楽しそうに仕事をしてくれているように見えていました。
もちはだは社会にとって必要だという確信と、それを実現する心強いメンバーが揃っていると思ったので、あまり怖さを感じることなく「頑張ろう。」と思わせてもらうことができたのでした。
このへんのことは前出の5月に書いたnoteに書いています。まだお読みでない方はぜひご一読くださいmm
・最初は母を助けたくて、家業再生に取り組んだはずだった
少し順番が前後しますが、2023年8月に社長になると覚悟を決めた後に池内先生と母にすぐ伝えました。
特にそこで回答はなかったのですが、9月25日に札幌大丸でもちはだのPOPUP出店があり母と一緒に設営し終わった夜、晩御飯を食べている時に「社長が辞めて岳が継ぐなら、自分は役割を果たしたから辞めたい。」という話がありました。
僕は正直、これからようやく母にとって最も良い環境づくりをはじめられる、と思っていたので本当にショックでした。
本人からは「もう自分にできることはなく、役割を果たした感覚がある。SNSとかもついていけないし、もう自分が会社に居ない方が会社にとって良いのではないか。」という葛藤があって、心底悩んだ末に僕に相談したとのことでした。
すごく悩んで、たくさんの葛藤を抱えた末に言ってきてくれているのはよく分かりました。でも、僕からは「絶対に後悔するから辞めない方が良い。考え直してくれ。」という返事をし、結果的に母をより困らせることになります。
僕がこの会社に入社しようと思った最も大きな理由は〈母を助ける〉でした。それは、ワシオにおいての居場所を奪うことでは断じてなく、かつて仕事を心から楽しんでいた母に当時の気持ちを取り戻してもらい、もちはだを楽しく思うがままに世の中に発信していってもらうことでした。
でも、この気持ちが僕のエゴだったのかもしれません。
かつて見た母の輝きを取り戻したいと思い、いろんな角度から母と話を重ねましたが、母の辞めたい気持ちはなかなか揺らぎませんでした。
このとき、同時進行で楽天から撤退した後の自社サイトの再構築を進めており、僕の元々の目論見は”母の育んできたもちはだの価値(お客さんを喜ばせたい気持ち)”をベースにサイトを作り直すことで、お客様の満足度を極限まで高められる新サイトをつくることだったのですが、結果的にこの目論見が間違っていたと後で気づきました。
それは、「母の力を信じていた」という部分はあるにしても、社運を賭けた一大プロジェクトの責任を母の背に乗せてしまったことです。
僕の中にあった過去のXさんとのことで母を許しきれず贖罪を求める気持ちと、母に対する息子視点での過剰な期待が重なり、意図せず母のキャパシティを超えた過大な要求をしていたのでした。
楽天を撤退し、自社サイトを再構築していくことは社運を賭けたプロジェクトであり、誰かに実行部分は任せたとしても、マネジメントは僕がすべきでした。だって社長以外は誰も責任が取れない内容だから。
贖罪を求める気持ちと共に取り切れない責任を課した上で成果を期待する仕事の進め方は、背景がどうであれ確実にパワハラだったと思います。
特にXさんとの間で起こったことと、このときに成すべきことや責任は全く関係がありません。
池内先生と話すうちにそこに気づかせてもらい、自らの振る舞いを猛省しました。
僕は母親に甘えていただけで、意図せず母を追い詰め、潰してしまうところでした。
そして、母にいままでのことを謝り、自分が責任をもってECの戦略をつくり、直接マネジメントすることを決めたのですが、これが8月頃のことです。新サイトは10月にオープン予定でした。
・ 「うちのオカンはほんまにすごい」という甘え
池内先生と話したとき、僕はなかなか”自分が母親に甘えている”なんてことを認められませんでした。
だって僕が小さいころ、母は本当に楽しそうにサイトをつくっていたし、狂気の沙汰かと思うくらいの膨大なコンテンツをほとんどたった一人でつくりあげ、その背景には全て”お客様のため”という純粋な気持ちがあったように思っていたから。
「あんなことを自分の意志でやっていた人間が、できない訳がない。」という前提で、自分が成長し身につけた能力は当然母親も出来て当たり前という過度な期待をしていたことに気づくのにはなかなか時間がかかりました。
僕の中で母親はずっと自分より力と能力があるスーパーウーマンであり、今日のもちはだの価値をつくりあげた存在だというのと同時に、僕自身の”もちはだを好きな気持ち”と”全てはお客様のために”という思想の根底は明らかに母から引き継いだものだったからです。
ただ、当然のように母があれもこれもできるわけではなく、僕が得意としている分析や戦略まわりのことは母にとって不得意なことだと気づくのに時間がかかりました。
僕は、”自分ができるから”という理由で勝手に”母もできるはず”と思いこみ、母に不得意な事をさせようとしていたのだなと腑に落ちたとき、自分がやってきたことをまた恥じて母に謝罪するにいたりました。
これが腑に落ちてから、自分でECの戦略立案と数値管理を全て引き受けると決めました。
そして頼りになる専門家を知人に紹介してもらってECのマネジメントを学び、試行錯誤しながら仕組みを作り上げていきます。
こうやって助けてくれる人の存在は決して当たり前ではなく、本当に幸運でした。
10月の1週目にサイトオープン、10月下旬にはスプレッドシートを使って運営管理のダッシュボードを作成、この過程で自分が手を動かすことで知りたかった情報もクリアになり、リアルタイムで追いかけられる環境を整備することができました。
こうして、母が苦手としているところは全て僕が引き受け、母が得意なところは任せる形での役割分担が少しずつ出来るようになっていきました。
ただ、僕と母の考えが割れていたとき現場スタッフの皆は働きにくかったと思います。僕が母親を悪く言う姿を見せてしまったり、本当に申し訳なかった。。。!
そして現在、母の口からもう「辞めたい」とは聞かなくなりました。
==余談==
僕が入社するまでワシオが続いた大きな理由のひとつに、”たこしげ”さんの存在があります。
ワシオがまだ楽天市場に出店していなかったころ、自社サイトでもちはだを購入されたお客さんから「たこしげさんのホームページから来ました。」というメールが入ったそうです。
たこしげさん??となり調べてみると大阪の芸人さんが集まる有名な居酒屋さんで、マスターが書くブログはたくさんの方に読まれており、そこでもちはだのことを書いてくださっていたのでした。
そうしてたこしげさん経由のお客さんがどんどん増えていきました。
母はいてもたってもいられず感謝の気持ちを込めてもちはだを送り、お礼のメールをやりとりする中で交流がスタートします。
お話を聞いてみると、「お客さんからタイツをプレゼントされて使ってみたら極寒時期のバイクの通勤が全く苦じゃなくなり感動した。それ以来お客さんにめちゃくちゃ薦めてる。」とのことで、それが2006年のことです。
お付き合いが始まってから、もちはだサイト誕生10周年では記念イベントとして、お店を貸し切っての【もちはだを囲む会】を一緒に企画、もちはだユーザーのお客さんと交流しながら新商品のアイディアをいただいたり、相談したりという時間を過ごしたことがありました。
その他にもいろいろとご迷惑にならない範囲で商売上のお付き合いを越えた関わりをずっと継続させていただいており、ワシオがしんどい時には必ずと言っていいほど力になってきてくださいました。
ちなみに母は「もちママ」と呼ばれており、僕は「むすこ」と呼ばれており、社長に就任してもずっと「むすこ」です。
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実は母に謝罪した後、11月に二人でたこしげさんを訪問しました。
そのときに今まであったいろんな事を話し、たくさんのお話をしていただきました。
そして、このときに言われて忘れられないのが「お母ちゃんは商売できんから、息子がちゃんと成立させろよ。放っとったらこの人タダで配るからな。」という言葉です。
ものすごくピュアに”もちはだをとにかくたくさんの人に使って欲しい”と考えている母は、自分の権限の範囲で人に配ろうとしてしまう。そんな売上を目的としていない姿からこそ伝わるものがあると思います。
マスターからは更に「最初にもらったメール見て感動したもん。お母ちゃんほんまにすごいんやで。」とも言われ、御礼のメール一本で人に感動を届け、そしてそれが何年たっても色褪せない関わりを継続出来ているということに、母の凄みを感じました。
改めて、もちはだの価値は、この母(もちママ)のキャラクターがつくりあげてきたあたたかい世界に支えられてきたんだと再確認し、同時に母にもっと楽しんで仕事をしてもらいたいという思いが強くなったのでした。
・ほんでうちのスタッフがほんまにすごい
ここまであまり言及していませんが、こんな家族のドタバタ劇に巻き込まれつつも、投げやりにならず品質を落とすことなくもちはだをつくり、届けることができたのは全てスタッフのみんなのおかげです。
現場が強いと、経営陣が無茶苦茶でも仕事は回ります。僕は、事業の本質的な価値を生み出しているのは、マネージャーではなくプレイヤーの方々だと思っています。実際にものをつくり、加工、検査、梱包し、受注の対応をし、お客様にとどけるまでの実務を担ってくださっている方がいないと、マネージャーの話なんてものは全て机上の空論にしかなりません。
毎日粛々と実際に手を動かしてくださる現場の方々がいて、そして現場が仕事しやすく成果につながる環境を整備するマネージャーの方々がいて、はじめて価値が生み出され、お客様のもとに良い形で届いていくのだと思っています。
心情としては、うちのスタッフについて1人1人を紹介したいところなのですが、それはまたの機会とさせていただき、ここでは全員に共通するすごいところをひとつだけ挙げさせてください。
2024年9月のタイミングで、全てのスタッフから時間をもらい1人ずつ現状についてヒアリングしました。そこで聞いた質問の中に「自分が所属する部署は組織の中でどんな役割と成果を求められていると理解しているか」というものがありました。
この質問に対し、言葉は違えど全員から「○○(自分の仕事)をきっちりやって、お客さんに喜んでもらうこと」と言うニュアンスの回答がありました。
ワシオにおいて、現場のスタッフ全員が、”ものをつくることそのもの”や”売ってお金を得ること”を目的としていませんでした。価値ある良いものをつくって、その先で「お客さんを喜ばせること」を自分の役割だと認識して仕事に取り組んでいるんだ、と改めて認識しました。
(原典が定かでない)有名な「3人のレンガ職人」という寓話があります。※下記、簡単に紹介
というような内容なのですが、現代においては3人目を評価し、現場までビジョンを浸透させてやりがいを感じてもらうマネジメント論として語られることが多いように思っています。
この3人目を”是”として捉えるのが良いかどうかは横に置きますが、少なくとも近年のトレンドとしては「上司の命令で思考停止するでもなく、自分のためでもなく、仕事に意義を感じて行動する」ことが推奨されていると思います。
こんなこと、言われる前から当然のように考えてやっているのがワシオの社員です。
よく経営者の間で「どうやったら仕事に意義を感じてもらえるか」みたいな話題が出ているのを耳にしますが、僕はそんなことを悩む必要が全くありません。
当事者からすると当たり前のようになり気づきにくいことですが、これはすごいことだと思います。
本当にこれまで、スタッフのみんなにとって仕事をするうえで嫌な事がたくさんあったでしょうし、今もあると思います。
それでも、ワシオのスタッフはいつだってお客さまによろこんでもらうために仕事をしています。
僕の個人的な願いとして、どうかこの価値をお客さまにも感じて欲しいし、届いて欲しい。
僕も入社してすぐ何もわからない中でXさんに教えられるまま仕事をし、売上のために働くことを期待され成果を上げていきましたが、楽しくもなければ幸福感もありませんでした。
でもいまの僕は成果が伴うかどうかではなく、ワシオ株式会社が元々もっている価値を適切な形でお客様に届け、その結果として獲得する売上をどう使って会社を良くしていくかを考えて仕事をしています。
たとえ業績が悪くとも、僕はいまの方が圧倒的に幸せだと感じます。
・すべてはもちはだをつくり続けたいから
ここまでいろいろと書いてきましたが、僕は2016年入社から今に至るまで、どれだけの苦境に立たされても、廃業してもちはだの生産をやめることはいつも選択肢に入りませんでした。
それは、飯のタネとかそういったことではなく、実態としてもちはだがあることで助かっている人が確実に毎年増えていっているからです。
1970年に誕生してから54年、もちはだは確実にたくさんの方を幸せにしてきた自信があります。
よく売れるから、人気商品だから、といったことではなく、確実に誰かの役に立ち、そして無くなると悲しませてしまう人たちの姿が明確に見えているからこそ、どうにかして続けられないか?と再生の道を模索し続けてきました。
祖父がつくり、父が繋ぎ、母が新しい魅力を付与し、僕がそれを発展させていくという役回りなのだとしたら、出来る限りそれを全うしたいと思って、今の時代に合わせて形を変え、残すべきものをしっかり残していけるように日々取り組んでいきたいです。
正直なところ、これまでに積み上がってきた負債は、正攻法ではどうやったって返しきれないくらい重いものになってしまいました。
それでも、会社の金銭的な評価がたったの24,000円でも、たくさんの価値が溢れているこの会社には、借金を返しても余りある魅力と価値があると心から信じています。
これからも永く続けていけるように、どうにかチャンスを余さず掴んで、納得いく形で再生させたい。
僕は、そのために社長になったのだから。
・あとがき
約3.6万字と非常に長い文章になりました。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
Xさんとの間で起こったことについては、読んでくださった方の中にはいろんな嫌な感情が湧いてきたかもしれません。
でも、Xさんはワシオに入社したばかりの僕にとっては本当に頼りになる師匠でしたし、母を助けてくれた恩人でもありました。
僕はXさんの期待に応えるために一生懸命努力したし、たくさんのスキルを身に着けて、良い結果が出たときには一緒に喜んできたのだから、どこかで健全な関係性を構築できるチャンスがあったら良かったと、時々、過去の業績を振り返っている時に思うことはあります。
ただ、売上(収入)のためには、仕方がない、、、と目をつむり、生きていくためにやりたくないことをやると、誰だって心が疲弊します。でも選択肢が他に見つからなかったら、選びたくない道を選ぶことも往々にしてあります。
それでも、どれだけしんどい未来が待っていようと、自分で覚悟をもって挑む茨の道は、大変だけど心は豊かに生きられるということを実感を伴って伝えたいです。
ただ誠実に、関わる方々を自分と同じように大切に想い、後悔しないように生きていきたいと考え、その通りに行動できた時、金銭では得られない充実感があるのも確かだからです。
正直なところ本当は「昔は大変だったけどめちゃくちゃ儲かるようになった。従業員も取引先も自分の家族も、全員とっても幸せな環境が実現している。」という話を報告したかったです。
現状はぜんぜんそんなことはなく、あらゆる点で僕たちにとっての逆風しか吹いていないし、相変わらず会社は危機的状況にあります。撤退したECモールで買ってもらっていたお客さんはほとんど自社サイトに流入していないし、あの時のモール撤退の判断を現時点(2024年12月31日)から売上で評価するのならば、残念ながら大敗していると思います。
そしてスタッフの皆にも、まだまだたくさん負担をかけていてなかなか成果に繋げられずにいるので、しんどい思いをさせていると思います。
僕の力不足で思うような成果を生み出せずにいて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
それでも、組織を大きく変革し、モールを撤退して自社サイトに注力するようになってから、本当に大変なことも前向きに協力して取り組み、小さな歩みを積み重ねていく中でどんどん会社の地力がついてきていると思っています。
ぜんぜん関係ない話のように聞こえると思いますが、僕は小さいころから鉄腕DASHが大好きで、ずっと欠かさずに観ています。あくまでTV番組なので実態は分かりませんが、何年もかけて成果が出ないプロジェクトがざらにあって、実は何年も前からこういうことやってました。みたいな話がよく出てきます。
番組に関わるみなさんがやられてきているのは、短期的な成果を求めて分かりやすく手軽なプロジェクトばかりを行うことではなく、本質的に必要だと思うことに対してある種狂気的なまでの情熱を燃やし、なんとか実現するまでやり抜くという地道な努力だと思います。
派手で分かりやすいことも大事だと思いますが、コツコツと本質的な部分から軸足をずらさずにやり切ることの素晴らしさをいつも感じ、妥協せず夢を追うことでしか見られない景色もあるだろうなと、励みにさせてもらってきました。
誰もがやりたがらない面倒なことを本気で楽しみながらやっている姿はいつだって魅力的に映ります。
自分も、誰かにとってそうでありたいですし、何より過去の自分に対して今の自分が思う事を伝えたいと思い、この文章を書きました。
最初に書いた通り、僕はたぶんいろいろ葛藤があることが影響して商売があまりうまくないです。いつだって「買って欲しい」より「使って欲しい」想いの方が勝つし、お金を稼ぐことを目的に行動を決定できません。世の中の企業再生をされてきた方々の話を知って、僕には到底できない意思決定や売上へのコミットを見て、いつも「すごいなぁ」と思っています。
だからなんとかして、「商売を成り立たせるために事業を考える」のではなく、「お客様に喜んでもらうために事業を考えた結果、商売が成り立つ」という状態を目指したいです。
なので最後にお願いなのですが、ぜひもちはだを使うために買ってください。
買ってくださった方々から「寒い」がなくなることを保証しますので、今年の寒波を乗り切るためにも、ぜひ一度試してみてもらえると嬉しいです。
※リニューアルした自社サイト
あと、スタッフがもちはだの魅力を伝えるためのnoteを始めてくれたので、アカウントを紹介します。最初に何を選んだらよいかの参考にもなると思いますので、よかったらフォローをお願いします。
・余談 - 自分の選択を支えた要素について
いくつか、ストーリーが脇道に逸れてしまうと思って言及しなかった要素があります。
Xさんやその他いろんな関わりで人が信じられなくなったりした僕は、たくさんの人との関わりによって自分に価値があると信じ直すことができました。
僕がまるで1人の力で乗り越えたように見えると良くないと思うので、それらをここにしっかりと書いておきます。
※妻と池内先生については本文に記載しているので省略します。
①西谷先生
Xさんからの洗脳が解けた後、前向きに会社をやっていこうと思えたのは間違いなく西谷先生から授かった能力、知見のおかげでした。
当たり前のことですが、会社は根性論で継続することはできず、資金繰りを回して継続できます。
入社当初からボロボロでどうにもならなかった財務について、ものを知らずちょっと失礼な僕に対してずっと誠実に向き合ってくださり、僕が結果を出して調子に乗っているときも、落ち込んでどんぞこの時も、どんな状態の時もずっと変わらず厳しくもあたたかく接してくださいました。
西谷先生がいてくださったから、コロナ禍を乗り越え、いままで資金繰りを回すことができています。
そして、5月にnoteがバズった際にはお一人だけ苦言を呈していただき、「絶対に自分でつくったストーリーに埋没してはいけない」と言ってもらったことで、変に被害者ぶったりヒロイックになることなく現実に向き合って行動することができました。正直、危なかったです。
ちなみに、外部で関わってくださる方の中ではこの方がいちばん僕のこれまでの変遷をご存知です。笑
西谷先生はずっと「岳さんとの仕事はお金じゃない」と笑いながら常にフルコミットしてくださる本当に凄い方で、心から尊敬しています。
②どんなときも変わらず接してくださる方々
たこしげのマスター&おおみぞさん、木村石鹸の木村社長、友安製作所の友安社長、THEの米津社長、堀田カーペットの堀田社長、錦城護謨の太田社長、アックスヤマザキの山崎社長、三星の岩田社長、ムサシの岡本社長、コテンの深井社長、クロマニヨンの小栁社長、一平ホールディングスの村岡社長、ニューワールドの井手社長、Makuakeの松岡くん、東町法律事務所の麦先生、OtoFitの冨田さん、澤村の岩本部長、河辺の川西さん、カポックの深井くん、金楠水産の樟さん、山西牧場の倉持さん、エベリストの本島さん、インターナショナルシューズの上田さん、巽クレアティフの高柳さん、リングスターの唐金さん、斉藤塗料の菅さん、TIMEWELLの濱本さん、バンバンバンの吉井さん、SIO同期の面々、などなど、僕がどんな状況でもあたたかくやさしく、正面から向き合ってくれる方々がいたからこそ、腐らずに目の前のことに取り組もうと思う事ができました。
お一人ずつ感謝を書いていくと大変なことになるので省きますが、みなさんに共通しているのは”調子が良い時だけ仲良くする”ような振る舞いをせず、僕のメンタルがしんどいときこそ親身になって話を聞いてくださり、僕の力を信じてくださったということです。
いろいろあって追い込まれ、自分にはもう価値がないと思い込んでいた時期には特にすごく助けになりました。本当にありがとうございました。
③学生時代の経験
人ではありませんが、外せない要素として書いておきます。
僕は小学校6年生から中学校3年生まで福井県で寮生活(3週間に1回の帰宅)、高校3年間は和歌山で寮生活(1週間に1回の帰宅)をしていました。
もちろん私立で福井県の方が「かつやま子どもの村小・中学校」で、和歌山の方が「きのくに高等専修学校」という名前の学校です。
ここの教育が一般的な学校とは大きく異なっていて、まず上下関係がありません。それも全く。先生は”おとな”と呼ばれ、基本的にはあだ名で呼ばれているし、敬語で喋る人はいません。それは敬意を払わないということでは全くなく、一人の人間としてフラットに扱われ、自分も他者をそう扱うということです。
また、この学校においては立場上の権力をもつ人がほとんど存在せず、基本的にはやりたいことは自分の力で実現する必要があるし、本当にやりたい場合は全力で周囲の大人がサポートしてくれます。
たとえば僕は中学校の時に設置する場所も川も無いのに「水車をつくりたい!」と言い出して、フィールドワークで実際の水車を見に行きスケッチ、勘で設計図を書いて材料をおとなに揃えてもらい、こどもで力を合わせてつくりました。
このとき、他のメンバーからカモを飼いたいからカモ小屋をつくることが提案され、プールから水を引いてきて川を掘ってそこで水車を回して米を衝き、それを餌にすることまで話し合えたので、水車の置き場所ができました。
あと、おとな側の都合でつくられた校則も基本的には存在せず、週に1回の全校MTGでこどもが主体となりおとなと一緒にルールを検討していきます。それも一度つくったらずっとそのままという訳ではなく、何か状況が変わって適さなくなったら自然とこどもからアップデート案が出てきていました。
本気で説明しだすとかなり長くなってしまうため重要な部分だけ書きますが、僕はここで多感な時期を過ごし、その後普通の大学に入ったことで感じたギャップから「立場は社会から賦与され、その人自身とは関係がないもの」ということと、「正解なんて存在しない」ということ、「ルールはつくり、アップデートするもの」ということ、「普通は人それぞれで違うもの」ということ、「他人のせいにしていたら何も成せない」というような常識をいつのまにか身に着けていました。
ここまで書いたいろんな決断について「正解か不正解か?」なんて問いをもって考えていたらたぶん行動できなくなっていたでしょうし、「偉い人(コンサルとか父親とか)の言うことは絶対」みたいなことを考えていたら言われた通りに生きていた気がします。
良し悪しを論じる気はないですが、絶望せずに自分の考えを大切に思考できたのはこの学校で培った価値観がとても大きい影響を与えていると思います。
以上、余談でした。
僕が思うのは、人格みたいなものはその人が過ごしてきた環境(経験)によっていくらでも変わり得るということです。そして、その環境が多様であればあるほど、なんらかの物事を解釈する際の物差しが増え、いろんな角度から捉えられるようになります。それが良いことなのかどうかは人によりますが、選択肢は増やせる可能性があると思います。
ただ、僕は基本的にいまの社会がすごく生きづらいなと思う時があります。
誰の都合でつくられたのかよくわからない形骸化したルールに従わなければいけない時や、上から目線で話をされる方と出会った時、自分がただの機能(道具)として扱われた時などは胃がねじきれるんじゃないかと思うくらいストレスがかかります。
個人的には、この社会において皆が自立した一人の人間として、お互いに尊重できる関係性をたくさん構築し、助け合って生きていけたら良いなと切に願っています。
そんな社会や関係性をつくるために、これからも歯を食いしばって頑張っていきますので、一緒になにかやれる方々と出会えたら嬉しいです。
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。
・池内先生からコメント
ここまでの文章は、池内先生に確認していただきながら、できるだけ読まれる方に配慮し、誰も傷つかない形で僕の言いたいことが表現できるように添削いただきながら書き上げました。
年末のお忙しい中お時間を割いてくださり、本当に感謝しかありません。
そんな池内先生から今回の文章についてのコメントをいただきましたので、最後に掲載いたします。
=====池内先生より=====
こんにちは。カウンセラーの池内秀行です。
岳さんから依頼を頂いた「誰も傷つかない形」についてどこまで達成できたかは、読んでくださった皆様の感想にゆだねられるので、皆様の声がきこえてきたら真摯に受け止めていきたいと思っています。
文章についてのコメントを頼まれましたが、私の立場では、最初に、ここに登場しないワシオ株式会社のみなさんが存在することをお伝えすることが大切だと思いました。
私が直接関わらせていただいている皆さん、直接は関わらせていただいていない皆さん、それぞれが、日々、努力と苦労を積み重ねていらっしゃることを私はお伝えすることができます。
そして、お一人お一人の思いと努力と苦労が交差し、積み重なり、時にはすれ違い、報われたと感じることも報われないと感じることも、全てが折重なって会社が存続していることを、関わりの中で常に実感させて頂いています。
一人や数人の能力と努力で、会社が存続しているわけでも、成長していくわけでも、変わっていくわけでもない。組織開発の仕事で当事者のみなさんとお話をしていると、常にそれを実感します。
意図しないボタンの掛け違いが気がつくと大きな問題になっていることは、よくある話です。
ボタンを掛け違えないように意識していくことは大切ですが、それでも様々な要因や影響で掛け違えることはあります。
そんな時、掛け違えたボタンをみつけて掛け直し、起こってしまったことをどのように収束させ、同時に進んでいくのか?そのプロセスで人は様々な体験をして色々なことを学んでいくことは、多くの人が経験から知っていることだと思います。
今回の内容は、複数のボタンの掛け違いが積み重なり、バックラッシュしていた状態を、当事者一人一人の思いと努力が交差しながら解けて、ここから良いものが交差し折重なっていくマイルストーンを示す内容になっているのではと思います。
2025年、ワシオ株式会社の皆さんが大切にしていることが具体的な形になっていくこと、そして、実りある様々な良い機会と出会いがあることを心から願って。
株式会社 Heart and Holistic Consulting
プロカウンセラー池内秀行