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「高い城の男」(フィリップ・K・ディック)

 実はSFって苦手でほとんど読んだことがないのだが、ドラマの予告を見て思わず買ってしまった。あと、新装版の表紙のデザインもシンプルで好きである。

 さて、SFマニアの友人にこの本を買ったことを告げると、「初めて買うにしては、SFっぽくないSF買いましたねえ」と言われた。まあ、あくまでもこれは友人の感想で、この「高い城の男」がSFかどうか、という議論は私は良く分からないので放置しておく。

 物語は、第二次大戦でナチス・ドイツとイタリア、そして日本からなる「枢軸国」が、アメリカ・イギリスを主体とした「連合国」に勝利していたら…という「歴史のif」から始まる。舞台はアメリカ。とはいえ、ナチス・ドイツと日本(大日本帝国)に支配され、アメリカ人は日本人に媚びへつらわなければいけない。そんな「もしも」の世界での群像劇。「主人公」は特におらず、複数の物語が展開されるので最初は面食らった。あと、なぜか「易経」が重要なシーンで登場する。人々は筮竹を振り、出た易(まあ平たく言えば占いだ)にすがる。

 面白かったところ。スウェーデン人のバイネスとドイツ人芸術家のアレックス・ロッツェの会話。


「残念ですが、現代美術には関心がなくて」バイネスは答えた。「戦前のキュビスムや抽象派は好きですがね。なにかを意味している絵が好きなんです。たんに理想像を表現したものじゃなしに」それだけいって、そっぽを向いた。
「しかし、それが芸術家の任務なんです」とロッツェ。「人間の精神性を高め、官能を克服することが。あなたのいう抽象美術は、昔の金権政治と社会の腐敗からきた精神的堕落、精神的混乱の時代の産物です。ユダヤ系と資本主義者の百万長者、無国籍的なグループが、そうしたデカダン芸術を支持したんです。そんな時代は終わりました。芸術は前進しなくちゃなりませんー一箇所にとどまってはおれないんです」

「高い城の男」

 ちょっとだけ歴史の話をすると、ドイツ表現主義のグループ「青騎士」は、画家フランツ・マルクが主要メンバーであった。グループ名も彼の絵画から取られたものだそうである。他にもカンディンスキーが在籍していた。結構有名なグループである。

 ドイツ表現主義はヴァイマール帝国時代に花開いて、他にも「ブリュッケ」というグループがあったし、映画では有名な無声映画「カリガリ博士」や「ノスフェラトゥ」もこの時代である。

 しかし、その後政権を奪取したナチスは古典主義を基本とし、新しい波であった抽象派やキュビスムといった幻想的・抽象的な絵画を「退廃芸術」として弾圧した。ヒトラーは画家フランツ・マルクが好んで描いた青い馬を槍玉に挙げ、「青い馬なんかこの世にいるわけがない」と言ったという逸話がある。この画家の「青い馬の塔」はナチスにより1937年、ベルリンのナショナル・ギャラリーから没収され、行方不明のままだという。

 その後、フランツ・マルクは第一次世界大戦に出征し、戦死。享年36と伝わる。死後、鉄十字勲章を受けたそうであるが、なんだか皮肉のようにも思えてくる。

 小説「高い城の男」ではこの「退廃芸術」的な考えがそのまま浸透してしまっているわけだ。この時代の芸術はどうなっていたのだろう、などと読みながらつらつら考えた。

 ところで「高い塔の男」を読み終えてから数カ月後、「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」を読了した。「21世紀の『高い城の男』」と呼ばれ、非常に評価の高い作品である。

 物語は、「高い城の男」のナチスが日本に変わった、という感じ。米国は大日本帝国に支配され、アメリカ人は迫害されている。天皇陛下に忠誠を誓わないものは特別高等警察に命を狙われる、というディストピアである。やはりここでも「芸術の弾圧」「管理された芸術」が出てくる。とりあえず、上と関連して、「管理された芸術」について。

「やはり官憲は芸術を理解しない。あなたがたに芸術があるとすれば、それは被害妄想だ(後略)」(P120)

「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」

 物語前半、劇場に乱入した特別高等警察の槻野昭子の横暴に耐えかねた、劇場監督の井ノ上秀紀の台詞である。

 少し前、ある芸術展が物議をかもしたが、「国による芸術の弾圧」とか「表現の自由」とかで騒ぎが未だ収まっていないようである。私は何か意見を言うような立場にないが(というより迂闊なことを言って争いに巻き込まれたくないというのが本音だ)、芸術はたぶん誕生したときからこのような対立を繰り返してきたので、今回の件でも「ああ、またか…」と思わざるを得ないのでした。 


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