どうする信長、武田との決戦をどうする?(大河ドラマ連動エッセイ)
大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。今回のどうする?は、ずばり、武田との決戦をどうする?です。(写真は、織田軍救援を長篠城兵に告げたため、武田軍により捕らえられた鳥居強右衛門)
ドラマでは、1575(天正3)年5月21日の長篠の戦い(愛知県新城市)が描かれています。長篠の戦いは、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦いで、武田軍の武将の多くが討死し、壊滅する結果となりました。織田、徳川軍の戦略は織田主導で決められたようです。どういうことでしょうか?今回のどうする信長?は、武田との決戦をどうする?です(ネタバレを含みますのでご注意ください)。
まず、武田軍の戦略はどういったものでしょうか。武田と織田の境界は美濃(岐阜)の東部で、1574年2月、武田軍は明知城を落とします。そして、同年6月、武田と徳川の境界である遠江(静岡)東部で、高天神城を落とします。西へ東へずいぶん忙しいですね。武田としては、徳川との決戦は兵力で自らが上回っているため、これを望みますが、浜松城攻めは、長期戦になり、織田が援軍で来るのでこれはしない。徐々に徳川領を侵食し、調略などで徳川に圧迫を加える、というものだったと考えられます。
ドラマでも描かれていましたが、岡崎城(愛知西部)で、1575年4月、武田に内通した、大岡弥四郎の謀反未遂事件が起きます。謀反が成功したら、武田軍は岡崎になだれ込む計画だったのでしょう。謀反は失敗しましたが、武田軍は、三河に入り、4月12日に足助城(豊田市)を、野田城(新城市)を攻略、吉田城(豊橋市)を攻める構えを見せ、救援に出てくる徳川軍をたたく考えでしたが、家康本軍はすきを突いて吉田城に入ります。城攻めは攻撃側の被害が大きくなるので、家康を野戦に誘いだそうとしますが叶わず、武田軍は方針を転換し、5月1日、長篠城を包囲します。ここでも救援に来る徳川軍を野戦でたたくか、来なければ、長篠城を攻略し、今回は甲斐へ帰る予定だったのでしょう。長篠城主の奥平信昌は、元武田方でしたが、2年前に徳川に寝返り、この年の2月28日に城主となります。
徳川軍の戦略は、というと兵力が六千程度 であり、一万五千から二万の武田軍と戦うの不利ということで、長篠城の救援には行けません。織田信長に援軍を求めます。
ここで信長の戦略ですが、この年の3月、徳川に兵糧米2000俵を送ります(長篠には300俵。一石は2俵半で一人一年分。城兵は500人)。これを担当したのが佐久間信盛で、長篠城を始め、地域の城や地形などを視察したようです。
信長は4月6日、岐阜を出発し、同8日以降、河内の三好康長、大坂の石山本願寺を相次いで攻撃し、同28日、岐阜に帰ります。武田軍の三河侵入を聞いてのことだと考えられます。信長軍は5月13日に岐阜を出発、14日に岡崎で家康と合流し、18日、長篠城の西、設楽原付近に着陣します。長篠城まで約4キロの地点です。ここで信長がとった策は、武田軍を迎え撃つ防御策です。いわゆる野戦築城といわれるもので、空堀を堀り、その後ろに馬防柵を設け、その後ろに土を盛り立て、人の背の高さくらいの土居(土の垣)をつくり、その土居の中に銃を撃つ穴を設けました。こうした陣地を三重以上つくったとされます。こうした野戦場の大規模な築城は日本の戦史で初めてのことで、信長が西洋の宣教師から、西洋の戦史について聞き、参考にした可能性が指摘されています。地形などは佐久間信盛が来た際など、事前に下調べしていたようです。また、鉄砲を大量に集めており、畿内の細川藤孝や筒井順慶に、鉄砲、火薬弾薬、鉄砲の射手を送るように求めています。織田軍が集めた鉄砲は3000とも言われています。のちの加賀百万石、金沢城主の前田利家など馬回り将校5名が鉄砲隊を指揮しました。旗本鉄砲と言われ、総大将信長の下に鉄砲隊を集中させ、統一運用するというものです。
織田徳川軍の設楽が原到着を受けて、武田勝頼も本陣を長篠城の北から西へ、織田軍の数珀メートル前に移動させます。両軍の間には連吾川という川が流れていました。武田軍の当初の目標は、長篠城を落とす、徳川軍に打撃を与える、というものでしたが、織田軍の登場によって、織田軍と戦うか、甲斐へ退却するか、の選択を迫られます。織田軍との持久戦も考えられますが、三河は敵地であり、食糧などの補給に不安がありました。
一方、信長軍は、まず、長篠城を救出しなければなりませんので、短期決戦が望ましいところです。信長軍自体は、空堀や土居を築くという防御戦をとろうとしていますが、ここで、信長は巧みに「織田軍は武田を恐れており、戦意が低い」、「重臣の佐久間信盛が裏切る」などの情報操作を行い、武田軍の攻撃に誘います。「鉄砲が少ない」という情報を流した可能性もあります。また、軍議での決定を、軍議後にくつがえすなど、敵のスパイ対策も行っていたようです。また、5月18日から20日は雨が続き、21日早朝は靄が出たことから、空堀や土居の存在は、武田軍に気づかれていなかったようです。
(地図はまっぷるトラベルガイドさんをご参照ください。https://www.mapple.net/articles/bk/1239/)
5月21日早朝、武田本軍は設楽が原で、連吾川を渡り、織田軍を攻撃します。ただ、空堀の前で停滞したところで、鉄砲による一斉射撃を受けます。被害が重なる一方で、馬防柵を越え、信長軍に打撃を与えることはできません(鉄砲の三交替撃ちというのはなかったという説が有力です)。
他方、織田・徳川軍は20日夜、別動隊を組織し、長篠城の南から同城を包囲する鳶ヶ巣山砦の武田軍を攻撃させます。この別動隊は、徳川重臣の酒井忠次が率い、5000の規模で、鉄砲も500、擁していました。別動隊は、21日の未明、武田軍の寝込みを襲い、壊滅させ、長篠城救援に成功します。さらに、城の北側の武田軍も掃討し、設楽が原の武田本軍の退路を脅かすことになります。武田本軍は、目の前(西)に織田徳川の本軍、後ろに織田徳川の別動隊と、挟まれる形になりました。退却は後ろから総攻撃にあう可能性がありますが、前進しても、空堀の前で、鉄砲の餌食になります。武田軍は前進突撃を行い、多くの死傷者が出たようです。織田の柵を突破しても、押し返されたり、包囲されたりだったようです。やがて退却を始めますが、ここで重臣の多くが戦死し、一万人といわれる死者を出しました。織田徳川方の犠牲者はわずかだったようです。武田軍の圧倒的な敗北です。
信長の勝利は、必ずしも確実性の高いものではありませんでしたが、「武田軍の長篠城包囲、設楽が原で野戦築城による防御戦、敵を挟撃、鉄砲の集中運用」というシナリオが的中したように思えます。一方、武田軍は、「徳川軍との決戦」という父信玄が行った三方ヶ原の戦いと同じ想定でした。勝ちに不思議の勝ちあれど、敗けに不思議の敗けはなし、といいます。信長は、設楽が原という戦場を選びましたが、武田は戦場を選ばされました。いえ、そもそも長篠城を攻めたのは武田軍です。武田は主導的立場だったはずです。結局、武田にとって長篠城は 寄せ餌だったともいえるでしょう。
信長は、桶狭間、姉川、長篠、と人生で三回の野戦決戦を行っています。地形や天候といった条件をうまく活かして、それぞれ勝利しました。いずれも戦場は自らの支配地が選ばれているところ、つまり防御戦であるところが注目されます。
長篠の戦いの教訓を学んだ武将が羽柴秀吉と徳川家康、この二人が戦った小牧長久手の戦い(1584年)は、互いに智謀がありすぎて、野戦で長期対峙し、本軍どうしの決戦には至りませんでした。信長の戦いは、彼の「跡取り」の戦い方にも影響を与えているのです。