見出し画像

小笠原弘幸「オスマン帝国」

繁栄と衰亡の600年史、という副題がついたこの本は、13世紀末ごろから1922年の滅亡まで、歴代のカリフ・スルタンを軸に、様々な民族と様々な宗教を内に抱えた帝国の内政と、周辺諸国との利害と力関係をさばく外交、宗教と民族をうまく利用した権威の正統性のロジックと権力構造と統治機構、時代とともに大きく変化するこれらの変遷を丁寧に追うことで、オスマン帝国600年の歴史が辿られていてる。私にとっては新しいことばかりで、とても勉強になり、よい入門になったと思う。

大国と大国の間に挟まれているうえに、ヨーロッパを大きな半島と見たときに、そのアジア側の根もとにあるわけで、現代であっても地政学上のキープレイヤーでもあり、また、100年前のオスマン帝国の瓦解に至る経緯とそれに乗じた列強諸国のつばぜり合いが、現代のバルカン半島からパレスチナ、そして北アフリカ諸国の歴史や紛争に大きな影響を与えていることは間違いない。

本書の「はしがき」に、ハプスブルク帝国やビサンツ帝国そしてモンゴル帝国と比較して、ひとつの王朝が実権を保った歴史として600年が破格に長く地域としても規模が大きく、時代ごとの変遷をも相応に持つ、そんな歴史を追うことの困難性について触れたうえで、次のように書いてある。

日本人研究者の手によるオスマン帝国全体をあつかった学術的な通史としては、いまから半世紀前の一九六六年に、日本におけるオスマン帝国史研究の先駆者である、三橋富治男によって「オスマン・トルコ史論」(吉川弘文館)が著されているのみである。本書は日本語でオスマン帝国全史をあつかう、半世紀ぶりの試みとなる。

小笠原弘幸「オスマン帝国」 p.5 

本書の構成は、序章から終章までの6章からなり、序章となる「帝国の輪郭」はオスマン帝国が成立する1299年より以前の伝説の時代から始まる。第一章「辺境の信仰戦士(ガーズィー)」は1299年から1453年の「封建的侯国の時代」、第二章「君臨する「世界の王」」は1453年から1574年までの「集権的帝国の時代」、第三章は「組織と党派のなかのスルタン」は1574年から1808年までの「分権的帝国の時代」、第四章「専制と憲政下のスルタン=カリフ」は1808年から1922年の帝国滅亡までの「近代帝国の時代」をそれぞれ扱う。10ページばかりの短い「終章」は、全体のまとめと、現代史、エルドアン大統領の現体制におけるオスマン帝国の歴史の関係と意義づけがコンパクトにまとめられており、未来への俯瞰が提示されて終わっている。

私はこの本を読み始めるまで「オスマン・トルコ」と呼んでいた。しかし、トルコ民族主義に基づく国家としては、オスマン帝国滅亡の後のトルコ共和国成立を待つことになるわけで、ギリシャやバルカン半島諸国、黒海北岸、そしてパレスチナから北アフリカまで含む、様々な民族や宗教を内包する帝国としては「オスマン帝国」と呼ぶのが妥当であると理解した。

本書では36人の歴代スルタン全員を肖像画とともにとりあげ、順に論じている。権力の継承の制度の変遷や関係する勢力の力関係の変遷がよくわかるのが初心者にはありがたい点であった。

それにしても、めまぐるしいスルタンの交代である。平均在位は15.7年、最長が集権的帝国を築き領土を拡大した繁栄の時代のスレイマン1世の46年で、30年以上権力を維持できたのはスレイマン1世を含み6人、20年以上権力を維持できたのは、30年以上維持した6人を含み14人しかいない。そのころの多くの人は、一生のあいだに2回から4回の政権交代とそれにともなう制度や経済の大きな変更、戦争による征服・被征服を経験しているということだ。恐ろしいことだ。

また、トルコ民族やモンゴルの騎馬民族の始祖に辿り、さらにはイスラム教を利用した権威と権力の正統性の確立とその継承、イスラム教をうまく利用した法体系の整備と変遷、統治機構としての官僚組織と軍それぞれの構成と存在意義の確立と力関係の変遷、非常に興味深かった。

特に、勢力・版図の拡大と縮小、周辺各国との力関係の変化にともなう、統治機構や制度のダイナミックで柔軟な変化についてとても興味深く読んだ。

ところで、学校で習う歴史でも、流布する報道の中でも、脇役扱いなのか、これまであまり通して語られたことがないと思われる。学校で習った世界史でオスマン帝国が語られるのは、14世紀から15世紀あたりの帝国初期のビサンツ帝国の滅亡、そして19世紀あたりからのオスマン帝国の分割と滅亡のあたりで、その間の彼の地の歴史については不明であった。それは西欧中心の歴史観からすれば仕方ないことなのかもしれない。

一方でパレスチナ・シリアからエジプト・北アフリカ諸国、あるいは、アルメニアやクルドへの影響への言及はもう少し欲しかったところだと感じた。もっとも、そちらはその方面の各地域の歴史をたどることで補うべきことであろう。

私たちにとって想像もできないほど遠い地域であっても、私たちは網目のような利害関係の中にある。世界は狭い。そしてヨーロッパ諸国とロシア・アメリカ・中国といった列強の利害がぶつかるのが、その境界の地域であることは間違いない。日本がこれから生き抜いていくためには、現代にいたっても紛争が続く各地域の通史を地理・気候と地政学とともに教える、そんなカリキュラムが必要なのではないだろうか。

しかし、学校で教わらなかったと嘆いてもしかたがない。これからの時代を生き抜いていかないといけない若者は各々自習が必要だと思われる。何しろ日本人の私たちは、自国語の日本語で学べる入門レベルのいい本がたくさんある稀有な国なのだ。

この2年ばかし、苦手な政治経済分野について、少なくとも常識レベルの教養を身に着けようと思って入門書をあれこれ読んでいるなかで、押さえておくべき重要な地域であることを認識して本書を手に取ったわけだが、このような良書に巡り合えてよかったと思う。まるで私に教えるためにタイミングよく出版されたかのようだ。


世界中の紛争が早く解決しますように。


■ 関連 note 記事


いいなと思ったら応援しよう!