見出し画像

熊本で、漱石先生と

熊本駅で素敵なつばめ号とさよならをして向かったのが漱石先生のお宅でした。路面電車を降りたところがお堀端だったのを覚えています。

故郷、横浜にも、随分と昔になりますが、チンチン電車は走っていました。僕も、乗ったことがあるそうです。けれども、その記憶は残念ながらありません。実家の庭にあった飛石が、廃線になり不要になった横浜市電の敷石を再利用したものでした。

僕は、熊本で、そういった郷愁を感じていたでしょうか。

「夏目漱石」は日本語で小説を書こうとすれば、避けては通れない関所のようなものだと思っていました。そう思って関所の仕組みを調べているうちに、自然、漱石先生に親しみを覚えるようになりました。
加えて、
僕の生まれた日が、漱石先生のお生まれになったぴたり100年後だったという偶然を、ごく個人的なご縁として大事にしていた、というのもあります。

僕は新暦、先生は旧暦でありましたが。
(更にその300年前には、、)

なので、2017年のお正月を、除夜の鐘をついて迎えることが出来たときには、とてもうれしく思いました。お寺でいただいた甘酒が寒い中とてもおいしく感じたのは、そこまで、ほんとうに大変だったのも理由にあります。
大げさではなく、数々の殺人的隠蔽迫害工作を潜り抜け、よくまあ生きて来られたなあ、と。

先生は1916年、「明暗」をお書きになっている最中にお亡くなりになってしまいました。雑司ヶ谷の立派なお墓にお参りをしたのは「甘い幸せな生活」を書いたか書かなかった頃だったと思います。鬼子母神さまに御挨拶をしてから伺ったように記憶しております。そういえば、やっぱり東京に僅かに残る都電に乗って行きました。

すると、漱石先生の物語と「路面電車」は切り離せない、ということに改めて気がつきます。

「ご維新による瓦解」と「文明開化」による日本の「近代化」の象徴が「路面電車」という「騒がしい乗り物」でした。

熊本の市電には騒々しさはありません。そういう記憶はありません。或いは路面電車が静かになったのではなく、もっと騒々しい「文明の利器」が街にあふれるようになったからのような気もします。

まもなく、それくらいの変化を、社会が、あおいのきせきの知見によって迎えるでしょう。

いいえ。迎えないと。


漱石先生が熊本においでになったのは1896年の春だったそうです。

その100年後、1996年に青山真治氏は作品「Helpless」をもって映画監督としてデビューし、

僕は「甘い幸せな生活」を書き上げることになるわけです。

2000年に、失敬、1900年に倫敦へ留学するまでの4年3ヶ月に熊本で6度お住まいを変えられた漱石先生の5番目のお宅は、和風の落ち着いたお庭と懐かしい日本家屋に洋間がくっついた和洋折衷でした。

ところで、

ところで「あおいのきせき」の解釈の一つに「対称性を有する別々の存在が実は(=境界を挟んだ)一つである」というものがあります。

「ルビンの壺」に例えると、「向かい合った二人の横顔」と「つぼ」は実は一つの絵である、という風になります。

上のリンクは「存在(論)」という角度で理解して(も)重要なだということが、「あおいのきせき」では、端的に方程式として指摘がなされている訳です。

「あおいのせき」は2002年10月18日に第1稿が書き上げられました。

音楽分野で最先端を切り開き続けていらした故・高橋幸宏さんは2002年に細野晴臣さんと共に「スケッチ・ショー」というユニットを組まれ新曲を発表されました。(因みに、「あおいのきせき」の知見を「TURN TURN(スケッチショー)」で表現された「瞬間触れる」同じ何かを、物理法則として表現したものである、と言って間違いはないように思います)

WIRE02には比較的早い時間から僕も「参戦」していたのでLIVEを聴いていた「筈」です。ですが、深い印象がなかったのは、「当たり前・すぐ目の前(に存在している高価なもの)の価値が当時の僕には判らなかった」せいです。一言、愚かでありました。

スケッチ・ショーで提示された音楽の方向性は、その後「RYDEEN 79/07」という形で結実いたします。

いずれにせよ「エレクトロニカ、からフォークトロニカ)」というムーブメントは、「対称性を有する(≒対義的な)別々の存在が、実は(=境界を挟んで)一つである」という「あおいのきせき」の発見と期と実を一にしたものであると、音楽に詳しい方でなくとも、お聞き頂ければすぐにご理解頂けることと思います。

電気音楽と民族音楽という対義的音楽が美しく融合されたさまは、さながら存在の方程式の音楽表現のようでありませんか。

しかし

しかし、共時的に折角「良い方」へと向かい始めた、
所謂「世界線」は、

ずれてしまいました。
ずらされてしまいました。

漱石先生は熊本を去った後、1900年の秋から倫敦に一人お住まいになることになります。

1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石

それから。

僕が熊本を発ったのは、2002年の深い秋色に染まったお庭を目一杯味わってすぐでした。
その100年前、漱石先生は倫敦で(例えば「瞬間」何かに「触れ」られた、であるとか言った)大変なご経験をなされたのだと、推測しますが、
それから

それから、漱石先生は日本に戻られて、あの傑作をお書きになられるのでした。

僕はといえば、だいたいの所は書いてしまったところです。でもやっぱり港へ向かいました。海をフェリーで渡ります。

こんなニュースが。
吉兆ですね。

更に。

更に更に。
新暦での先生のお誕生日に。

おめでとうございます。その節はありがとうございました。

地震につきましては、心よりお見舞い申し上げます。

また、いつか、お邪魔したいと願っております。


このような記事に接しましたので、リンクを張っておきます。(20230331)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?