終わらないハードコアSLANG KOとKCAを読んだ感想と内容に纏わる私のエピソード。「僕は東京からサッポロシティハードコアを見つめていた」
石井恵梨子さん著のSLANGのKOさんとKLUB COUNTER ACTIONを題材にした自伝的ノンフィクション「終わらないハードコア」が凄くよかった。読了したら書きたいことが山ほど湧き上がってきたので言葉で綴ることにした。
SLANGについては以前のnoteでの投稿で長々と書いているのでその出会い等は割愛するが、前提として自分がSLANGを知ったのはGlory Outshines Doomアルバムがきっかけで後追いなのでそれ以前のことについてはリアルタイムで経験していないし知らないことは語れないし、書けないので僕自身の体験の時系列を元に綴っていく。
終わらないハードコアの各章ごとに付随して綴っていきます。
長くなるので少しづつ読み進めていただければ幸いです。
第一章 少年KO
KOさんの少年時代、どの様な環境下で育ってきたかは全く知らなかったので読んでいてとても興味深かった。自分も例に漏れずKOさんは札幌出身と思っていたがそうではなかった。
KOさんは北海道日高地方の生まれで父親は北海道庁職員であったそうだ。
その関係上北海道のあちこちを転勤していてKOさんはそれに伴い転校を繰り返していたようだ。
場所柄、アイヌの人々との接触と共存がそこにはあった。そこにはアイヌの人々への差別的意識、そしてKOさん自身も公務員の息子だからという理由で同級性や上級生から差別を受けていたそうだ。少年KOにとって差別とは何かという理解や自覚はなかっただろうが、その時既に差別というものの原体験をしてその頃から差別というものへの不快感が染みついていったんだと思う。
今のKOさんからは想像もつかないがこの頃のKOさんは同級生や上級生から、今でいうイジメを受けていたそうだ。でもそこはKOさん。やられたらやり返す。そんな反骨心が既に芽生えていたのである。中学生になったKOさんは喧嘩に明け暮れたいわゆる不良少年だ。ここでもやられたらやり返すの精神で喧嘩や暴力の日々だったようだ。KOさんだから真面目な学生生活は送っていないだろうと勝手に想像はしていたがここまで素行不良な少年だったとは正直驚いた。
そんな多感な時期にKOさんは音楽に出会っている。僕は学年としてはKOさんが一個上だが同い年の年齢だ。自分が小学生の時にはザ・ベストテンとか見ていて音楽といえば歌謡曲かアニメの主題歌だったが、KOさんにとっての音楽の原体験は横浜銀蝿とセックスピストルズ等のロックというから驚きだ。しかも小学生で既に高校生の文化祭に行ってロックのコピーバンドを見に行って、ロックバンドに惹かれ夢中になっていたというのは早熟だし、僕と同じ世代なのに随分と違う音楽体験をしていたのだなと思った。まあ横浜銀蝿は僕も大好きでホウキを持って真似して休み時間に教室や校庭で歌ってた思い出はある。
僕が音楽を本格的に好きになったのは中学生で、きっかけは当時放映されていたベストヒットUSAを観て、そこからUKポップをまず好きになり、ヴァンヘイレンのパナマのPVを観て何この音楽めちゃくちゃカッコいいと衝撃を受けて、そこからハードロック、メタルに傾倒していき、当時はLAメタル全盛期でそれらのバンドや有名メタルバンドを聴きまくって、そのルーツであるレッドツェッペリン、ブラックサバス、バッドカンパニー、フリー辺りを好んで聴くようになっていった。
日本のメタルも聴いてた。その中でKOさんがTwitterで投稿してた北海道のバンド、後に世界デビューするEZO、その前身バンドのフラットバッカーも。
この時期まわりはおニャン子クラブとか光ゲンジとかのアイドルを聴く人しかいなかったから自分は浮いていた存在ではあった。そんな時期にKOさんは既に日本のハードコア、いわゆるジャパコアを聴いて衝撃と興奮していたというから音楽的には全く違う世界線にいたのだなと思うと同時に既にこの頃からハードコアパンクが中心にあったのだなと分かった。
もちろん自分もピストルズ、クラッシュ、ラモーンズとかのパンクは聴いてはみたが当時の自分に響くものがなくパンクに傾倒していくことはなかった。ただ当時メジャーだった日本のラフィンノーズはいいなと思って結構聴いていた。もちろんその後に何年かの時を経てパンクやハードコアも好きにになっていった。
僕の原点はメタル、KOさんはハードコアとまるで水と油の嗜好だが、僕の原点にメタルがあったからこそ、SLANGを初めて聴いたときにメタルが原点でシルバーバックのギタリストでもあるキヨさんのギターの音とプレイが強烈にカッコよくて一瞬にしてSLANGに惹かれたことは紛れもない事実。メタルは音が重くそれが僕を魅了していたから、SLANGの音はキヨさんのメタルギター、サクマさんの地を這うような重低音のベース、手数の多い凄く上手いドラムを叩くコウヘイさん、それに乗っかるKOさんの叫び。このいわゆる今まで聴いたパンクやジャパコアとは一線を画すSLANGの強烈に重いサウンドが超絶にカッコよすぎると感じたからこそ自分は一瞬でSLANGの虜になったんだ。
第二章 札幌パンクシーン
この章に書かれていることは僕が知らないことばかりで興味深かった。KOさんがバンド活動を初めていくきっかけや様々なバンドマンとの出会いが記されている。札幌のローカルシーンでのパンク、ハードコアの創成期の話なので正直出てくるバンドは知らないバンドばかり。札幌の地で小さな動きだがぽつぽつと様々なバンドが生まれていき、だんだんと札幌のパンクシーンが創造されていく過程が分かる。
札幌シーン第二世代と言われるらしいが、ここであの怒髪天の益子直純さん、ブラッドサースティーブッチャーズ吉村秀樹さん、イースタンユースの吉野寿さんの話が登場してくる。
僕は正直パンク、ハードコアマニアではないので通っていない、名前すら知らないバンドの方が多い。LSDというバンドの存在もこの章を読んで初めて知った。そしてそのLSDでギタリストとしての参加がKOさんの最初のバンド活動とは全然知らなかった。自分はSLANGのギターがKOさんのバンド活動のキャリアのスタートだと思っていたから。
LSDが終わった後にSLANGをKOさんは立ち上げようとしていた。でも始めるにあたりヴォーカルがいないので動かせられない。僕はブッチャーズの吉村さんが一時期SLANGのヴォーカルをやっていたということを、雑誌か何かで見て知ってはいたけど、なぜそういう経緯になったのかは知らなかった。吉村さんがLSDの曲は歌いたくない、でもKOさんはオリジナル曲を作った経験なんてない。そんなわけで吉村さんがSLANGの為のオリジナル曲を6曲くらい作ってきて初期ライヴを乗り切ったとは驚いた。あの吉村さんがSLANGの為のハードコアの曲を書いたという事実。音源が存在するなら聴いてみたいと思った。
第三章 ライブハウス
この章では新井さんという初代ヴォーカルが決まり、ようやくSLANGがバンドとして精力的に活動が始まるところから話がはじまる。だが幾度のメンバーチェンジがありバンドの体制は安定していなかったみたいだ。
当時アキュートというバンドがいて非暴力でポリティカルなメッセージを発信し続けていたとのことだ。そしてある店にKOさんが入ったときにパブリックエネミーに出会い衝撃を受ける。KOさんのTwitterでは度々パブリックエネミーの話題が出てくるが分岐点というか凄くKOさんにとっては大事な出会いだったんだと思う。その辺りからKOさんは社会のこと、世の中の不条理について考え始めていったのだろう。
1990年代になると札幌の人気バンドは次々に上京していったらしい。でもKOさんはその動きをよく思っていなかったらしい。KOさんは衝撃的な音をならすバンドがいた先輩たちがいた札幌が好きで、札幌という土地だからこそSLANGというバンドが生まれた。幼少のころのKOさんは札幌で名を上げてやがて東京に出て一旗揚げるという野心をもっていたけど、もうそんな気持ちは無くて上京はしない、札幌という土地での活動に拘る。
「先輩たち大好きだけど、ほんと腹が立つ。おれは札幌でやる。」
札幌の先輩が好きでリスペクトしているけど、札幌を捨てて上京していく先輩たちに怒りを覚えるのは、物事には筋を通すなんともKOさんらしいなと僕は思った。そしてこの頃を境にサッポロシティハードコアが始まるのだ。
狸小路にあったカウンターアクションは勿論知っているけど、その前に円山エリアという場所でライブハウスのカウンターアクションが存在していた事実はこの本を読んで初めて知った。僕は常々なんでKLUB COUNTER ACTION、"CLUB"じゃなくて"KLUB"のつづりなんだろうと不思議に思っていたけどその理由が分かった。ここでは書かないから知りたい人は本書を買って読んでほしい。
その初代カウンターアクションは残念ながら一年で閉店してしまったらしい。そして狸小路のカウンターアクションの立ち上げへと繋がっていく。この狸小路のカウンターアクションはKOさんがライブハウスを再開するにあたって良い場所はないかなと探しまくって見つけて決めた場所だと僕は思っていたが、その場所になるきっかけは「え⁈そんなことってあるの」と驚くようなことだった。この奇跡的とも言えるストーリーは是非本書で読んでみてほしいと思う。
狸小路のカウンターアクションは自分にとってSLANGの聖地と勝手に決めていた場所で、いつかこのライブハウスでSLANGが観たい!という思いが募り、ある年の秋ごろに札幌に遠征することにした。当時の僕のTwitterアカウントでは、SLANGが好きな地元札幌の何人かと繋がっていたので、札幌に着いたら待ち合わせして一緒にカウンターアクションでSLANGを観ることになった。
細い小道の奥にカウンターアクションがあって。まずその看板を見ただけでうわ!あのカウンターアクションだと興奮した。階段を上がって2階がカウンターアクションのライヴハウスで、遂に来たよって感激しきりだった。SLANGのライブ前に一緒に行った地元の人がせっかく遠くから来たんだから最前のいちばんよい場所で観なよって言ってもらえて最前ど真ん中でSLANGのライブを堪能した。このカウンターアクションは柵もなくステージとフロアは数センチの段差しかなく凄く近い位置でSLANGのメンバーの熱と音に囲まれてライブを観れたのは本当に幸せだった。
ライヴが終わって外に出たときにしばらくカウンターアクションの前に佇んで、建物と狭い階段で談笑するお客さんやバンドマンを見つめていた。あの日は本当に一瞬一瞬が夢の様でとても貴重な体験だった。今はもう無い伝説の狸小路のカウンターアクションでSLANGのライヴを観れたことは自分の中での宝物になったね。
このダイジェストの冒頭を観ると札幌の街と狸小路にあったカウンターアクション辺りの雰囲気が分かると思う。
第四章 サッポロシティハードコア
この章ではハイスタンダードの話が出てくる。僕がハイスタは聴くようになった時期は既に活動休止状態だった。いわゆるエアジャム世代と言われる音楽は自分には響かなかったが、ハイスタの速いビートにメタルの様に刻まれるリフが乗る音楽性はユニークでライヴ観てみたいなと思わされた。2011年の11年ぶりのAIR JAM、ハイスタ復活は観に行った。
この章を読んで知ったのだがハイスタの札幌公演の時はSLANGが共演していたらしい。僕はハイスタとSLANGに繋がりがあったのを知らなかったから以外に思えた。ハイスタのカウンターアクションでの公演では戸沢淳さんがセキュリティをしていたこともあったそうだ。
実は僕は一時期この戸沢淳さんと繋がりがあった。戸沢さんの事を知った時にはナックルヘッドでは無くてアンタゴニスタパンクロックオーケストラというバンドをやっていた。男女ツインボーカルにツインギター、ベース、ツインドラム、サックス、サンプラーの大所帯メンバーのパンクだけどバンド名の通りオーケストラ的なバンドで僕の好きな音楽性だった。東京に来た時にライヴも観たことがある。
戸沢さんと繋がったきっかけは忘れてしまったけど、KOさんと戸沢さんは繋がりがあるからその辺からだと思う。戸沢さんは札幌で反原発デモなどを率いてやっていてとにかく行動で示す人だ。独りでもプラカードを掲げて駅前でスタンディングで意思表示をする様な人だ。
戸沢さんは元々は東京出身の人で札幌に移り住んだそうだ。だから戸沢さんは度々東京に里帰りで訪れたりしてた。僕は2014年頃からの秘密保護法や集団的自衛権の行使が施行されようとしている時期に毎週国会前デモに参加してた。話題になった国会前10万人デモも先頭でメガホン持って叫んでたりしてた。この時の僕はとにかくポリティカルなことに傾倒し行動してた。パンクやハードコア界隈の一部の人もデモに参加していた。前のnoteにも書いたけどその時の自分は必ずSLANGのTシャツを着て参加して、自分がデモしてる画像をTwitterに投稿してそれをKOさんが拾ってくれて毎回リツイートして拡散してくれてた。
多分そのツイートを見た戸沢さんが僕にTwitterでリプくれたりして繋がったのかもしれないけどよく覚えていない。デモがある日の金曜日にTwitterのDMで戸沢さんから「今日の国会デモ参加する?」って連絡がきて、「はい、参加します!」と返したら、「今日東京にいて自分もデモ行くから終わったら会わない?」って誘われたから快諾した。
デモが終わった後の国会前で戸沢さんと会った。そこからご飯でも食べに行こうかってどこかのお店に行って今回のデモや色々な政治的な話を長時間した。
僕は今回の秘密保護法法案が強行採決されて怒りが収まらず、その後も行動をし続けてた。その次の集団的自衛権の行使が採決されそうなデモの日は夜通しデモに参加して、早朝に呆気なくまたもや強行採決されてしまった。
この時はさすがに喰らった。いくら国民がノーと言っても国家権力でゴリ押しで決まっちゃうんだな、なんて無力なんだって絶望感に苛まれて、もう無理だって心身ともに疲弊してしまった。
やがて少ししてからTwitterのアカウントを削除して政治的なことからは一切離れてしまった。それで戸沢さんとの繋がりも無くなってしまった。Twitterを再開してから戸沢さんをまたフォローしたんだけど、僕はただツイートを見てるだけで、戸沢さんは相変わらずスタンディングデモしてたりしてる。ずっとブレてなく行動してるんだな凄いなって今も思っている。
この本を読んでまさか戸沢さんの名前が出てくるとは思わなかったので、一気に当時の記憶が蘇ってここに綴りたくなった。ちなみにSLANGのDevastation In The Voidに収録されているScumには以下の歌詞が書かれているのだが、
「道知事のドブスがひきこもる 道庁前で戸沢がアジる」
この戸沢とは戸沢淳さんのことなのである。
第五章 札幌vs東京
この章ではまだ僕がSLANGに出会う前の話だから自分の知らなかったことが結構記述されている。僕は会社員での労働経験しかないので、インディペンデントでのライヴハウス、レーベル、レコードショップがビジネスとしてどれだけ成り立つのか見当もつかないけど、1997年ころのKOさんのこの事業は軒並み成功を収めていて黒字でかなり稼げていたとは意外というか驚きだった。もちろんやり方や仕掛け方が長けていたのは間違いないだろうが、マイナーなハードコアやパンクを中心としたことを手掛けているのにビジネス的に成功するものなんだと、いち会社員の自分の視点からは想像もできないことである。しかもアパレル事業も展開し始めて、それも成功してその事業は東京進出までもしてたことは全然知らなかった。
だがその成功の裏でSLANGの活動が不安定になっていったそうだ。当時のヴォーカルのハルさんが辞める決断をしてしまったからだ。つまりここでSLANGはヴォーカル不在になってしまうのある。そこで新たなヴォーカルを探すのは困難を極める状況に陥ってしまった。そんな時にKOさんに「自分が歌詞書いてるんなら自分で歌った方がいいよ」と助言をくれたのは、札幌の先輩バンドマンではなく、関東でのハードコアパンクをずっと体現し見つめてきたFORWARDのあのISHIYAさんだったというエピソードは自分には意外だった。
そしてKOさんは覚悟を決めて自ら歌うことつまりヴォーカリストに転身することにしたのだ。KOさんがヴォーカルになってからリリースされた音源がSkilled Rhythm Kills なのである。
このアルバムにはSLANGと言えばこの曲という代名詞「何もしないお前に何が分かる 何もしないお前の何が変わる」が収録されている。
このアルバム自分は結構好きなアルバムである。Hardcore In My Bloodやライヴでも演奏されるConfidenceも収録されていてなかなかカッコいいハードコアアルバムに仕上がっている。KOさんは初のVoであり、今の様な堂々とした貫禄ある迫力がある歌声や突き抜けるほどの叫びはまだないけど、音源として出すには問題ない歌を歌ってると個人的には思う。楽器の音も悪くはない。
僕はSLANGを聴くようになってから札幌を中心とした北海道のバンドの音楽を好んで聴くようになった。音楽性や鳴らしてる音は違ってもどこかに北海道のバンドならではの冷たい温度感や、ヒリヒリとした感覚、電車に乗りながら車窓から何もない田舎の風景をひたすら見つめているような孤独感を感じるからだ。
僕は北海道のバンドでいいなって思ったらTwitterでその感想や気持ちを度々発信してた。そうするとそれらの北海道のバンドマンがすかさずイイねをくれたり、僕もそれらのバンドマンの投稿に積極的にリプしたりして、だんだん距離が近くなっていって、北海道のバンドマンとは東京と北海道という距離感はあるけど、東京から自分たちのこといいって言ってくれる僕がある程度認知されてた実感はあった。
第六章 スラング覚醒
KOさんがヴォーカルになってからKOさんは意識が変わっていったそうだ。
伝わる歌詞を書く為に真剣に言葉と向き合うために自伝、詩集、自己啓発本、経営者の本を読み漁るようになったそうだ。作曲にしても短時間でもいいからと音を出して、色んなジャンルの音楽を聴いて吸収して、それを自分の表現に落とし込んでいった。
時々KOさんのインスタで猫の写真と共に自室の写真の様子が映るのだけど、そこには膨大な書籍や様々なジャンルのCDやレコードが見て取れる。僕はそこからKOさんはとにかくより届く言葉、思考を投げかける言葉、心の中に潜む衝動や琴線に触れる音を追求しているのだろうなと個人的にはずっと想像してたけど、それは間違っていなかったようであるとこの本を読んでわかった。
このダイジェストの中ではKOさんが読んでいる大量の本やCD、レコードが映るので分かると思う。
そしてSLANGをもっとしっかりやろうという決断に至り当時のメンバーを全員クビにしたそうだ。
新たにメンバーになったのはギターはキヨさん、ベースはサクマさん、ドラムはコウヘイさんとなった。Vo,Guは経験豊富なベテランバンドマン、Bs,Dsは若手のバンドマンという構成だ。僕のSLANG初体験はこの4人で鳴らされた音だ。第一章で既に記述してるから重複してここで各メンバーのことは書かないが完璧な布陣である。SLANGというハードコアの音楽を強烈なインパクトと高度な演奏の技術力を持ってリスナーに説得力を持って放ち音を届けることができるメンバーだ。
現在はキヨさんが脱退したのでサポートでYUKIGUNIのKENTAさんがSLANGで弾いている。YUKIGUNIが東京に来た時にライヴを観たことがあるけど、凄く上手い。KENTAさんは米国の音楽スクールを卒業し、ギタースクールを経営し、様々なタイプのギターを弾ける凄腕の人だから新譜でのKENTAさんのギターもとても楽しみだ。
この章の後半では東日本大震災のときのことが書かれている。前のnoteでこの辺りについては詳細に記述しているので今回は細かく書かないが、僕はリアルタイムで大震災が起きてからの日々を経験しているのでKOさんやスラングのメンバーその他、確かな気持ちを持ったバンドマンたちが被災地支援、フットワークの軽いバンドマンだからこそできる、NBC作戦というスキームを作り上げ実行してきたことを見てきている。そして僕自身もその活動に能動的に参加して積極的に関われたことで、震災は本当に大きな悲しみを伴う事象だったが人として成長できた経験ではあったと振り返ってみて思う。
第七章 震災後
この章では震災後に被災地にライヴハウスを作ろうという東北ライヴハウス大作戦について書かれている。宮古、大船渡、石巻。この大きなプロジェクトについても自分は初期段階からどの様に進んでいき実際にライヴハウスが立ち上がるまでツイッター等で随時進行状況が発信されていったので、よく覚えている。バンドマン、東北の地元の方たち、想いに共感できる地方行政の方たち。すべての人の想いが結実して誕生したライブハウスたち。音楽で街を再生するというとても素晴らしいプロジェクトだったと思う。僕は震災後に陸前高田を中心に岩手を訪れてたけど、後の大船渡フリークスになる手付かずの大船渡のその建物をこの目で見ている。
この章で自分が綴っておきたいのは吉村さんのことだ。2013/5/11 下北沢ERAでブラッドサースティーブッチャーズとSLANGがツーマンしたことが書かれている。自分はこのライヴに行っている。当時SLANGの東京ライヴは全て行っていたからこの日も当然の様に発表されたらすぐさまチケットを取った。
この組み合わせのライヴは貴重としかいいようがない。かつて付き人のように吉村さんの傍らにいたKOさん。そのKOさんをずっと厳しくも見守ってきた吉村さん。その北海道出身の二人がいるバンドが東京で一緒にライヴをするのだから。
この時期、僕のTwitterアカウントで僕はブッチャーズとSLANGが大好きだという人と出会い、事あるごとに一緒にライヴ観ようねって言ってたんだけど、なかなか実現しなくてこの日が遂に一緒にライヴを観れる日になったのだ。もうその人の名前は忘れてしまったけど、朴訥で愛想がよくてとても感じのいい青年だった。ERAで初対面したときには遂に会えたね!ってハグした記憶がある。
僕はブッチャーズはマニアというほどでなないけど、有名なKocorno,NO ALBUM,ギタリストを殺さないでは聴いていて曲は知っている。実は僕はブッチャーズを観るのはこのライヴが初めてだった。吉村さんから放たれる歌と音が凄く心に響いてくる。後半は本当にブッチャーズの音に陶酔していた自分だった。そしてふと目をやるとその友人がブッチャーズの音楽を聴いて時に踊りながら楽しそうに噛みしめながら見てる姿を度々目にする度に僕はすごくうるうるしてた。彼は心底ブッチャーズが大好きなひとなのである。心から好きなバンドの音楽を楽しんでる彼の姿は本当に愛おしくて何回もグッときてしまった。
この時のSLANGのライヴはなぜかあまり自分の記憶に残っていない。確かに自分はERAでこの時のSLANGのライブを観て、最前近くで狂うほどにSLANGの音に囲まれて激しく身体を動かして一緒に叫んでいたのは間違いないのだが。何か夢心地の様な無心の状態で観ていたのだろうか。
終演後には物販のところに吉村さんとKOさんの二人とも顔を出していた。友人は何回かブッチャーズのライヴに行っている人だから、吉村さんと自然に親友の様な空気感で談笑していた。彼は吉村さんからもきっと覚えられていたんだと思う。僕も何を話したかよく覚えていないけど、吉村さんと話すことができて、満面の笑みを浮かべながら僕に言葉を投げかけてくれて、その時の笑顔は今も焼き付いている。
僕とその友人にはまた別の共通の友人がいたんだけど、その人は実は病気を患っていて入院中でライヴは行ける状況ではとてもなかった。その人は横山健さんとSLANGが好きで、今日一緒に観た友人がその入院している人に会う予定があるということだったので、その事を聞いたKOさんは物販の机から何枚かのSLANGのCDをピックアップして「これ彼に渡してあげて」ってCDを友人に渡してた。
前のnoteにも掲載したけどERAのライヴ後のこのKOさんと吉村さんのツーショット写真は僕が撮ったんだ。KOさんは先輩の吉村さんの前で凄く柔和な素敵な笑顔をしてるよね。大好きな写真だよ。この写真をKOさんは当時のブログに載せてくれたんだ。
そしてこのライヴの二週間後に吉村さんは旅立ってしまった。
僕はこの訃報を聞いたときに何が何だか分からなかった。だって二週間前に確かにブッチャーズのライヴを観て吉村さんと話までしたんだから。
吉村さんがいなくなった後にKOさんはその気持ちを公に発言することはなかったけど、僕には到底想像できない大きなショックと受け止めきれない状態だったと思う。その時のことがこの本では書かれている。その吉村さんがいなくなってからのKOさんの日々を今回知り、ものすごく胸が締め付けられた。
下の写真は最後のERAのライヴの後に下北沢のおでん屋さんに二人が向かう時の写真だ。確かめてないけど、ひょっとしたらこれはあの時の一緒にいた友人が撮っていた写真だったのかなとも思う。
その写真を元にKOさんがこのステッカーを作ったと思うんだけど、これをKOさんから貰ったのか、SLANGの物販にあって貰っていってと言われて渡されたものかはもう記憶にないけど、とても貴重なもので今も大事に保管してる。
吉村さんが亡くなってからしばらくたってERAで僕と一緒に観た友人は、驚きの行動に出る。北海道に飛び、吉村さんの出身地である留萌市にまず向かって、そこから吉村さんにゆかりのある北海道の場所を転々と足跡を辿るひとり旅に出たのだ。僕は一切このことを聞かされておらずTwitterの投稿で初めて知る次第。
その日々を随時TwitterでKOさんに投稿を飛ばして、その旅の間はKOさんのタイムラインはその友人とのチャット状態になっているというありさま。彼は想像以上にぶっ飛んでるなってこの時思った。でもKOさんも律儀にリプを返してやりとりしてた。友人は「今日ここにいるんだけどどこも泊まるとこないよーどうしようKOさーん」、「駅にでも泊まれば(笑)」みたいな会話がずっと続いててそのやり取りを見てるのが面白かった。
彼の行動はぶっ飛んでたけど同時にとびっきりの吉村さんへの想いを感じたよ。そんな彼の行動をKOさんは半ば呆れながらも、同じくKOさんのとても大切な先輩の吉村さんへの想いを行動にする彼を愛おしく感じてたんじゃないかな。
第八章 ライブハウス再び
狸小路のカウンターアクションを閉店するという情報を知ったときには驚いたしショックだった。え!あのSLANGの聖地であるライヴハウスはなくなってしまうのって。そしてその後場所は残るけどライブハウスではなくバーとして存続していくとのことだった。
バーになってからのカウンターアクションはTwitterやインスタでは常にお客さんやバンドマンが来店してた。札幌公演に来たバンドマンは必ずその後にバーになったカウンターアクションに訪れている写真もよく見られた。
まあ集まれる場所があるのはいいことではあるよなと僕は思ったけど、同時にもうKOさんはライブハウスは立ち上げないのかなと心では思っていた。
ところが水面下では新たなライブハウスとしてのカウンターアクションの立ち上げが進んでいてその発表があったときは嬉しかった。やはりKOさんはライブハウスを諦めてなかったんだと分かって。新しくなったカウンターアクションは写真でしか見れてないけどとてもモダンなつくりだ。KOさんの拘りも詰まってる。今は色々事情があって遠征はできないけど、僕はいつかこの新しいカウンターアクションでSLANGのライヴを観ると心に決めている。
この章でサクマさんとコウヘイさんも語ってるけど、いつか訪れるSLANGの終焉を意識しながらKOさんは動き始めていると僕も感じてる。
僕自身もKOさんと同い年だからこの先の人生、残された時間のことを否が応でも考え始める。僕の娘は今高校生だけど、学費ローン払い終えるまで自分生きていられるのかなともふと考えたり。
この終わらないハードコアという自叙伝を刊行しようとKOさんが思ったのも自分の生き様を記して残しておきたい、サッポロシティハードコアの楚を築きそれがどの様に発展していったかの記録を後世に残しておく必要がある、それを語れるのはKOさんしかいない。だから書いておかなきゃという気持ちの源泉からかなと個人的に思ってる。
僕自身も今回この終わらないハードコアを読んで僕はSLANGのいちファンにすぎないけど、でも僕しか体験してないKOさんとのこと、サッポロシティハードコアとの人々とのこと、吉村さんに関わるエピソードを言葉にしておきたいという気持ちが湧き上がってこのnoteに書き残しておきたいって思った。僕は札幌に住んでいる人間ではないけど東京から観ていた、経験したサッポロシティハードコアを僕なりに綴っておきたかった。
KOさんはSLANGを出来なくなる日が頭に過る一方で、100歳まで生きてハードコアを続けてやるという気持ちも同時に持ち合わせていると思うけどね。
「マダマダヤルヨハードコア」
そんな気持ちがKOさんの中にあるのだろう。
アンニュイ/ bloodthirsty butchers covered by SLANG