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挽歌とは、誰から誰へのものだったのかーA BETTER TOMORROW ~男たちの挽歌~

雨が降りそうな、じんわりとした蒸し暑さをはらんだ7月の3連休。雨男・松倉海斗VS晴れ男・川島如恵留の対決の行方を懸念しながら、私は大阪メトロ長堀鶴見緑地線に揺られ、西大橋駅へと降り立った。二人が主演の舞台を観劇するためだ。なお、Osaka Metroと書き記すのが恥ずかしい気持ちは、察していただけるとありがたい。

『A BETTER TOMORROW ~男たちの挽歌~』は、1986年に公開された香港映画『男たちの挽歌』を原作とする音楽劇である。劇作家・演出家である鄭義信さんがオリジナル脚本を書き下ろし、兄弟愛、家族愛、葛藤、信念など、様々な人間模様を正面から描き出した作品だ。

この音楽劇の舞台のメインは、1997年の香港。その8年前、1989年に北京から二人の男たちが密航し、香港に到着したところから物語は始まる。二人の男とは、川島如恵留演じるお調子者のマーク、そしてマークの兄貴分である青柳翔演じるホーだ。それから5年後、香港の裏社会で生きるようになったホーは、松倉海斗演じる弟キットの大学卒業祝いの場で、キットが警察へ就職することを聞かされ、それぞれの運命が狂い始めるーー

握ったハンカチを手汗でぐちゃぐちゃにするほど、心の準備が必要そうなあらすじである。ちなみに、これは公演前の私の姿だ。なぜそうなったかというと、怖そうだから。100人中100人が想像できた理由である。

ネットや雑誌など、事前にネタバレになりそうなものはすべて封印して挑んだ私は、震えながら幕が上がるのを待った。事前にちらっと確認した原作は、典型的な香港マフィアのドンパチの話。挽歌というからには、恐らく誰かが亡くなってしまう話。ギャング映画において考えうるすべての要素を想像をしながら、自担の初めての外部舞台を見届けるべく、怖くても目をかっぴらいて観劇しよう…と決めたその時だった。
「ぅゎぁ……ぅわあ~~~~~~~~!!!!!」と、川島如恵留の声がした。そう、私の想像する冷静沈着で冷徹に銃をぶっ放すマークではなく、ライブでテンションがぶち上がっているときの川島如恵留の声だ。恥ずかしながら、私は劇場を間違えてしまったようだ。いや、だとしたらさすがに入場はできまい。というか、私は自担の舞台を見に来たのだから、川島如恵留が登場して当然である。なぜなら川島如恵留その人こそ、私の自担だからだ。間違えてなどいなかった。

青柳さんが「暗さとか重さって、退屈になりかねない」と語るように、あまりにも重苦しい時代背景でありながら、あえてコメディに落とし込むことで、我々観客がこれから始まる物語に対して「怖い」「暗い」「しんどい」というな印象を抱かなくなるという、鄭さんなりの工夫がなされているのだろう。引くほど怖がりな私は、有難くもその恩恵を受けることとなったのだ。

男たちが求めた〈解放〉と〈愛〉

さて、そろそろ真剣に舞台の話をしよう。1989年の初秋ということは、恐らく天安門事件後の北京から逃げてきたであろうホーとマーク。「あのままだと俺たちは豚箱行きだった」(うろ覚え…)というセリフからは、二人がデモに関わっていた可能性が窺える。

観劇後に視聴した原作では、二人は初めから同じ組に属していたので、それなら義兄弟の契りを交わしていたとしても納得がいく。一方のこちらの舞台では、(恐らく)元々は善良な市民だったマークとホーが、なぜ義兄弟という関係になったのかが疑問だった。しかし同じ思想、同じ政治活動による絆だとすれば、その可能性もなくはない。

こうして二人は自由、つまり〈抑圧からの解放〉を求めて香港にやってきたはずだったが、時代は返還直前の香港に移る。イギリスから中国本土に返還された香港が、その後どんな道を辿っているかは、知っての通りだ。

一幕の最後に、土砂降りの中でキットにタコ殴りにされたホーが打ちひしがれるシーンがある。ここで印象的なのが傘(とまちゅの悲痛な叫び…震えるほど涙が出た…)だ。群衆たちがホーを、その悲しみと共に真っ赤な傘で覆い隠すという、あまりにも強烈なインパクトを残すこのシーン。「香港」と「傘」といえば、どうしても雨傘運動を連想してしまう。これも天安門事件と同じく、大規模な民主化要求運動である。

もしこのシーンが本当に雨傘運動、つまりの〈抑圧からの解放〉へのメタファーだとすれば、ホーが歌う『明日はどこだ?』にあらわされた〈希望〉とは、〈明日〉とは、やはりそれも〈抑圧からの解放〉だ。しかしそれは、以前のように「北京」や「組織」、はたまた「過去」から、自分が解放されることではない。ここで抑圧とイコールになるのは「ホー自身」である。つまり、警察官として生きる弟が、兄という抑圧や呪縛から解き放たれ、楽になることを願ったのではなかっただろうか。

そしてこの傘の色は赤。血の色でもある赤は、血縁の証。この世にたった一人の血縁関係のある〈兄〉から解放され、自由になってほしいと願ったのではなかっただろうか。

さらに赤は、力強い戦いの色でもある。もしかするとホーはこの時点で、真っ赤な血に染まるような戦いを起こしてでも弟を解放することを、心のどこかで覚悟していたからこそ、その後のシンとの決戦に挑んだのかもしれない。
(ちなみに赤に関してさすがに政治的な意味合いは込められていないだろう…と思う。たぶん)

ところで、この作品の登場人物たちはそれぞれ愛に飢えている。もしくは愛を上手く受け取ることのできない人間ばかりだ。
全観客の腸を煮えくり返らせたクソ野郎、岡田義徳演じるシンはもちろん、尾上寛之演じるジャッキーでさえも、きっと愛を求めていただろう。その心境は『おれたちはドブネズミやない』という歌の歌詞にも表れている。

愛と思いやりを持っているはずのキット、マーク、ホーの3人も、たった一つのボタンの掛け違いで、互いへの愛情が交わることはなくなってしまった。家族に愛されて育ったキットは父を失い、その原因となった兄を憎んでいる。天涯孤独でホーだけを慕うマークも、心のどこかで本当の兄弟には敵わないと分かっている。そして二人の〈弟〉に惜しみない愛を注ぐホーもまた、誰からの愛も受け取ることができていないのである。

改めて原作を観て思う。ギャング映画である『男たちの挽歌』が、これほど愛と葛藤が強調された物語に生まれ変わるとは。

プロデューサーの熊谷信也さんは、鄭義信という人物について「各方面から”愛”ある人だと言われている」とし、劇団ヒトハダ座長の俳優、大鶴佐助さんもまた「鄭さんは、本物の"愛"の人です」と語る。演劇へ、作品へ、キャストへ、スタッフへ、観客へ、そして自分の原風景へ。鄭さんは、自分に関わるすべてのものへの愛を持ち続けている人なのだろう。

なぜこれほど人間味のある深い愛を魅せられるのか、それは人間愛に満ちた人だからだ。愛のない人に、愛の物語は書けない。また、愛のない人に、愛を受け取ることはできない。つまり『A BETTER TOMORROW~男たちの挽歌~』の関係者はもれなく愛にあふれた人たちばかりだっただろう。そうでなければ、どうして愛の物語が作れるものか。

また、舞台パンフレット(キョードー東京/イープラス/TBS 発行)によると、「軽快な関西弁が飛び交い、人々が喜怒哀楽をぶつけ合う濃厚なコミュニティは、鄭義信作品ではおなじみの舞台設定」だという。なぜ香港が舞台でありながら、ボスや構成員たちは、日本のヤクザ映画と見紛うがごとき関西弁を繰り出すのかと思っていたら、あとから謎が解けた。

抑圧からの解放、関西弁、そして人間愛という鄭さんの原風景のすべてが融合され、この舞台に大きなテーマとしてうまくはめ込まれていたのだ。

話は逸れるが、岡田さんの悪役ぶりは本当に心の底から憎しみが生まれたし、尾上さんに至っては、しばらくレイと同一人物だと気づかなかった。俳優さんはやはり素晴らしい…生の演技はやはりすごい…圧巻だ。

挽歌とは、誰から誰へのものだったのか

そしてラストは、この作品最大の変更点を経て終幕を迎える。最後の銃撃によってホーは命を落とすが、実は原作ではこの立場はマークだった。そう、本来はマークが死んでしまう演出だったのだ。私は舞台に先入観を持たせないため、未視聴のままで観劇し、帰ってからようやくAmazon Primeを立ち上げた。そのとき一番驚いたのが、この場面だった。ホーではなく、マーク。なぜ。なぜだ。なぜ鄭さんは、わざわざこれほど大きな変更を行ったのか。

同じグループである主演の二人を、片方死なせるわけにはいかない。あれほどの演出家が、そんなチープな理由で変更するわけがない。ならばそもそもホーに如恵留くんをあて、マークを別の人物にキャスティングすればいいだけだ。

恐らく、何か大きな理由がそこにあるのではないかと思った。

「挽歌」というのは、死者を悼む詩歌のこと。葬送の際、棺を挽く者がうたうことに由来する言葉である。

では、その〈死者〉と〈棺を挽く者〉は、それぞれ誰のことを指しているのだろうか。原作の展開から、単純に考えればホーからマークへのものだと考えられる。舞台で言えば、みんなから愛されたホーへの弔いの歌だ。終幕直前にキット、マーク、ビッグママの三人がホーの墓参りへ向かうシーン。あれはまさしく、ホーへの葬送の言葉であった。

しかし「男たち」とは、この物語に登場する「すべての男たち」のことなのではないだろうか。

男たちに共通するのは、「明日は今よりよりよい人生を送っていたい」という希望だ。〈よりよい明日〉とは、マイノリティの立場や社会の抑圧、過去の呪縛から解放され、本当の意味での自由を手に入れること。それが世間一般でいう〈善〉のものか〈悪〉のものかは関係ない。自分にとって「よりよいもの」であることが重要だった。これこそ、男たちが望む明日の姿といえそうだ。

そう考えれば、「挽歌」とは、「明日の自分」から「今日の自分」へのものといえるかもしれない。男たちはそれぞれ自分の手で、過去の自分を亡き者にし、新しい自分へ生まれ変わろうとした。そして死んでしまった過去の自分を、きちんと悼んで見送ってあげるのだ。〈A BETTER TOMORROW〉を迎えるために。

最終的にマークは、「兄貴がいなきゃ意味ねぇ!」という言葉の通り、外国での商売を諦め、混沌の香港に残ることを選んでいる。あれほど自由への渇望を口にしていたマークだったが、自分の求める自由が理想で塗り固められた自由であったことに気づき、その「幻想の自由」からも解放されたのだろう。

ただ、だとすれば、なぜホーは死んでしまったのか。なぜホーに、〈よりよい明日〉を迎えさせることが出来なかったのか。
それは、ホーにとっての〈よりよい明日〉は、愛されること。そして愛に飢えたキットとマークにとって、ホーを悼むことこそ、愛だったからだ。

兄を許すことのできない自分。変わってしまった義兄に対して素直になることのできない自分。そんな二人は最終的に、ホーを悼むことでしか、愛情を表現ができなくなっていたのだ。しかし大切な弟たちを守るために自分の命をも差し出すその姿は、まざまざとみせられた兄からのまっすぐな愛情は、さいごに二人の心へ真っ直ぐ突き刺さったのである。

つまりホーの死をもって、キットとマークが本当に〈愛する〉という気持ちを手に入れ、その抑圧から解放されることによって、〈A BETTER TOMORROW〉は成立するのだ。

だとすれば、「挽歌」には、自分から自分への〈解放〉、そしてキットとマークからホーへの〈愛〉という、舞台の大きなテーマが込められていたのかもしれない。

最後に―川島如恵留のコペルニクス的転回、あるいは極悪非道な如恵留くんに恋い焦がれるのえ担

演劇をはじめとした芸術作品を享受することは、その瞬間の自分の感情を味わう行為でもあり、作品を通して作者の考えや感情を推し量る行為でもある。私は「挽歌が誰から誰へのものだったのか」、そして個人的にずっと気になっていた「気を失った後の空白の時間で、ホーとマークはどんな言葉を交わしたのか」について、今後もひたすら考え続けるのだろう。

ただ、原作で印象的なチョウ・ユンファ演じるマークが煙草でドル札に火をつけるシーン。あれを川島如恵留くんが演じる姿は何度でも見させてほしいと今でもずっと懇願していることを、最後に明記しておかなければならない。

品行方正な優等生というパブリックイメージとは180度違うマークの姿は、新しい如恵留くんの扉を開いてくれた。裏社会の服装、おぞましい恫喝、足癖の悪さ、バイク捌き、手に汗握るガンアクション。そして何度も耳を疑ったほど下がかった言葉の連呼。

極悪非道な川島如恵留を、いつかもう一度見られますようにという願いを密かに忍ばせて席を立った。

1997年の香港から戻り、2024年のオリックス劇場を出ると、少しだけ雨が降っていた。

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