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あゝ、フットボール人生

どーも!たくです。本日は僕がサッカーを愛したけど、プロになることを諦めてしまった、今までの人生についてその時の感情を等身大に書きます!乱文お許しください。

サッカーとの出会い

僕がサッカーと出会ったのは幼稚園の時。たまたま通っていた幼稚園にサッカークラブがあった。その頃日本はちょうど日韓W杯で日本が熱狂の渦にいた時だ。父親は1人で横浜スタジアムの決勝、ブラジル対ドイツの試合を観に行き、僕は画面越しでみていた。

この時、僕の通っていた幼稚園には体操クラブとサッカークラブがあり、どちらかに入りたいと思っていたけど、迷った結果サッカーを選んだ。何故、サッカーを選んだかは覚えてない。けどこれがその後の自分のベースを作るスポーツとの出会いだった。

初めてボールを蹴った時は、思うようにボールを扱えない。それが子供ながらに悔しかった。そこからサッカーにのめり込むことになる。

転校を経験した小学生時代

小学生に上がると僕は幼稚園の頃にいたチームを辞め、地元の街クラブに入団した。練習は週に2回だったが、平日は公園で毎日ボールを蹴っていた。学年が上の試合にも必ず呼ばれ、同い年の中では1番うまい自信があった。この時は自分は努力しているという感覚より夢中だった。今になって思うが、努力は夢中に絶対勝てない。この時に僕は人生で大事なことを学んだ。
そして僕は小学4年生の頃、親の仕事で大阪から愛知の田舎に転校することになる。転校した子はイジメられるという話はよく聞くが、サッカーが僕を守ってくれた。転校した学校で僕はサッカーが1番うまい自信があり、その自信は学校生活でも自信になった。地元のクラブチームを探し、上手い選手がたくさん集まっているチームを選んだ。そこには僕より上手い選手がたくさんいたが、その環境の方が僕には刺激でもっとうまくなりたい、とより夢中になった。ここで常に意識したのは「見て盗む」こと。上手い友達やプロのプレーをひたすらマネをした。この習慣はすごく今でも生きている。小学生時代は良くも悪くもサッカーがめちゃくちゃ楽しかった。この頃は将来は絶対プロになると思っていた。

中学〜高校 現実と向き合う

中学に入る前、僕はサッカーをどこでやるかを決めなければいけない。中学でサッカーをやる選択肢は主に2パターン。

①クラブチームに入る
②中学の部活動でやる

この時僕は小学生でお世話になったコーチに①の選択肢を進められるが親に相談すると、②を選択するように言われた。自分の無力さで泣きまくったが、その時は①を選択する理由で親を説得させるだけの材料を揃えることが、その頃の僕にはまだできなかった。そして②の中学の部活動でサッカーを続けることに。運良く地元で有名だった選手が何名が集まり、クラブチームにも負けないチームになった。でもそれはノリと勢いみたいなチームで身体能力とみんなの頑張りで勝っていた。それでも県大会で準優勝などできたが、目標としていた全国大会には出場できなかった。

差し迫られた高校選択。ここで僕はすごく迷うことになる。この時読みまくった本がある。

この本にはjリーガーになった20人の選手が15歳の時にどういう選択したかということが書いてある。この本をjリーガーになれなかった僕が勧めるのは矛盾でしかないが、それには目を瞑ってほしい笑。
この本が今でも家の本棚に置いてあって、僕はすごい悩んでたと思い返した。高校を終えて本当にプロになりたいなら選択肢は主に2つ。

①Jクラブのユースに入る
②強豪校に入り選手権で活躍する

当時の僕の頭には高校を終えてプロになるにはこの2つしか頭になかった。でも僕は③の選択肢を選ぶことになる。
頭の良い進学校に行き、大学という可能性を残しながら、そこそこ弱いチーム(顧問がいなく、選手で練習メニューを考えるようなチーム、外部コーチに土日だけ頼っていた)でプレイすることを選んだ。

この③の選択肢が間違っていたか間違っていなかったかは今でも分からないし、正解なんてない。僕の頭の中では、「強いチームに行っても試合に出れないかもしれない。それなら自分は1年生から試合に出続けて、その時から本気の3年を相手にしてたら自分が3年になったらすごいことになってるだろう、そして俺がチームを強くする。」そう思っていた。当時のノートにもそう書いてある。モザイクは強豪校の名前。

しかし僕はそんな気持ちの裏側に、「もしプロになれなかったら、もし全国に行けなかったら」と保険をかけていた。プロになる圧倒的な自信も、自分が1番という自信も、その時には少年の頃より薄まっていて、誰からも読めとは言われていないオトナの空気を勝手に読むようになっていた。けれどサッカーは誰にも負けないくらい好きだった。
そして今は、その保険に頼った人生を送っている。
兎にも角にも、僕は1年生からレギュラーで試合に出ることはできるも、試合にはなかなか勝てず、結果も散々たるもので選手権などは程遠いものだった。とても僕が描いていた高校生活とは違うものになった。それでも僕は全く夢中ではなかったのかというとそうではなく、この頃の僕はひたすら努力の手段を考えるようになっていた。今、自分の本棚を見ると当時僕が読んでいたサッカーの本がたくさんあり驚いた。

この時僕はどうやったら試合に勝てるのかをプロの選手達や本に学ぼうとした。そしてその勝つための手段を真似をした。僕は本気で勝利=プロへの道だと思っていた。けどこれが少し違う。
わかりやすく言えば、この時の僕は自分達の弱いチームがどう勝つかを考えた。僕が出した答えは「少ないチャンスを決めきる」こと。焦点を当てたのはフリーキック。フリーキックはどんな試合でも1〜2回はペナルティエリアから近い場所で発生する。今まで僕がサッカーをたくさん見てきた中でフリーキックを決める確率は20%くらい、もしくはそれ以下。プロでも中々決めきれない。だから、フリーキックを外しても普通、決めればスーパーみたいな雰囲気がサッカー界にはある。
けど、このチャンスを100%に近い確率で決めれるようにすれば、試合で勝てるチャンスは増える。そう思って僕は毎朝フリーキックを練習した。同じ位置から同じように狙った場所に蹴れるようになった。それはもう型を身につけたみたいなもの。助走の歩数も足を振り上げる角度、イメージも完璧に決まっていた。するとどうなったか。試合で起きたフリーキックは80%決めれるようになった。これはチームの武器になった。でもチームは勝てなかった。なぜならフリーキックで1点とっても2点取られて負けるから。単純。僕はサッカーではなくフリーキックが上手くなっただけだった。
僕はサッカーを上手くなることではなく、試合に勝つことに焦点を当ててその努力をしてきた。つまり サッカーがうまい=勝利=プロへの道の方程式を自分の中に立ててしまっていた。
でも実はサッカーがうまい=プロというのが限りなく成り立つが、勝利=サッカーがうまいという式と勝利=プロへの道というのは全く成り立たない。でもだからといってサッカーに勝利を求めるというのはサッカーの本質であり、間違いなく当時の僕が求めていたものは勝利した瞬間に溢れ出る喜びの感情だった。
そして目の前の相手に勝つことに喜びを感じていた僕は、どんどんプロになることからは遠ざかっていった。
この方程式の間違いに気づきはじめたのは高校3年の終わりかけ、プロを目的にすることで生まれるサッカーの本質的なもののギャップに少しもどかしい感情を覚えた。
けどこの頃は全くコトバ化できていなかった。
その感情を少しコトバ化してくれていたのはその時に出会ったこの一冊のマンガ。

ガツンと頭に衝撃をくらった内容だった。
それでもサッカーが好きで、自信に満ち溢れていた僕は次のステージでサッカーをやる決意をする。

大学時代 〜体育会サッカー部〜

僕は高校での自分のサッカーに多少自信はあったものの、ユースに行っている選手達や強豪校の選手達とサッカーをして自分がどの位置にいるのか知りたいと思っていた。ここまで書いて、分かっていた人もいると思うが僕はビックリするくらい臆病者なのだ。自信はあるけど保険をかけまくる。けれど、もしかしたらサッカーを真剣にできるのが大学が最後かもしれないと考えていた僕は最高に好きなサッカーを後悔しないくらいやれる環境を選びたいと思い、強豪私立大学のサッカー部でサッカーをしたいと思い、親に相談した。親は常に僕の人生に保険をかけておいてくれたので(?)「その大学なら、偏差値もなかなか高いし入れるならいいよ」と許可をもらって猛勉強。そして大学に見事合格することができた。

その大学のサッカー部は伝統のある部活で部員数は約250人。インカレ(大学サッカーの全国大会)は常連で毎年プロが何名か出るようないわゆる超強豪校。その中の部員の1人に田舎の弱小高校のサッカー小僧が入ることがどんなことか分かっていた。分かっているからこそ臆病になった。
けど自分だけには絶対嘘つきたくねぇ、という一心で身を奮い立たせて入部説明会に参加した。もう全国のサッカー猛者達が60人も集まっていた。そこでサッカー部の監督が言った、
ここに入ったら、今まで来ていたユニフォームの色は全く関係ない。日本一を目指すチームの一員になる。
武者震いしたのを覚えている。ワクワクした。俺もその一員になりたい、できればピッチに立ちたい。そんな思いで入部届を書いた。
入部届は当時の4回生の幹部に想いを伝えられたら入部の許可が出た。入部理由にめちゃ長い欄が与えられてあったが、死ぬほど悩んだ結果「自分に嘘をつきたくないから」と一行だけ書いた。クソ怖かった4回生の先輩にこっぴどく怒られて書き直させられたが、僕のその時の気持ちはそれが正直だった。

入部してからはランメニューからスタートする。僕はそこまで持久力に自信が無かったから家でめちゃくちゃ走っていた。みんなで初めてランメニューをした時、「あれ、こんなもんか」ってなった。
もちろん速い奴はいたが、僕はビリではなくむしろ前の方で走ることができた。こんなとこでサッカーをやる奴は化け物ばかりだと思っていた僕はここでまた新たなことを学んだ。
「人間はみんな人間。足が4本ある奴もいないし身長が3mのやつなんていない。馬やチーターと勝負してるわけじゃないから、勝てる可能性はある。」ということ。
でもボールを触る練習になるとみんなの凄さが分かった。やっぱうめぇ、っえなった。
勝つための手段を磨いてきた僕にとって、サッカーが上手くなる手段を学んできた選手達は目に見えて差があった。けどそんな奴らとやるサッカーはめちゃくちゃ楽しかったしめちゃくちゃ悔しかった。
ここから僕はサッカーが上手くなる手段を学んで行くが、はっきり言って手遅れだった。4年間でサッカーは上手くなった。これは言える。けど遅かった。周りとの差に目をつぶって、弱い自分に勝てなくなったりした。でも、努力をしようと思っている時点で負けだったのかもしれない。もっと夢中にならなければいけなかった。今まで試合に勝つことに喜びを感じていた僕は、ベンチから眺める景色に歯痒さがあった。
それでももがき苦しんでサッカーをやった。この集団にいる自分の意味を探し求めた。カテゴリーは1番下だった。5つあるチームの1番下。2回生の時は1つ上のカテゴリーに上がったが、試合にはほとんど出れなかった。みんなめちゃくちゃうまかった。3回生の時にまた1番下のカテゴリーになった。めちゃくちゃ悔しい思いが多かった大学サッカー。
でもサッカーは大好きだった。その中で250人という大所帯で自分がこのチームにいる意味をずっと模索し続けた。このチームにいたから、僕はサッカーの素晴らしさを再認識できた。
例えば僕は自分が出てない試合で初めて涙が出たのも大学サッカー。仲間が最後まで必死でボールを追いかける姿がこんなにも、自分の心を揺らすのかと衝撃を覚えた。そして言葉には表せきれないいくつもの感情を繰り返し経験しながら4年間はあっという間に過ぎ去った。
ずっとなりたかったプロには程遠い形で大学サッカーを終えた。
サッカー部の同期にはプロになったやつも、日本代表になったやつもいる。そんな彼らを見て思うことは「正しい手段で夢中になれ続けた人間だ」ということ。これはめちゃくちゃ難しいし、できる人間は本当に凄いと思う。
そして今思うのは保険をかけといてくれた親への感謝(笑)。それと正しい手段を調べきれなかった自分の未熟さ。あとサッカーとサッカーで関われた仲間はとてつもない財産だということ。そしてサッカーが好きなのは今も変わらずどこかでサッカーをする居場所を求めてしまう自分がいること。

めちゃくちゃ長くなってしまったが、これが大体の僕が形成されたサッカー人生。フットボール人生。
最後まで読む人は相当なマニアだと思うけど、この気持ちをどこか文章にして残しておきたくて書きました。今は自分をここまで熱くしてくれたサッカーには感謝しかない。

また何か気になることがあれば質問とか、コメントとかいいねとかくれると嬉しいです!
ではまた。

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