自分の市場価値を高めるべく賢くあらねばと自分を呪った私が、人や組織の「探究の友」になるまで。
多様な生き物のいるMIMIGURI
研究機関兼経営コンサルファームのMIMIGURIでは、本当にいろんなバックグラウンドの人が暮らしている。
コンサルがバックグラウンドの人もいるけど、
デザイナーがバックグラウンドの人もいれば、
ファシリテーターがバックグラウンドの人もいる。
コーチングがバックグラウンドの人もいれば、
研究・リサーチャーがバックグラウンドの人も
BizDevやってた人、
アートがバックグラウンドの人も。
現在進行形でミュージシャンとして
活躍している人だっている。
(詳細はミナベさんのこちらの記事に書いてあるよ)
一人一人の作家性ある人生をそれぞれが歩んでいて、「あなたはxx職の人ですね!」という符号化はかなり難しい。みんな肩書きに迷っているくらい。
ちなみに、人間ではなくペンギンを採用しようなど、謎の発言もあるので、いずれ人間という符号すら超えるのかもしれない。
さて、この記事はMIMIGURIの採用に興味を持ってくれた方が覗きにきてくれることが多いと思う。対外的に、「コンサルティングファーム」や「研究機関」という符号がわかりやすいので今は使っている。
だけど、本当にあくまでも符号でしかないので、この符号によって「興味はあるけど自分は違うかな…..」と思われてしまうのは僕らとしても非常にもったいない…。それに、採用面談時に実際に活動している内容をお伝えすると、「一般的なコンサルのイメージとかなり違った」という声を聞くことも多い。
…ということで、前置きが長くなったけど、メンバーの多様なキャリア、作家性あるその人それぞれの人生があることをお伝えしたい。そして、今の実態も少しお伝えして、MIMIGURI応募してみよっかな…!と思ってもらえると嬉しい。
僕自身の「#冒険的キャリア」も、誰かの参考になればと思い、ここに残しておきたい。
(※) 先に書くけど、非常に…非常に…長い文章を書いてしまった…ので、ここから先は意を決された方のみお進みください。笑
そして、MIMIGURIに応募してみたい人は僕の記事はさておき👇をチェケラ!
また、僕のキャリアというより、MIMIGURIのコンサルタント自体に関心がある人は、目次の一番下「僕が思うMIMIGURIのコンサルタント像」に飛んでくださいまし!
僕のキャリアまとめ
個人の自己紹介や探究テーマみたいなのは、すでに現時点で変わっているところもあるけど、以前書いたものもある。こちらもご参照いただければと思う。
さて。ざっと僕のキャリアを振り返るなら、外から見えるわかりやすい符号で区切るなら以下みたいな感じ。ただ、これはさっき書いた通り、符号でしかない。どんな内的体験があったのかを記してみたい。
就職活動時代
地方企業の伴走役をめざしてみる
もともと、大学時代に家庭教師や塾講師をしていた関係で、誰かが悩んだり課題だと感じたりしていることに一緒に悩みながら解決に向かう、という「伴走」にやりがいを感じていた。
そんな中で、就活が始まり、コンサルタントという職種に出会って、一定の憧れを持ち始めた。ただ、コンサルタントといっても幅が広い。特に僕の場合は、いきなり大海に出るとパニックになるだろうし、結果的に学習効率/成長効率が落ちてしまうリスクを感じた。
そこで、まずは業界やソリューションを絞って、自分なりに足場を固められるフィールドに行こうと就活に臨んでいた。
選択肢として上がったのは、地方銀行・メガバン・トヨタファイナンス。結果的にトヨタファイナンスに行くことになる。
トヨタグループというフィールドに思いを持っていたのは、自分の父親がトヨタで車を作っていから、というのがシンプルな答え。親戚が集まった時に「新聞に載ってたよ!すごいなぁ…」と話題にあげてくれるシーンがあったり、そのときに父親が嬉しそうにしているように僕には映っていた。そんな中で「トヨタ」というブランドに一定の誇りを感じていたところもあった。
今振り返ってみると、当時からなんとなく「地方企業」の支えになりたいという思いは謎に感じていたなぁ…。
❶ 金融コンサルタント@TFC
意図せず、組織づくりに目が向くように。
トヨタファイナンスでは、九州エリアの販売会社さん向けに、より販売しやすい仕組みづくりとして金融や財務面からのサポートをしていた。今後の金融面を含めた営業戦略や、その戦略を支える財務面はどうあるべきか。仕事内容も楽しかったし、加えて故郷であった九州のディーラーさんと一緒に仕事ができることが、より一層やりがいに繋がっていた。
当時の思い出を振り返ると浮かんでくるのは、宮崎や佐賀、長崎県で担当した販売会社の専務・常務の顔や、店長・スタッフの皆さんの顔。当時僕が22-25歳。先方は50-60代どころか、会長や社長になると70代の方もいらっしゃった。
3-4周りも年の違う若造にも関わらず、一緒に戦略や方針を考える場に立たせていただけたのは本当に貴重な経験だった。トヨタグループとしての関係資産が歴史の中で大切に育まれていて、その資産の上でいろんな経験をさせてもらっていたんだなと思う。
それと、今振り返ると、当時の業務内容の中でも、目標設計のあり方、ディーラーのスタッフの方々が意識を高めるための組織施策、スキルや意義を伝えるための育成施策、店舗戦略を考えやすくするためのワークショップ…など、やっぱり組織づくりに関心があったなと思う。やらされ感じゃなく、みんなが意義を感じながら仕事をするためにはどうしたらいいか?というのが問いだった。
そういえば、遠藤功氏の「現場力」を読んで話題提供しようとしていたり、ドラッカーの書籍を読もうとしたこともあった。この辺りからも、経営や組織づくりにはやっぱり関心が強かったんだと思う。
また、問題解決の8ステップなど、仕事/思考の型となる考え方に触れられたことも大きかった。当時はここまで言語化できていなかったが、関連会社込みで40万人近い組織にも関わらず、現場での問題解決を形式知化し、横展していきながら、組織能力に昇華している。また、そこには思想も宿っていて、組織文化まで醸成されている。研修やKAIZEN活動などを通じて、こんな自分にまで浸透しているという事実から、組織としての取り組みになっているトヨタグループのすごさを体感できたのは大きかった。
生存不安をきっかけに、育成の関心を起点にキャリア転換。
一方で、葛藤も抱え始めていた。当時20代前半〜中盤。自分はトヨタグループの中で守られてぬくぬくしているだけではないか…?自分は外の世界で生きていけるのだろうか…?という疑問も正直感じ始めていた。一人のビジネスパーソンとしてスキルが通用するのか、更にフィールドを変えてチャレンジ&成長してみたいという気持ちも出てきていた。
また、当時は同社の中でいろいろと経験している中で、育成施策やワークショップなどの場がなんとなく好きだったこともあり、「育成」に関心があるのではないかと仮説が立ち始めていたタイミング。もともとドメイン・テーマを絞って伴走役になりたいと考えていたが、自分が深めてみたいテーマが見えてきたと感じたこともあって転職を考え始めた。
自分が担当させていただいていた販売会社さんとの取り組みが全国事例にできたことを一つの区切りとして、また当時の課長に本社名古屋への転勤の話も軽く頭だしされていたこともあり、挑戦するなら区切りのいい今かなということで、次のキャリアを志向した。
その中で、「経営」・「人材育成」・「コンサル」というキーワードで、エージェントさんに紹介され、もともと自分で調べて興味を持っていたこともあり、GLOBISへジョインすることになった。
❷ 育成コンサルタント@GLOBIS
論理思考の壁と、経営の基礎理解。
GLOBISでは、大手企業の人材課題の特定〜育成方針・具体施策の提案をするのが仕事になった。
さまざまな業界の企業を担当しつつ、階層別研修、育成体系構築、サクセッションプラン、次世代リーダー育成…と育成に関連するテーマを幅広く担当していった。課題をヒアリングしつつ、原因分析からイシューの見立てを行い、育成の方向性を検討して提案〜デリバリ&報告書にまとめる、といった仕事についていった。
当時は20代中盤。大手企業の人材育成に携わるにはだいぶ若かったが、体系化・商材などをある程度パッケージ化・システム化していたGLOBISだったからこそ、受け入れてもらえたフィールドだったと今振り返ると思う。
その中で、一番はじめにめちゃくちゃつまづいたのが論理的思考力。もう少し厳密に言うと、イシューを押さえる力と、それを踏まえた打ち手までのロジックを形成する力だ。はじめは本当に苦労した。クライアントさんと面談した際に、ファクトと解釈が混在しまくっていたこともあったし、その中で本質的な課題は何か、イシュー設定ができずにどう考えていけばいいのか…と提案書を前に途方に暮れたこともあった。
ただ、自分自身の関心事も「論理的で戦略的な思考ができる、”賢い”人になりたい…!ひいては市場の中でも戦える人材になりたい…!」だったことから、途方に暮れつつも歯を食いしばりつつ少しずつ学習が進んでいった。論理思考にまつわる書籍を読み漁ったり、一つ一つの提案書や報告書を丁寧に作り込んで行ったり…とする中で、提案書に対しても、クライアントさんとの議論内容に対しても、一定の評価をいただけるようになっていった。
ちなみに、マネージャーになった際に、メンバー育成の一環で、当時の僕の提案書を題材にしてどこが”しょぼい”のか、修正点を見つけるワークをしたことがあった。提案書の良し悪しを見分けるポイントの学びや目線合わせが目的だったが、 「こんなひどいスタート地点から…。。勇気づけられました」という失礼極まりない率直なコメントをもらいながら、自分の当時のへぼさが誰かをエンパワメントできるんだなと。笑
さて話を戻して。評価が安定するようになっていった要因は、論理思考がだけではない。GLOBISが経営大学院を営んでいる関係で、経営の基礎理解が進んだことも大きい。
経営大学院に通学する中で、経営戦略・マーケティング戦略・人的資源管理・組織行動論・財務会計・ベンチャー戦略…と幅広く体系的に学ぶことができたし、普段から社内のコミュニケーションでも当然のように経営知識が飛び交っていた。それに加えて、GLOBIS知見録というメディアに新たなコラムが発信されたり、新しい研修プログラムが開発されたり、最新の経営トレンドが自然と入ってくる環境だったのもすごくありがたい環境だったと思う。
人や組織課題を構造的に捉える。
そして、丁寧に論理的に考えようと努める意識、経営の基礎的な知見を学んでいく中で、人材や組織課題を構造的に捉えていくようになったのが大きな変化だった。単に「この人・レイヤーが悪い」と言えない構造があることがどんどんとわかっていった。トヨタの言葉で「人を責めず、仕組みを責めよ」という格言も当時思い返していた。
例えば、事業フェーズ、業界慣習、その企業のステークホルダーとパワーバランス、その組織の持つ歴史、企業内部の政治、部門ごとのカラーやパワーバランス、人事制度…。こういったもろもろの要素が、そこで暮らす人材や人と人との関係性に遠くから、近くから、影響を及ぼしていくプロセスを理解するようになっていった。
ただ、弊害として生じていたのは、以前の記事にも書いたが「組織は戦略に従う」という道具主義的な論理・世界観に浸っていった面もあった。僕自身の発達段階の話と、論理・経営知識が掛け算だ。戦略のために人をいかに「コントロール」するか、という側面で物事を見ていた節もあった。傾倒した時代があったからこその今だが、今振り返っても未熟だったと思う。
そんな中で、プレイヤーとして結果は出せていたり、新しくジョインしたメンバーのメンターを担当したりする中で、チームを任せてもらえる機会に恵まれていった。もちろん、チームメンバーが道具的に見えるはずはなく、ある意味必要なタイミングでマネジメントというチームと向き合う機会をいただけたと思う。
❸ マネージャー&講師@GLOBIS
水平成長ドリブンの限界
3人、10人という規模のチームマネジメントを経験した。少しずつ自分の中でマネジメントへのこだわりが生まれ始めて、目標数値などの達成はもちろん、各メンバーのキャリアや自己実現につながる環境・インフラを作ろうというのが勝手に抱いていた願いだった。また、自分がトップというよりは、全員の個性や自己実現に近づいていけるインフラづくりをしたいと思っていた。
一度だけ年上のメンバーから不満をぶつけてもらって向き合い方に悩んだこともあったが、それ以外に問題らしきものは特段なかったと思う。その中で、チームを一緒に作るということの身体感覚を得始めていた。
ただ、そういった環境に適応していく中で、内心「飽き始めていた」側面もあった。同職種のチームマネジメントは、プレイヤーとしてのメンバーフォローは基本的に既視感のあるものが多くなる。それにチームもありがたいことに安定していた。
今振り返ると、もっと自分で設定していくことができたと思う。ただ、マネジメントという業務を通じて、何をしたいのか / どんな社会を築きたいのか、自分なりにミッションやビジョンを描けていなかった、という自分の未熟さがあった。
恥ずかしながら、実はこの段階まで社会に対して何を成したいか?という点を深めきれておらず、自分のキャリアをどう築くか?という自分軸の視点に重心があったことも背景にあったと思う。チームマネジメントにおいては他者視点が入りつつも、自分のキャリアについてはGLOBISという共同体と重なりを考えきれていたわけではなく、自分軸に戻る引力が働いていた。シンプルに自分の人としての器が発達していなかったと思う。
経営・組織づくりを自分の言葉で語れるか?
また、講師ももう一つの貴重な機会ではあった。GLOBISの講師として登壇するには、ハードルの高い関門があり、講師育成担当の超ベテラン講師の方からOKがでないと講師登壇ができなかった。そんな中、なんとか合格をもらえて、研修講師として登壇をした。
ただ、研修に登壇して、受講者の方に先生・講師と呼んでいただいたときに、違和感も感じていた。「GLOBISは実務家の講師しか登壇しないようにしている。今は思考のテーマだから、自分の業務の中での経験をもとに語ることはできる。ただ、今後経営をテーマにするのであれば、自分は何の経営経験もない。生々しい実務経験から、自分の言葉で誰かと語り合える人間になる必要があるのでは。。。」…..というようなことが頭を巡っていた。
…という中で、
「技術成長ではなく人として器の大きな人間になるためにはどうしたらいいか?」
「自分の生々しい言葉で語れるようになるにはどうしたらいいか?」
という問いが自分の中で立ち上がるようになっていた。
そんなときに、コロナ後から故郷の両親に孫の顔を会わせられていないことが気になってもいた。どこかのタイミングで地元に戻ろうというのを考えていたこともあったし、社内的なこともあっていい区切りだと思い、転換点とすることにした。
生々しい経営経験と、人間性の発達ができる環境を求めて、MIMIGURIへ。
そこで、久しぶりに転職を考える。軸は、生々しい経験を積めるところ。
そこで、もともと縁のあったいくつかのSMBで経営ポジションで経験を積んでみようかな、と考えていた。あとは一応、コンサルティング企業。その中で、当時WDA時代からファンだったし、正直受かる見込みはないだろうと思ってたけど、MIMIGURIに記念受験みたいなノリで応募だけいれてみっかな!と思って応募してみたのがきっかけだった。
そしたら、意外にも話が進んでいって、想定以上に当時求めていたものと合致していく感覚だった。
生々しさの軸を考えているときに、MIMIGURIでは外部支援だけでなく、実際にクライアントさんから役員などの内部の肩書きをもらうほど中に入り込み、一緒に経営・組織づくりをしていたこと。
それに、実践だけではなくて、研究と実践をいききすることで、自分の中での思想を丁寧に築いていけそうなこと。それと何より、採用時に、MIMIGURIに入社するかどうかはさておき、個人の人生として向き合いたいと言ってもらえたこと。
今振り返ると、直感的に・本能的に、今自分が経験しないといけないのは生々しい経験よりも、人として誠実に向き合ってくれる、こういう人間性のある人たちの中で仕事をすることだと感じていたと思う。そんなこんなでMIMIGURIにジョインすることになった。
余談だが、内定をもらったときは嬉しかった反面、やっていけるか不安もあってめちゃくちゃ迷った。笑 というのが、もともとWDAというメディアをMIMIGURIが運営していたときから、発信されるナレッジの質が高くて、そこからめちゃくちゃ「頭のいい」組織に見えていたからだ。妻には「MIMIGURIはめちゃくちゃ優秀な人が多いだろうし、Up or Outの文化の可能性もある。1年で辞める未来だってあるかもしれないが、それでも挑戦してみたい。。。いい…?」と確認していたほどだった。
そして、言わずもがなだが、社内に入ってみたらまったく違った。笑 普通に社外から見えていた以上に、仲間を大事にする組織だったし、道具的に人を見る文化ではなかった。
❹ 経営/組織コンサルタント@MIMIGURI
”仕事”ではない。”人として”向き合う。
MIMIGURIに入社してすぐは、コンサルティング事業部の事業長(濱脇さん)をメンターに、いろんなPJTに入っていった。GLOBISで培ってきたこともあるし、そのスキルでどこまで通用するのか試してみたくて、鼻息荒くすぐにセールス〜デリバリの現場に出させてもらっていた。
基本的には、Project Ownerとしての役割。テーマとしては、人事制度構築、経営構想〜ロードマップ策定の伴走、経営チーム開発、組織文化醸成…。いろんなテーマでPJTが走っていく。しかも、一つ一つのPJTで関わるメンバーが多様性に富んで、これまで会ったこともないような人で座組が組まれて、おもちゃ箱みたいな感覚。出てくるアイデアや課題設定は、これまでの論理性をはるかに超えたものが出てくる自由演技。自分もどんどん論理を超えて、やってみたいものがたくさん出てくる。本当に仕事がPJTが楽しかった。
そんなときに、出張先の福井県で濱脇さんと飲んでいたことがあった。そのときに、自分も含めてメンバーのキャリアや人生について本気で考えている話を聞いて、胸が熱くなったことがあった。それはお金とか経済面の話ではなく、一人一人の持っている人間としてのポテンシャルを信じたり、期待をかけたりしながら、その人らしく社会へのインパクトが出せる、その人が社会とつながっていく未来を真剣に考えていたことや、その人間愛に触れて普通に泣いた。笑
そして、メンバーだけではなくて、クライアントの担当者に対しても同じ思いで向き合っていて、クライアントの担当者さんと本気で人と人として向き合おうとしている真摯な姿に、謎に涙が出てきたのを覚えている。
そのときではなかったけど、「子供の前で見せている顔と、クライアントさんに見せている顔って一緒?」と聞かれたことがあった。よくよく考えると、子供にプレゼントを買って帰るのと、クライアントさんに提案書をもっていく身体感覚は違う。なぜだろう…と考え始めた。でも、クライアントさんだって仕事でやってもらうより、純粋な気持ちで一人の人として向き合ってもらった方が嬉しいはず。というか、自分だったらそういう人と一緒に仕事がしたい…みたいなことを考えていた。
僕にとっては、これが大きな出来事だったと思う。仕事として先方に応えるのではなく、人としていろんな社内外の人に向き合おう。社内外とか垣根なく、全ての人に人として向き合うように意識しよう、と思えたときだった。こう思えたのは、濱脇さんが純粋にそう思っているのを感じ取ったからこそ触発を受けたんだと思う。
今ではときどき喧嘩させてもらうこともあるけど、本当にこの転機を思い返すと涙ぐんでしまう。やっぱり今でも感謝してもしきれない恩師でもある。友達でもあるし同僚でもあるけど。
共同体のよさを知る中で、孤独だったことが相対化される。
今振り返ると、濱脇さん然り、MIMIGURIという組織にケアをされていった期間でもあった。キャリア不安から自分でなんとかしようと頑張る孤独な戦いから、共同体としてお互いにケアしたり応援したりしていく、喧嘩したりしながらも対話しあえる信頼関係の中にいて、共同体の温かさを知っていった期間でもあった。
全社会ではみんながわいわいしているし、Kitchenという当時あったチームの定例では自然体で悩みとか嬉しかったことを開きあっている。Aroundにいたら声をかけにきてくれる同僚がいる。(たしか、今はチームで一緒にやっている山里さんが初めに声をかけにきてくれて嬉しかったのを覚えている)群像劇のように、人が共同体の中で暮らしている身体感覚を得ていって、初めて”群れ”や”集団”という良さを意識し始めた気がする。
そんな風に、人として向き合うというスタンスや、共同体の良さを身体感覚をもって体感していく中で、クライアントさんとのPJTの中でも自然とあれ?もっとこうあってほしいな…という思いが自然と考えられるようになってくる。組織状態や人の状態の解像度が上がっていく。
潔くステップインする誠実さ。
そして、人や組織の状態についてかぎ取っていることがあるなら、きちんとステップインして先方に誠実に開いていくことが重要ではないか?とこれまた濱脇さんとの対話を機に感じ始めて、一歩踏み込んでこちらの景色を誠実に伝える「ステップインしていく」姿勢に目線が向き始めていった。
ちなみに余談だが、今のユニットで一緒にリーダーをしている、相棒の臼井さんの社内投稿(個人のtimesチャンネル)の内容に刺激を受けた。先方の気持ちを害さないようになぁなぁに接するより、人として真摯に向き合って勇気をもってこちらが感じている景色を開く。もちろん相手へのリスペクトと、相手の景色を取得する前提が大事ってことは言わずもがな。すごく潔いあり方でかっこいいな…と感じたのを覚えている。
そんなこんなで、一人のコンサルタントとしての矜持やこだわり、自分なりの価値観が生まれていく中で、ユニットリーダーとしてのチャレンジをする機会をもらう。
❺ ユニットリーダー(4人チーム)
チーム「を作る」ではなく、チーム「になっていく」。
はじめは、4人チームのユニットリードを担当していた。
このときは、みんなにとっていいチームにできるように…!とリーダーとしての気負い・鎧があったと思う。特に初回の集まりのときなんかはかなり緊張していたのを覚えている。そんな中で、なんとかチームとしての求心力となるような方針やミッションを考えようと四苦八苦していた。
そんなとき、とあるメンバーに言われてハッとしたのは、「家族って目的があるから家族じゃなくて、なんとなく一緒にいて共通体験をしながら家族という関係が生まれているんじゃないですかね」的なコメント。そのあとそのメンバーが自分で企画をして、みんなで一緒にやれるラジオを始めてくれた。その中で、少しずつチームに「なっていった」感覚があった。
無理に求心力を作ったり頑張ろうとするのではなくて、共通体験をなんとなく一緒にしながら「チームになっていく」身体感覚を得ていくことができたのは本当に大きかった。また、それが起点になりつつ、濱脇さんにその話をしてたときに「ばんもチームの一員ってことだね」と言ってもらえた言葉が刺さって、「リードとして自分がなんとかしなきゃ…」ではなく、「自分も一員として参加していいんだ」と”降りる”・”手放す”という身体感覚を得ていった気がする。
役割の記号に囚われず、友達になる。自然体。
また、今振り返ると言えることだが、当時上下関係のバイアスもあった。特に、一般的に「目上」と言われている役割の人に対してのものだ。ミナベさんに、明確にフィードバックをもらったことがあったし、採用時にもそこがあることを分かった上で仲間として迎え入れてくれていた。実は、当時はこのフィードバックをもらったときは、自分がリードの立ち場でもあまりそういうの気にしたことないし、そうかなぁ…と思っていた。笑 だけど、今振り返るとこれは無意識のうちに・自分でも認識できない前提・OSとして組み込まれていたのは間違いない。
そう認識できたのは、全体会の中でグループ対話でCo-CEOの安斎さん・ミナベさんと話すことになった時。なんとなく緊張して場に臨もうとしていたが(まぁWDA時代から見てたから仕方ないところもあったとは思う笑)、緊張している自分に違和感を持ったことがきっかけだ。他の参加者だったら、同じように緊張するのだろうか。安斎さん・ミナベさん「だから」緊張しているのであればおかしいのではないか。そしてそういう関わり方をされたら、安斎さん・ミナベさんだって鎧を着ざるを得なくなるのではないか。
そう感じて、対話のときに率直に「勝手に僕ら側がバイアス持つのって、安斎さん・ミナベさん的にも嫌なんじゃないか」という話をしたら、安斎さんがすごく反応してくれて、「めっちゃそうで。。友達になれないんですよね。。」的なことを言ってくれたことで、自分の中で何かが外れていったみたいだった。その後の会話の中で、なんとなく「友人」として接する関係性を感じられるコミュニケーションになって、すごく居心地がよかった。
安斎さん・ミナベさんと友達の感覚になれば、あとはほとんど友達だ、という感覚で、どんどん社内で友達のように付き合える人が増えていった。相手がどうかは関係なくて、僕がそういう風に感じるようになったことが大きいと思うし、僕が友達と思えばそれはもう友達だ。
適応課題ではなく、技術課題としてのマネジメント
また、この時期に上記のような適応課題だけに目線があったわけではない。PJTか何かの進め方で悩んでいたときに、「マネジメントって適応課題じゃなくて、技術課題という側面もあるよ」とミナベさんに言ってもらえたことがある。そこからアジャイルに関する概念に興味を持つようになったり、カレンダールーティンなどの仕組づくりに興味が湧くなど、技術課題がどんどん解けていく感覚もあった。マネジメントをするという身体感覚をどんどん得ていった。
❻ ユニットリード(10人チーム)&マネージャー
取り繕うほどの鎧がなくなると、着飾る必要がなくなる。
その後、10人チーム(現在は4名*2チームに分化)をダブルリーダー制で担当することになる。組織リーダーとしての相棒臼井さんと、事業リーダーとしての僕だ。コンサルティング事業の価値の探索や、みんなと一緒にどんな社会価値を創れると楽しいのか、探索をリードする役割を担っている。
その他、ユニットリードのみんなの定例のオーナーを持たせてもらったり、セールスの責任を持つマネージャーも担当している。
こうした役割を担う中で、変化があったのは、一生懸命役割を担おうと頑張っていたときよりも、自分のカラーが勝手に滲みでようとしていること。鎧を変に被らなくてよくなって気張らなくてよくなったことで、逆にもはや何を言われても評価されてもそれが自分だからさらけ出してしまった方が早い、という感覚が顔を出したり引っ込んだり。
明石家さんまの「人間なんて今日できたこと、やったことがすべてやねん」という言葉が本当にその通りだなと思うようになって、今自分ができたことが全てだから、自然体でありのままやれること・やれたこと・やっちまったことをそのまま受け入れようというマインドになろうとしている。
自分なりの価値観・探究テーマを磨く。
その状態に入ると、逆に自然と自分がやりたいことを探索するようになっている。
自分はなんの探究テーマを追っているんだろう?という問いが浮かぶようになってきていたこともあり、臼井さん・ミナベさんとの1on1や、研究開発本部の知識創造室メンバーに壁打ちしてもらいながら、探究テーマを探り言語化を図るようになった。(厳密にはそれまでもチーム内で言語化をしようとしていたが、本格的に探索&言語化を図りたくなった感じ)
その中で、MIMIGURIに入社したときに持っていた問いがアップデートされていく。そして、そのヒントになっているのはここまでのMIMIGURIの中で実践してきたPJT・社内取り組みという「実践経験」の中で、無意識のうちに育まれていたものだと知る。
探究テーマの探索が進むにつれて、もっと社会とこんなテーマでPJTを組成できると面白いんじゃないか、もっといい組織づくりができるのではないか、とプロアクティブにこちらからテーマを作っていける軌道に入り始めている。自分なりの探究テーマを持って、社会を拓いていく。
自分の探究テーマを軸に、社外のクライアントさんとPJTを組成し、社内で実践をしていく。社内外がもはや溶けていくし、課題解決じゃなくてPJTを組成していくとなると、いわゆる「コンサルタント」という符号に意味づけられたものと違う印象を持ってくる。実際に、採用面談の際にはイメージがかなり違うと聞こえる声が多いし、ジョインしてくれたメンバーからもここはかなり違うという声も聞こえている。
なので、アイデンティティはコンサルタントという枠ではなく、単に社内外関係なく、自分なりの探究テーマで知を拓いていく・創っていく、社会リーダー、みたいなアイデンティティの方がしっくりくるようになるのかもしれない。
ただし、この状態にいるときに発達課題になりがちなのは、「自分の価値観・探究テーマ」に目線がいきすぎて、自分のそれを相対化できなくなってしまったり、独善的になってしまうケースもあると聞く。社会との接続をどう図っていくのか。社会には自分が思いもよらない価値観がたくさんあって、その価値観を排除するのは違う。自分の価値観をあえて自己否定してみるとしたらどうなのか。まだまだ探索していく必要がある。
これが今の現在地だ。
僕が思うMIMIGURIのコンサルタント像
さて、ここまで非常に非常に長いキャリアリフレクションになってしまった。。。笑
ここまで読んでくれている人がいるのかどうかすらもはやわからないけど、読んでくれた方は「コンサルタント」に興味がある人が多いのかなと思う。
なので、最後の締めくくりとして、MIMIGURIのコンサルタント像について整理してみたい。
探究の友としての伴走役。
僕なりの整理ではあるが、専門性を持って正解をずばっと言えるコンサルタント像…というよりも、何を課題として何を問いに置くか自体も悩ましく、どう進めていけばいいかわからない中で一緒に探っていく「探究パートナー」というコンサルタント像がしっくりくる。
また、経営リーダーはもちろん、ミドルリーダーの方々などいろんなレイヤーで、日本の中での仕事観は孤独にさせてしまいがちな側面もある。仕事だからちゃんとやれ、自己責任でその役割はお前のところだ…など。。。そのときに、孤独にさせずに、それぞれの立場に立ちながら、関係性を育みながら一緒に経営という難題に向き合っている。つい怒ったり焦ったり視野狭窄になりそうなところ、善くあれたり、本来はこうありたいという姿に立ち戻れる、共感者としてのコンサルタント像。
ちなみに、余談だが、下の記事を読みながら、友人の定義は「人間のなかに潜在する善が発揮される」環境を提供するのが友人だと捉えるようになった。なので、経営リーダーやビジネスパーソンが本潜在的にもっている善に立ち戻れるように、よき友人でいるのが、MIMIGURIのコンサルタント像だと感じている。
つまりは、「探究のお友」になるということだ。
経済性だけでなく、友人としての関係資産やそこで生まれる知的資産。
無形資産が循環する社会をめざす。
またそういった中で、金融資本主義の中で着目されがちだった「経済資産」だけではなく、目に見えない資産として、クライアントさんとの「関係性の資産」であったり、一緒に探究を進める中で生まれる「知的資産」だったりの「無形資産」を大事にしていくのが、MIMIGURIのコンサルタントだと思っている。
ご参考|MIMIGURIのコンサルタントの特徴
👆で記載のものと重複しますが、MIMIGURIのコンサルタントとしての特徴は以下のようなところかな…?
…というので、ほんとーに長い文章で、まさかの1.5万字に近い状態。笑
さすがにここいらで終わりにしようと思います
もし、MIMIGURIのコンサルタントやオープンポジションで興味がある人は、ぜひぜひ👇の募集要項も見てみてください。
カジュアルにお話を聞きたいよという方もウェルカムです!