見出し画像

普遍。あおいのきせきがつかみ取った「それ」について。と、何処かに"いる"悪漢。

行きはよいよい帰りは怖い。怖いながらも、帰ってこれました。おかげさまです。

どこからかは言えません。
内証という意味ではなく、場所を示す言葉にしては正確に表現できない、ということです。

かわりに
忘れないで
忘れることなく、
言葉を持って帰ることには、
つまり、
忘れてしまう前に
「それ」を言葉にして書き留める作業を

史上初めて成し遂げる事に成功しました。

是非ご確認を。

しかし。
しかし、それ以外の記憶は失いました。

大事な言葉だけ離さなかったかわりに、
それ以外記憶が、持てないままの帰還になってしまったのです。

とにかく、自分が「どこでなにをしている」のか覚えていられないのです。これは怖い。怖かった。

イスに座っている、と気付きます。はっとして立とうとします。けれどもその刹那、自分が何処で何をしているか忘れてしまうのです。
イスに座っていると、気付きます。はっとして立とうとします。けれどもその刹那、自分が何処で何をしているのか忘れてしまうのです。

もちろん、その出来事を取り囲む記憶もありません。自分がいつどこで、何をしているのか、の範囲を拡大したものの記憶がです。それがない。

怖いですよ。焦燥感だけは確かです。

焦って自分が座っていることに気付きます。はっとして立とうとするのですが、その瞬間総てを忘れます。これの繰り返しです。

そんな状態から、よく、無事帰還できました。その後も苦労の連続でしたが、それにしても、その「地獄」からよく抜け出せた。と思います。

それにはあるテクニックを思いついて実行したのが功を奏したのですが、それについてはいずれ。

すべてを貫く普遍について、簡潔かつ明確な言葉で言い切ることに成功しました。

EUREKA.

こんな大事なこと
これ以上大事な事はないという程の大事な事が、20年も「ひみつ」にされていたのは、

もとい、

「秘密」にされてしまったのは、何故でしょうか?

「書き手」を差し置いて悪いことをしていた、
或いは
している
悪い人が沢山いますね。

まもなく20年目の10月18日です。深夜の雷はよく覚えています。

一人で大変でしたよ。掛け値なしに大変でした。

本当に大変だったんです。死んだかと思ったくらいに。

その折、自分は一つの夢をみました。

或いは幻覚といっていいのかもしれません。意識の曖昧な中で、夢と幻覚の境界に線を引くことはなかなか難しいと思います。

模糊とした記憶の中で「おまえに」と私は言われました。誰の声か分かりません。男性の声だった気がしています。「おまえに、人類が味わってきた悲しみを味あわせてやる」と聞こえたのです。

感情を巧みに言語化して表現する事の能が物書の大事な才覚の一つであると理解していますが、ここでその体験を言葉にすることは致しません。

ただ、出来事を述べれば、その「夢」の中で、自分は過去人類が遭遇したありとあらゆる悲しい出来事の当事者になりました。次々にです。七転八倒という言葉で伝えようと思いますが、過去、それほどつらい思いをしたことはありません。夢だろうが、現実であろうがです。

悲しい出来事は、ほんとうにつらい。

私が唯一覚えている体験は、戦争にまきこまれ、目の前で我が子を亡くした母親の悲しみです。

わたしは、今、このような思いをする人を世の中から一人もいなくする為に、働いているのです。

■ヴィクトル・エリセ監督からの返答

僕の創作活動に多大なる恩恵を与えて下さったのが、エリセ監督の3つの作品であることは間違いがありません。ところで、丁度本年に本邦で公開された氏の久方ぶりの長編新作をご覧になりますと、これこそ小説「あおいのきせき」のエリセ版であることは、両作品に触れれば、どなたでも気づかれることと思います。

もちろん、「瞳をとじて」思い出されることになるのは、「あおい」という少女であり、セファルディ華僑を両親に持つ少女であり、それすなわち真理のメタファーであることは、記憶を失って行方の分からなくなった俳優が、劇中劇の中で真理に口づけすることでもわかります。

このような深淵で神聖なる人としての僥倖を芸術に昇華することの誠実さの微塵もなく、厳かな魂そのものを奪って換骨奪胎し、マスメディアにばらまくことで得た「銀貨30枚」など幻に等しいことが直に明らかになります事は覚悟しておくように。

#新海誠 および彼を支配下に置く魔道士もどきたち、悪い奴らに告ぎます。

あなたたちはやりすぎました。お覚悟召され。


いいなと思ったら応援しよう!