人間性を取り戻すためには多少の逸脱が必要なんじゃねぇかって話。 〜ムーンライズ・キングダム〜
ポップコーンは買わない。vol.120
ムーンライズ・キングダム
日本では2013年に劇場公開された作品だ。
こちらは配信で観た。フレンチ・ディスパッチでウェス・アンダーソンを初めて知って、初期作から観てみたい!という動機のもと、前回の「アンソニーのハッピーモーテル」からの流れで鑑賞した。
とはいうものの、だいぶ穴あきの鑑賞記録で、ウェス・アンダーソン作品を順番通りに観ている訳ではない。
子供や子供心に関する監督の期待感
ウェス・アンダーソン監督の作品を観ているときに思ったのが、子供や子供心、的なものに期待しているというか、自分やその他大勢の大人が忘れかけているものを見せてくれているような気がした。
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私たちは誰もが子供を経験していて、その子供の頃に経験したあれやこれやが軸になって今の自分がいるはずである。
子供の頃の自分らにとって最も重要視した時間はなんだったかといえば間違いなく「遊び」の時間だったであろう。
私にとって外での遊びは最も重要なことだった。でも周辺に優れた遊具はなかったし、同学年の友達は周辺にいなかったので、年下や年上の連中と常に遊んでいた。ないこと、いないことを嘆くことはなく、ないからこそ自分たちで遊びを作ったし、誰とでも交流することができた。
例えば、野球がしたい!ということが最も優先する事項にあって、野球をするには9人必要とか、ベースが3つ必要とか、3アウトで攻守交代をするとかいうルールはいかようにも変化させる訳です。
いつも3人で野球をすることが多かった。多いときは4、5人いたかな。でもその程度。だから出塁してもランナーは透明の架空ランナーを置くしかないし、自分1人だけが攻撃するとか、守備もピッチャーしかいなかったり、いても1人だったりするので、相手が攻撃の時はたとえ敵でも守備に入ってもらったりとか、めちゃくちゃなルールなんだけど、野球、もしくはそのようなものができれば自分はとても満足していたので、それだけでもめちゃくちゃ楽しめたし、何時間でもあそんでられた。
というような感じで、なければないで作ることを平気でやっていたし、それで十分楽しめている自分がいるということ。その延長線上に生きている大人たちも昔よりも知恵があるんだから何もないからこそ楽しめることっていくらでもあるんじゃないかって思った次第である。
本作では、主人公の12歳の少年と少女が駆け落ちして、ある入り江で生活するようになる。
その暮らしっぷりは実にたくましい。たくましいと言っても、狩りしたりとか、サバイバル技術が、という話ではない。
ただただ、2人で一緒に踊ったり、海に飛び込んだり、本を読んだり、ハグをしたりキスをしたり。。釣り針と虫でピアスをつくって耳に穴を開けてつけたり。
観ていただくとわかるが、そこにうつっている2人の姿は画面のこちら側の人間よりも遥かに豊かに、そして平和に、愛に溢れた世界が広がっている。憧れさえ覚えてしまう。
これは全て社会の外で行われている営みである。
「社会の外にでる」
この文言は最近テーマというか気に留めている言葉で、なるべく使っていきながら、自分の言葉で語れるようになりたいと思っている。
この作品ではいわゆる社会の中の人間も主人公たちとは別の世界線を生きているかのような印象を受ける。
社会の外に出た彼らを必死に社会の中に戻そうとするのである。
親とか、学校的な施設の人間だとか。
一見すると、”社会の中の人間は厄介な存在”的な捉え方をされるかもしれないが、それは当然っちゃ当然なことで、何かの犯罪に巻き込まれてしまったりとか、事故に遭ってしまったりとか、社会の外に行きすぎてしまうと場合によっては戻ってこれなくなってしまうこともあるのは怖いからね。
また、保護責任のような責任もつきまとうのであまり放牧すると子供が何をしでかすかわからないのは非常に親にとってもヒヤヒヤしてしまうことなのかもしれない。
私たちはある種の狂気的な、社会からの逸脱を許さない。逸脱を発見されると、まるで監獄に入れられ、社会に適合するように更生させられ監獄から戻される。
そんな状況を見ているかのようだった。
あとは、肩書き。
人間は肩書きを与えられるとその肩書きに沿った行動をとるようになる。それが、その人の意志でなくても平気で行動してしまう。それは組織を運営するにあたっては重要なことなのかもしれないが、とても人間的な動きではないことは確かだ。
そんな肩書きから解放された時に、どんな行動をとることができるのか。それは災害において発揮される。
地震や洪水など、多くの人が被害に遭った状況の中で人間は普段関わりの少ない相手であっても助け合い、励ましあったりする。
ある種、社会というものが維持し得ない状態になったときに人間は人間性を取り戻していくことができるのだということがあるだろう。
本作の洪水のシーンでそのようなことを思った。
その人間性を災害がなくとも定期的に取り戻していきたい。そういう役割があるのは、子供会や部落の祭りなどにあたるのではないだろうか。
コロナ禍も相まってそういった催し事は避けられるようになってきた。
商業主義のでかい祭りは正直どうでもよいが、地域でのミクロな営みは流石に続けて、みんなが協働で動ける状況を作ることが重要なんじゃないかって思った。
これから努めてウェス・アンダーソン作品を観ながら、「子供への期待感」という仮説が合っているかどうかを確かめていきたいと思う。
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