【エモいってみんな言い過ぎ】
「そもそもエモいってなんだよ」
って言っておきながら自分も自己紹介の欄にエモいことを伝えていけたらなんて書いてます(笑)
でもこのエモいって言葉、スゴく使いやすいんですよ!
何かに触れて感動したり心動かされたりしたときに、その時の気持ちを手っ取り早く伝えやすいのが「エモい」って言葉だと思います。
ただ、使いやすいからって頻繁に使うのもどうかと思います。Twitterでも話題ですが、大学生はエモいを乱用して語彙が貧弱だ、もっと日本語を大事にしろと思います。何でもかんでもエモいですませてしまうと、なんというか頭の悪い印象を受けます。せっかく日本語という母語を持っているのだからもっとゆとりをもって自分の気持ちを表現すればと思います。
「日本人は感動を言語化するのが好き」
1000年以上前、まだ日本が平安時代と言われていた頃、貴族の人々は心揺さぶられる出来事や情景を目にしたとき、彼らはそれを和歌に詠んでいました。彼らはの作り出す詩は教養に裏打ちされた深く広いことばと共に、その時の感情を鮮明に描き出していました。枕詞や掛詞、季語や音韻など複雑なルールを踏襲した上でそれをやってのけたのだから、相当な練習を必要としたと思います。その詩のいくつかが現在でも百人一首などで親しまれているのだから、日本人の美を愛でる感性は、1000年も前から続いていることになります。例えば平安時代が終わり、武士の世の中にあっても和歌の文化は残り続け、松尾芭蕉などは全国を旅しその風景を写真のように切り取り、5・7・5・7・7という31文字だけでそれを伝えてきます。これもある意味では、現在流行っているインスタ映えを求めて各地を旅しに行くのに似ています。こうして歴史を振り返ってみると、日本人は感動を言語化するのが好きなんだと思います。それに加え日本語という表現の幅が広い言語を用いていたこともこれに起因してると思います。
【もののあわれ=エモい】
ではここまで日本人が培ってきたこの文化を支えている動機は何なんでしょうか?
僕が考えたのは、本居宣長が提唱したもののあわれが関係しているのではないかということです。もののあわれは平安時代の文学作品『源氏物語』の根底にある概念です。古代版ライトノベルとも言われるこの作品を文学の域にまで高めているのはこれがあるからです。このもののあわれは現代の人々が感じるエモいっていう感情と似たものだと思います。お互い言葉では言い表せないが、なんかいい。この瞬間を適切に表現できる言葉が見つからないが、語るのを止められない。そんな曖昧な、でも確かにそこに感動がある、っていう状態をもののあわれ=エモいっていうのではないでしょうか?
最初の問いかけからえらく遠回りしてしまいましたが、これが僕が考え出した1つの見解です。人間誰しも感動する場面に出くわしたら口に出さずにはいられないでしょう。だってそれは1000年も前から変わってないのですから。でも先人たちが生み出し語りづいてきた日本語の数々の美しいことばたちを使わず、取って付けたようなエモいなんていう3文字で済ませてしまうのは少し悲しい気もします。なので僕は少しエモいから離れて今一度日本語の海のなかに潜っていきたいと思います。その上で人を感動させる文章を作っていきたいと思います。
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