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モノと芸術

文化人類学
人類の社会的・文化的側面を研究する。文化人類学の名称はアメリカにおいて用いられ、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では「社会人類学」の名称が用いられてきた。
他のヨーロッパ諸国や日本においては民族学(英語圏での Ethnology、ドイツ語圏での Ethnologie)の名称も用いられている(民族学を一分野とする場合も多い)。民俗学(Folklore)もまた隣接分野として共通の研究テーマを共有することが多い。
(Wikipedia参照https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6

今回は文化人類学的に社会の色々なことをどう考えてみているか、ということがかなりわかりやすく書かれている本を読みました。
章ごとに扱う題材が違うため、物事を捉えるために様々なアプローチで回答に迫る様子が書き出されていました。
その中でも私としてはやはり芸術をどう理解するかという章が一番心に残りました。

芸術 とは

あまり触れたことのない人にはあまり考えたことのない題材でしょうか。
芸大生であったり、アトリエや画塾に通ったことのある人なら一度は考え、議論したことがあると思います。

今回この本は文化人類学的に考えた芸術とは何か、という話をサンフランシスコ現代美術館にメガネを置いた、とある青年2人の話から始めています。

概要としては、美術館の展示スペースにただの眼鏡を置いて、来館者に鑑賞物だと勘違いさせた様子をSNSにアップした、という内容です。
既に知っている人もいる有名な話です。
なかなか皮肉のこもった、笑えるけど笑えない事件でした。

なぜ笑えないかというと、この事件は人々に芸術と認識させるには美的価値がなくても認識される、ということを伝えました。私たちは本当に美しいものを見に行っているのか、芸術とは美しいものではないのか。
美術館に置かれている・博物館に置かれていると作品としての美的価値・希少性が担保されており、自分にはわからなくても必ず美の価値があると、思い込んでいるのではないだろうかと。

西洋芸術の鑑賞態度は美しさを判断する態度であるそうです。芸術とは美しいものである。「これは使えるか使えないか」といった実用性に基づく判断を芸術に用いるのは不適切とされてきました。

この考えは現在では変わっています。

日本でも現在バタフライチェアやカトラリーなどプロダクト製品で有名な柳宗理の父、柳宗悦により民藝運動が行われました。(1925年ころ)
それまで美術界にあった工芸品の価値観が崩されたお陰で、今私たちは工芸品が美しい物であること、芸術性があると思って生きています。

▲バタフライチェア 柳宗理

工芸品が芸術として受け入れられたように、近代ではそれまで西洋美術的に美しいとされていなかったものが次々と芸術として受け入れられます。変化を遂げることで芸術の本質は美であるという見方から、どのようにすれば芸術となるか、芸術は制度によって芸術となるという構築的な見方へとシフトされます。

・・・・・・とこのように、本の内容は芸術を一つの事象ではなく様々な時代と流れ、正反対の考えなども用いて理解しようとしていきます。観測者的な態度を崩さず話をまとめていたのが、凄く印象的でした。

また、下記のように文化人類学が芸術を定義してくれたのが意外でした。

芸術作品とは何が何と行為しあったのかというネクサス(関連づけ)をつくりだし、引き続く行為を方向付けるが、このネクサスの発生こそが、芸術作品の働きによる社会的効果である。
芸術作品とは美の表現ではなく、人間の社会的行為を媒介し方向付ける形態であるとし、その特殊性は、世界に変化を引き起こそうするあらゆる参与者の意図や、芸術作品の働きによる社会的効果である。

実際私もそう思っておりました。いや芸術とは反骨精神を忘れないこと、生き方のようなものにもなる、と考えていたので少し違うかもしれませんが。

様々な見解を踏まえてこう言われると納得してしまうし、気持ちよく話が聞けるなと思いました。
今後人に自分の好きな話をするときはこのように近寄ったり遠くの事象をもってきて比較できるよう、もっと知識を蓄えたいです。

因みに私は高校生のときに美術館に眼鏡を置いて騒ぎとなった話を知りました。そのあと美術館での鑑賞態度が変わりました。つまりこの眼鏡は私にとって芸術であります。


これを読む人にとって芸術とはどのようなものでしょうか。ぜひ一度この本を読んだあと、お酒でも飲みながら話してみたいです。

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