多様性って言葉が必要らしい

この頃、当たり前のように"多様性"なんて言葉をよく聞くようになった。
今の世は多様性で満ち溢れているべきだ、なんて私の周りの人間も言っている。

けれど、私の解釈は"多様性とは柵であり麻薬"だ。

女子高校生Aと女子高校生Bがいたとして。
そこに友情が生まれれば、仲のいい女の子2人組。
そこに恋愛感情が生まれれば、好きな人もしくは恋人同士。
後者を、マジョリティ側の意見では"多様性"というらしい。

"多様性という"と言うよりも、多様性は大事だからな。なんて聞いたりする。でも、私は正直訳が分からなかった。
異性愛なら何も言わないのに、同棲愛には区別を図ろうとする。まるで、属する何かがないといけないような気がした。
暗黙の了解、それによる同調圧力の要素。
形のない、合理的でない、概念的な愛という感情。
それだけじゃない。身体的な性別が男性でも、自認的な性別が女性なだけで、多様性という枠組みに入れられることだってある。
マジョリティな意見である"普通"と呼ばれた何かからはみ出ただけで異なる扱いになる。たったそれだけで。

それから私は"多様性"という言葉を理解できなくなった。
勿論、否定する必要もないし、その言葉に救われている人間が少なからずいるかもしれないという可能性を推して頭の中で許容している。つもりなだけかもしれない。
でもそれでもいいと思ってる。この世に存在する生き物の感情は千差万別だから。
ただ、1つ疑問を持っているのは、

私たち人間は乗り越える力が少なからず存在しているのに、時代は移り変わり、新たな理解や許容が増え始めているはずなのに、"多様性"という言葉を作り出し、保険にかけて、麻薬のように服用してはを繰り返す。
まるでそれが無いと生きては行けない、意見を伝えられないというように。
煽りでもなんでもなく、ひとつ疑問に思っただけだけれど、本当にどうして人間とは言葉にこうも柵を感じ、自らの首を締めてしまうのだろうかと時折思う。
でも、需要があるから供給が存在するように、誰かにとっては他にも変え難いほどの、お守りのような言葉かもしれない。
それをも受け入れるのが、"多様性"なのだろうか。

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