「縦の民主主義」という幻想
縦の民主主義とはなにか
「縦の民主主義」なる概念がここ数年、一部でもてはやされているようだ。
これは何かといえば、「現在生きている人間の民意だけでなく、これまでに亡くなった先祖や、これから生まれる将来の世代の意向もふまえて政治の方針を決定していこう」というものである。
一見、これは従来の民主主義の欠点を乗り越え、よりよい方向へ世の中を導いてくれる卓見のように聞こえるかもしれない。少なくとも高尚な印象を抱く人はいるだろう。伝統の破壊や環境問題を憂う人にとっても、魅力的な思想といえそうである。
しかし、この「縦の民主主義」というものはきわめて危険な思想である。
死者の意向をどうくみ取るか
「亡くなった祖先や将来の世代の人々の意向とくみ取る」といえば聞こえはいいが、これは「もうこの世に存在せず、したがって(著作物などに関するものを除き)なんの権利も持たない人間や、現実に存在せず、一瞬たりとも存在したこともなく、そして生まれるかどうかもわからない人間の意向をくみ取れ」ということである。これはいくつもの問題をはらんでいる。
まず、死者は自分の死んだあとの世界の政治課題まで、意向を残してはくれない。かりに過去の人間がこのたぐいの遺言を残していたとして、幕末の老中が「開国すべきかどうか」「アメリカとの外交窓口は幕府にすべきか朝廷にすべきか」ということに対する意見は書き残しても、「子どものスマホ利用を規制すべきか」などという問題に関しては意向を書きようもない。言うまでもなく、彼らはそんな問題を想像することすら難しいからだ。したがって過去の人間の意向をくみ取って投票行動や政治的判断をおこなうということは絵空事に過ぎないのである。また、もちろん死者はこの世になんの義務もなく、労働もせず、日本の人口に数えられてもいないため、「参政権」を与えるべきかどうかはおおいに疑問だ。
将来の世代の人間に関しても、同じことがいえる。まずこの「将来の世代の人間」というものが曲者だ。たしかにこれから何十年か(もちろんそれで終わってほしくはないが)は、人口減少の問題はどうあれ、日本国家は存続し続けるだろう。そして、これから新たに生まれる人間も当然、いる。ただ結局のところ、「現実には生まれていない」し、「どのような人間が生まれるか決まっているわけでもない」のである。たとえばここにAさんという女性がいたとして、Bさん(男性)と子どもをつくるかCさんと子どもをつくるかによって生まれる人間は当然、ふた通り以上のパターンが考えられる。もっと言えば、多くの要因の偶然の作用によってそれが男性なのか女性なのか、血液型が何なのか、ということも変わってくる。すなわち、「ある人間が生まれるかどうか」「どのような人間になるか」はまったく未知なのである。
この点、現実に存在する16歳の少年少女に、2年後に選挙権を与えるのとは雲泥の差があると考えるべきだ。「参政権」を「架空の存在」に与えることなど結局はできない。すなわちこの「縦の民主主義」を実践しようとしても実効性はない。
いやそれだけならまだいいが、この思想は非常に有害なのである。
「縦の民主主義」は万能か
「何が有害なものか」という人も多いだろう。このような人々はおそらく、現在の民主主義が伝統を破壊することや、将来の環境問題をかえりみずに金銭的利益ばかりを追求するのを危惧する人たちだ。たしかに、神社の祭礼や儒教的な規範意識になじみの薄い若い世代によって日本のモラルや伝統文化が破壊され、また、利益を追求して社会的責任をかんがえない企業によって環境問題の解決に道筋がつかない、という現象は、ないとは言い切れない。
しかし、だからといって「縦の民主主義」がこれらの問題を解決してくれると考えるのは幻想に過ぎない。
伝統の破壊に関しては、教育と宣伝によって防いでいくしかない。仮に死者の意向を反映したとしても、その結果生まれるのは保守主義者の恣意的な強制だけだ。それよりも、重要文化財の制度などにみられるように予算を注いで守るべき伝統を守っていくこと、あるいは学校教育で教えるべき伝統についてきちんと教えていくことなどが穏当な方法であろう。
環境問題などに関して言えば、「縦の民主主義」によらずとも現実に生きている有権者の良心がその抑止力となることを期待するしかないだろう。百年前の人々の思想に無頓着な彼らも、自分の子や孫を思う気持ちはあるはずだ。そのようなことを勘案しながら、個人がこれまでどおり参政権を行使していくのがベターである。
もちろん、日本に関してはその選挙権の行使さえままならないのが悲しいところだ。もろもろの選挙の投票率は高いとはいえず、これがシルバー民主主義など数々の弊害を生んでいる。このことは「縦の民主主義」とはまったく別の問題をはらんでいるが、ひとつ言えるのは「生きている有権者の意向すら、日本は十分に反映できているとは言いがたい」ということだ。「いわんや死者・未来人をや」である。
制度化したら起こること
そもそも考えなくてはいけないのは、これらの「死者や架空の未来人の意向」を、誰がどうやって判断し、実際の政治に反映させるのか、ということである。
もちろん彼らに直接、個別の政策の是非や意見をきくわけにいかないので、彼らが残した文献なりをもとに判断するしかない。それは、その方面に明るい歴史学者や民俗学者、思想家などの仕事になるのだろうが、その「知識人」による諮問機関なりなんなりのメンバーを誰がどう選定するのか。これは時の政権の仕事とならざるを得ないだろう。すなわち、結局は「死者の意見」は時の政権の意向をふまえたものとして、政治に反映されることになるのである。
より「民主的」な方法としては、「親が亡くなった人や子どもがいる人に、その参政権を代理で行使してもらう」という方法がある。たとえば、18歳以上の人は基本的に持っている1票に加え、亡くなった親の数だけの票(つまり1人につき最大2票)、現実に生まれた18歳未満の子どもの票(票数は子どもの数による)をプラスで与えるのである。
しかし、これだって親や子どもの意向を、本人がじゅうぶんに反映できるわけではないだろう。そもそも別個の人格である以上、政治的意見は別のものになりうるし、もっと言えば親が子どもの意向を無視して自分の意見を反映した投票行動をしてしまうようなことはザラに起こるだろう。
このように「縦の民主主義」を本気で政治に導入しようとしても、おそらくは機能不全に陥る。さらには死者の意見を代弁すると称する知識人、彼らを選ぶ政権与党に権力の濫用のチャンスをあたえてしまうだけで、制度化は無理だしするべきではない。
結局のところこれはスローガンにすぎないし、スローガン以上のものにしてはいけないのだ。