ハイテク日記再読:MacとOASYSとNiftyServe の日々の個人的な記録
私、電気屋の倅であったためにテレビをはじめ家電製品に囲まれて育ってきました。
テレビ放送が白黒からカラーに変わり、カラーテレビが普及し、洗濯機や電気炊飯器が進化し、そしてカセットテープレコーダーが進化しラジカセになりダブルカセットになり、やがてパソコン、ワープロ、電子手帳などハイテク機器がでまわってきて…という過程を実物に身近に接していきてきました。
おかげで年齢の割にはパソコンやインターネットの世界に通じ、それを教えたりするということをなりわいにするにいたっています。
これはもう、電気屋という職業を選択した父のおかげです。
ハイテク日記でよみがえる記憶
閑話休題。
先日、NHKで放映された『プロフェッショナル 仕事の流儀』の歌人 俵万智さんの回「平凡な日常は、油断ならない 〜歌人・俵万智〜」をNHKプラスで観ました。
短歌には恋い焦がれつつ、さらに言えば、祖母も歌を詠み、倅も歌詠みなのに、未だに一首もものにできないでいる私です。
でも、読むのは好き。
もちろん高尚な解釈などできず、好き嫌いでしか判断はできませんが、まぁ、それでも読んで感心したり、たまに頭を悩ませたりしています。
そんな私のような人間に、より短歌を身近に感じさせてくれた存在が、俵万智さん。
『サラダ記念日』でのブームに影響されたことも若干はありますが、私にとってはやはり雑誌『ASAHIパソコン』での連載「ハイテク日記」が俵万智さんをぐっと、勝手にですが身近に感じ、好きになるきっかけでした。
検索したらAmazonのマーケットプレースで発見。思わずポチとしてしまい、再読したのです。
連載を読んではいたけれど、単行本は初読なので、再読とは言わないのかなもしれませんが…
上記、ブクログに簡単な感想を書いています。酔狂な方はご覧ください。
この、ハイテク日記が書かれたのは1989年から1991年にかけて。
私 (1960年生れ) が28歳〜31歳にかけて、俵万智さんは26歳〜29歳にかけて、ということになります。
この当時、ISBNコードはあるものの、まだバーコードは印刷されていなかったのです。時代を感じます。
ここではハイテク日記によって呼び起こされた記憶を記録のために綴っておきたいと思います。
ワープロ専用機は文系人間にも機械との距離を縮めてくれた
このころ私は実家である家電店で仕事をしていました。
いまや歌人となった長男が1歳〜4歳の頃でした。
俵万智さん、ASAHIパソコン編集部が用意してくれたMacintoshでワープロに挑戦するもなかなか思うようにいかない。そんな日記をみて指揮者の岩城宏之さんが連絡をくれるのです。
連載当時は見落としていたのですが、岩城宏之さんワープロマニアとも言える方でした。
自分のOASYS を演奏で訪れるヨーロッパやオーストラリア、金沢など各地に置いていて、俵さんが訪問した自宅にも何台もあったそう。
この時の俵万智さんの描写が面白いので引用。
岩城宏之さんと言えば、指揮者としてはもちろん文筆家としても有名。雑誌『話しの特集』での連載などは私も学生の頃から読んでいました。
私の読んだ数々の文章のいくつかは、オアシスで執筆されていたのですねきっと。
私も仕事柄をいいことに、My OASYS Ⅱ を皮切りに何台も使い、そして、その頃は、ワープロを店頭で販売していました。
自慢じゃないけど、地区では早く取り組んで、けっこうな数を販売していた、はずです。
実は私も最初はパソコン、シャープ MZ-2000 がこうした機器との最初の出会い。NEC だと PC−6601 や PC−8001の時代でした。
でも、プログラムを書いたりするのは性に合わず、根っから文系の私はオアシスと出会って今があります。
そんな私とOASYS との出会いについては下記のnote記事に書きましたのでよろしければご一読ください。
電話料金を気にしながらパソコン通信をした日々
Mac、OASYS とともに、『俵万智のハイテク日記』の中で重要な一を締めるのが Nifty Serve 、そう、いまのようなインターネットという言葉すらまだない時代の通信手段、パソコン通信です。
いま、私の環境で通信速度を測定したら、300Mbps 程度でています。
あの時代は、メガのつかない時代。
私が最初にパソコン通信したころは、1200bpsだったか。
おそらく1991年頃だと9600bps 位だったよう。
私が当時住んでいたのは新潟県の西端、アクセスポイントは新潟か金沢にしかなかったのではないかと思う。
それでも Nift Serve の FOASYS などフォーラム(会議室のようなもの)でおしゃべりしたりして楽しんでいました。オフ会もなんどか経験したなぁ。
『俵万智のハイテク日記』に戻ると、連載の2回目では、
などというやり取りをしていた俵万智さんが、最後の方では第二歌集『風のてのひら』の構成をワープロでやり、海外からパソコン通信をやるまでに至のですから、それだけでも感動してしまいます。
なんか、こんなこと書いていけば切りがないので、最後は俵万智さんの歌を引用してとりあえず一旦おしまいにします。
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