非デジタルな持ち物で、自分のためだけの時間を確保する
新型コロナウイルスの流行で、生活におけるデジタルの割合が増えた。
仲間とお酒を飲みながら語るのではなく、感じたことはTwitterに書く。
旅先で一目惚れしたお酒を買うのではなく、Amazonで調べて購入する。
旅行に行けないけど刺激は欲しくて、YouTubeを延々と眺めてしまう。
なにげない日常が徐々にデジタル化している。
もともと自分は生活におけるデジタルの割合は高かった(家電の操作を自動化したり、Uber Eatsの頻度が高かったり…)が、最近たまに、デジタルから離れたくなる瞬間がある。疲れているのかもしれない。
このようなデジタル化で、我々の疲れは加速しているのではないか。それはなぜなのか、どう癒やすことができるのか。考えたことを書いてみる。
なぜデジタルが我々を疲れさせるのか
デジタルの世界に放り投げられたものは、「合理的で、間違いがない」ことを求められがちである。
Twitterでのつぶやきはデータとして残るので、誤字脱字がないか、意図が伝わるかどうか、気を遣う。
Amazonでの買い物は旅先のように一期一会ではないので、レビューを読んでみたり、類似製品のスペックを調べて納得してから買う。
YouTubeにアップされた動画はサムネイルや構成が綿密に考えられたものが多く、その動画が再生されないことへの恐怖すら感じることがある。
ことSNSに関してはコロナ禍でその殺伐具合が増しているようにも感じる。「情報は正しいのか?」「出所は確かなのか?」「解釈は間違っていないのか?」…等々。
デジタルの世界に何かを放り投げることは、疲れる。
放り投げられたものから、放り投げた人の疲れを感じることもある。
それでもデジタルで生きていく
デジタルが嫌いなわけではない。むしろ好きかもしれない。
何気なく喋った内容よりも、デジタルで残された文章のほうが広く人に読んでもらえる。読み返すのも容易い。変更履歴が残る。
また、合理性や論理性はそれこそがコミュニケーションのプロトコルであり、人間の有機的な幸せには欠かせないものだと思う。
でも、これからずっと長い付き合いになるからこそ、デジタルによる疲れがあるならばそれを認識し、癒やすことは大事である。
デジタルによる疲れを、どうやって癒やしていけばいいのだろうか。
アナログな持ち物で、自分のためだけの時間を確保する
最近、アナログな持ち物が少し増えている。アナログレコード、カセットテープ、万年筆、調理用の鍋、アロマキャンドル、観葉植物…。これらと向き合う時間がデジタルによる疲れを大いに癒やしてくれることに、最近気づいた。なぜだろうか。
アナログな物体は、自分のためだけに存在してくれる。
鍋で料理してつくった食事は、自分だけが食べることができる。Uber Eatsで届けられて不味いと批判されたり、値段の設定に悩むこともない。
万年筆で手元の紙に書き付けた文章は、誰かに読まれて解釈される可能性がない、自分のためだけのものだ。(特に万年筆は、ボールペンのように「あらゆるユースケースに対応しなければ」というような気負いを感じないので、よりこの感覚を強めてくれる。)
アナログな物体は唯一無二なので、確実に「自分のもの」である。
アナログレコードは、デジタルなコピーが不可能だ。こと古いレコードに関しては2つと似たものがなく、唯一無二の変遷がある。再生するときも、その音が量子化されてコピーされることはない。
まったく同じ観葉植物は存在しない。同じ品種でも鉢の大きさや環境によっておおきく形を変える。
つまり、アナログな持ち物と向き合う時間は、他の誰のものでもなく、自分だけの、自分のためだけの時間になるのだ。
ここまで読んでくれているあなたも、見回してみると、そういう存在があることに気づくと思う。それは飼っている猫かもしれないし、ランニング中に見る川の水面かもしれない。
おわりに
なぜアナログな持ち物と向き合う時間が我々を癒やしてくれるのか?
それは単純に人間がアナログな仕組みで動いているものだからだと感じる。
同じ動作を2度繰り返すことはできないし、その日によって体調は変わる。同じ人間は2人存在しない。いちどに多くの人間に向き合うことはできない。自分のために何かしてあげられるのは、(主には)自分。
近い性質をもつアナログな物体と向き合うからこそ、共感して疲れが癒やされているのかもしれない。
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