「道」を創る
2024年、私はふとしたことから、プレイステーション2(以下PS2)のソフトである『ワイルドアームズ アドヴァンスドサード(以下WA3)』を初めてプレイした。
発売当時の2002年、大学生だった私は、非常につまらない理由でその作品を敬遠してしまった。シリーズ一作目を「神ゲー」と崇め、二作目も非常に楽しめたのに、プレイもせずに拒絶した。
その選択は結果として、以降のシリーズ作品を軒並み遠ざけてしまうこととなる。非常に罪深い行為だったと、今は恥じている。
22年の時を経てプレイするに至ったきっかけは、ニンテンドーSwitchのおかげであった。任天堂が正式に出した「Switchは一年に一回は通電してあげてね」というコメントを受けて、私は手持ちのゲームハードをたまには通電させてあげようと思ったのである。
PS2は数年前に『ドラクエ5』をプレイして以降起動しておらず、最近は専らSwitchかPS4、レトロフリークにしか出番がない。
「出して……ここから出して……」というPS2の声を聞いた気がした。いや、それだとホラーになってしまうので「遊んで~たまには遊んで~」だったことにしよう。
プレイする作品にはいくつか候補があり『サガフロンティア2(PS)』、『ヴァルキリープロファイル2 シルメリア』、『幻想水滸伝2(PS)』、そして本作である。なんだか二作目ばかりだ。
その中で本作が選ばれたのは、単なる消去法である。『サガフロ2』はリマスターが出るという噂があったし、『シルメリア』は「今じゃない感」という曖昧な障壁に阻まれ、『幻水2』は1と合わせたリマスターが出てるんだよなぁ……ということで、残ったのがこの『WA3』だ。
プレイした感想は「なかなか良かった」であった。うら若き女主人公、ヴァージニアが二丁拳銃で戦う姿は痺れるし、彼女の正義を貫かんとする姿勢に、薄汚れてしまった中年の心は、浄化まではされないものの、冷たい水で顔を洗ったくらいには動いた。「正義」などというものの存在を信じることができなくなった荒野と、現代社会が重なった。
台詞も良い。メインキャラの一人であるギャロウズは古い慣習のある村に生まれたことを疎み、自由を求めていたが、ある日気づき、叫ぶ。
「自由とは、全ての「由」を自らに求めるもの! 自分で考え、自分で動き、結果、自分で自分の責任(ケツ)をもつ事で、自分の存在、その瞬間を創っていく事なんだッ!! ひとりひとりが意思を持って、未来を創る事だ!」
なんと熱い台詞だろうか。彼、ギャロウズは若干24歳。そんな若者にこんなことを言われたら、中年は大人しくこれまでの自分の生き様を振り返るしかない。
私は当時この作品を拒絶した自分のケツをもった。ここからまた未来を始めることができるのかもしれない。
また、NPCのコーデル氏の台詞はこうだ。
「【道】などというのは、己の前には無く、目的(ゴール)に向かって前進する、己の後ろにできるモノなのだ」
というようなことを言っている。正確でないことは申し訳ないが、こちらも刺さる人には刺さる台詞だろう。
これまでゴールはあっても前進してこなかったどころか、未だにゴールをひとつに絞れずにいる私にとってはまさに致命傷になりかねない台詞だった。身に染み付いたスルースキルが発動し、紙一重のところで躱すことができたが、二日ほどメンタルをやられ、ゲームの進行が遅れた。
だが、やはり若い頃にプレイしたほうが楽しめたのかもしれないと思う部分がある。
「最近の若いモンは、ナビゲーションがなければ次の目的地にも行けんのか!」と呆れている中年の私ではあるが、町やダンジョンがサーチしないと出現しない仕様には面倒くささを感じてしまった。街で話を聞かないと次の目的地がわからないところまでは良いが「東の~」などという曖昧なヒントで、荒野をサーチしながら歩き回ることになる。しかもエンカウント率が非常に高い。思わず「サーチしないとこんな大きな街にも気づかないの?」と嫌味を言ってしまいたくなる。
少なからず、私も現代のゲームに慣れてきているのだろう。レトロゲーム特有の面倒臭さを楽しむには、もう年齢を重ねすぎてしまったのかもしれない。
だが、若き日の私は、この作品を拒絶してしまった。
今思えば、本当につまらない理由だった。
それは「ギャロウズがヒーラー枠なのが嫌だった」である。
ギャロウズは前述したように、熱い台詞を吐く24歳の若者である。ちょっとチャラいところもあるが、いい兄ちゃんである。
しかし、当時の私はこう思った。
「おっさんが回復役のゲームなんかやりたくねーよ」
ギャロウズの外見は筋肉マッチョのインディアン風で身長も高く、アナゴには負けるが唇も分厚い。今見れば個性爆発の良キャラだが、嗚呼、当時私は若かった。
その頃は調べもしなかったので彼の年齢は知らなかったが、24歳なんてピッチピチのヤングではないか。35歳は過ぎていると思っていた。
そして、回復呪文は特に彼の専門というわけではなく、誰にでも自由に付け替えることができるものだったので、私は専らヴァージニアに癒されていた。
何事も、やってみなければわからないのである。
年齢を重ねて、色々なことが衰えたり、鈍ったりしている。昔は夢中になれたことも心からは楽しめなくなったり、嬉しいはずのことにさえ素直に喜べなくなった。目も耳も疲れ果ててしまっている。
それでも、年をとったからこそ、物事を違った角度から見たり、考えたり、感じたりすることができるようになった。
「年を取ることは、決して悪いことばかりではない」というどこかで聞いた、そんな安っぽい台詞にも、ようやく「そうだね」と返すことができるようになった。
恥をかき、打ちのめされ、自身を否定し、嘆くことすら諦め、それでも、それでも支えられながら、自分を支えながら生きてきた。
私の後ろにも「道」はあるのだろうか。それはまだわからない。今はまだ、振り返るべき時ではない。
未来は、まだ創れる。