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第2回「兎と狼」(予習)

天文11年(1542年) 壬寅年、寅の日(12月26日)、寅の刻に誕生
天文13年(1544年) 母の家が織田方となり、今川方の父と離婚する。
天文16年(1547年) 織田信秀の人質になる。
天文18年(1549年) 父、暗殺される。今川義元の人質になる。
弘治元年(1555年) 竹千代、元服し、松平元信と名乗る。
弘治 2年(1556年)  父の法要のため、半年間、岡崎に戻る。
弘治 3年(1557年)  今川一族の瀬名姫(後の築山殿)と結婚する。
永禄 2年(1559年)  長男(後の徳川信康)が誕生する。
永禄 3年(1560年)  「桶狭間の戦い」が起こる。

今年が卯年だからか、兎がよく出てきます。
・徳川家康が彫り、瀬名姫が取り上げた兎の彫刻。
・織田家人質時代の徳川家康を、織田信長は「白兎」と呼んだ。
兎の彫刻を「ぴょん、ぴょん」と言いながら走ることはないと思った。「そこは兎跳びだろ」と思った。
「兎の彫刻ではなく、家臣に兎の剥製を用意させればいいんじゃない?」
「そもそも兎ではなく、虎なんじゃない?」
とも思った。徳川家康と瀬名姫が遊ぶ時、従者がいないのはおかしい。

※徳川家が正月に兎を食べるのは、徳川家康関連行事ではなく、松平親氏関連行事である。
https://kazusa.jpn.org/b/archives/3857

 父・松平広忠と母・於大の方が、「子を授かるように」と、夫婦揃って鳳来寺の医王院に籠もると、夫婦揃って霊夢を見みて、「三寅の福」(寅年、寅の日、寅の刻)に徳川家康が生まれ、鳳来寺の本尊「峯の薬師」の12神将のうち、寅の方角の守り神である真達羅大将像が消え、徳川家康が亡くなると戻ったそうです。(山岡荘八『徳川家康』では、生母・於大の方が侍女に、「鳳来寺の真達羅大将像を隠し、徳川家康は真達羅大将の生まれ変わりだと噂を流し、徳川家康が亡くなったら真達羅大将像を戻すように」と命じたとする。)

12月26日──12月25日であれば、宣教師に「救世主の再来」と思われた?
12月26日──これは旧暦。新暦では卯年の2月10日生まれ。

なお、徳川家康が寅年生まれとするのは、金地院崇伝が「享年75」としたからであって、「天曹地府祭都状」(『土御門家文書』)には兎年生まれとある。

 徳川家康には、同年、同月、同日、同刻に生まれた弟がいる。お久の方(大給松平家の松平乗正の娘)が生んだ樵暗恵最(父・松平広忠の菩提寺である広忠寺の住職)である。一説に於大の方が双子を生んだが、当時は双子は不吉であるとして、片方を殺すことになっていたので、於大の方は、お久の方が生んだ子だとして預け、隠れ里で育てさせたという。(「正室と側室が同じ年に男子を産むと、側室の子は殺されるので、お久の方は子供を連れて逃げた」というのが史実であろう。)
「桶狭間の戦い」後、徳川家康が大樹寺で自殺すると、樵暗恵最が徳川家康(代役)になった。その後、徳川家康(代役)は、瀬名姫にばれないように距離を置いたのを、世の人は「夫婦仲が悪くなった」と伝えたという。(村岡素一郎は、入れ替わったのは樵暗恵最ではなく、江田松本坊という祈祷僧と、ささら者(賤民)の娘・於大との子・世良田二郎三郎元信だとする。)
実は、「徳川家康影武者説」には3説ある。それぞれ、徳川家康が死んで影武者(代役)と入れ変わった時は、
・「桶狭間の戦い」後、大樹寺に逃げ込んで自殺した。(村岡素一郎説)
https://dl.ndl.go.jp/pid/992561
・「関ケ原の戦い」で殺された。代役は世良田二郎三郎。(隆慶一郎説)
・「大坂夏の陣」で後藤基次に槍で突き刺されて死亡。代役は小笠原秀政。
だとする。

「桶狭間の戦い」後、徳川家康が大樹寺に逃げ込んで祖先の墓の前で自殺しようとすると、大樹寺の13世住職・登誉上人が、自殺を助長するような文句「厭離穢土 欣求浄土」(現世は汚れているから嫌って離れ、(戦って死んで)極楽浄土で生きよう)と書かれた寺宝の旗を徳川家康に渡したという。これは、織田信秀が大樹寺に攻めてきた時、大樹寺開山・勢誉上人が僧兵を鼓舞するために作った旗で、織田軍を蹴散らした縁起の良い旗だという。登誉上人は、「この旗があれば、織田軍を再び蹴散らせる」とでも声をかけたのであろう。徳川家康は勇気を得た。(徳川家康一行は20人弱、織田方の追討軍は約300人。祖洞が閂(実は杖)で追い払った。徳川家康を狙った鉄砲の弾が多宝塔の9輪の2つめに当たって破損したというが、修理したのか、ちゃんとあった。)以上は「伝説」である。当時、大樹寺にあった墓は、岩津松平家の墓で、安祥松平家の墓はなかったと思われるし、「桶狭間の戦い」の時の大樹寺の住職は、登誉上人ではない。

 後に「三河一向一揆」が起きた時、浄土思想のぶつかり合いとなった。一向宗(浄土真宗)側も、徳川家康(浄土宗)側も、旗に「南無阿弥陀仏」と書き、共に徳川家康の家臣であったので、敵味方の区別がつかなかった。一向宗が使った旗に「進者往生極楽 退者無間地獄」(進めば往生極楽、退けば無間地獄に落ちる。だから前へ進んで、死んで、極楽浄土で生きよう)と書いた旗があるが、徳川家康は、敵味方を区別するため、旗に「厭離穢土 欣求浄土」と書かせたという。また、「ここぞ」という時は、この旗を大樹寺に借りに行ったという。(現在は日光東照宮が保管しているという。)
 なお、後に「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「乱邦(乱れた国)に清世(太平の世)を」、正確には「厭離穢土者、謂凡一切法以愛速壞以捨永存故取厭捨穢国能致太平使羣生得永存之義也。欣求淨土者、謂隨其心淨即佛土淨故取欣求淨心此土先淨紛然亂邦變作淸世之義也」(「大樹寺文書」)と変えられた。

 織田信長は、尾三国境の今川義元の鳴海城&大高城を分断&包囲するため、鳴海城の周辺に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を、大高城の周辺に丸根砦、鷲津砦、向山砦、氷上砦、正光寺砦を築いた。
 今川義元は、松平元康(後の徳川家康)などを引き連れて、この尾三国境にまで来て、松平元康にミッション「大高城兵糧入れ」を命じた。松平元康は何とかミッション・コンプリート。大高城に入って休憩していると、「今川義元、討死」の一報が入る。どうする元康?

【クイズ「どうした家康」】
①大高城に篭城した。
②大高城を出て、故郷の岡崎に帰って留まった。
③大高城を出て、妻子が待つ駿府に戻った。


【歴史学界の論点】

大高城から(大樹寺経由で)岡崎城までの逃走ルート
  A.こっそりと数騎で岡崎平野北側(「三鹿の渡し」等)
  B.堂々と大高城にいた今川軍を率いて東海道を東進
  C.こっそりと数騎で知多半島(「生せんべい伝承」)

 小和田先生は、よく、「大軍を率いて、堂々と東海道を往く姿が大好き」と言っておられるが、多分、史実はA(岡崎公園に、鹿が教えてくれた浅瀬を渡る像があるが、実際は舟で渡った)だし、その方が「どうする感」が強くてドラマ的にはよろしいかと。Cの知多半島ルート説は、「神君伊賀越えのルートとの混同」とされるが、それでは「生せんべい伝承」に登場する半田の娘・みつや、総本家田中屋(愛知県半田市清水北町)の面目が立たない。

徳川家康の離反時期
  A.「桶狭間の戦い」前
  B.「桶狭間の戦い」の最中
  C.「桶狭間の戦い」後

 徳川家康の離反時期については、「名前を元康から家康に変えた時」というのが分かりやすいけど、「桶狭間の戦い」の前でしょうね。今川義元が三河守になった時でしょう。
 織田信長の軍師が「徳川家康は大高城に入り、織田信長が攻めてきたら降参し、大高城の兵糧や武器を手土産にして、織田家家臣になるつもりでいた」と書き残しています。松平元康は、織田信長に与えるために、今川軍の兵糧を奪って大高城へ入れた?

【クイズ「どうした家康」(正解編)「こうした家康」】
②大高城を出て、故郷の岡崎に帰って留まった。

 松平元康は、「今川義元討死」が誤報ではないか確認すると、まずは故郷・岡崎の大樹寺に逃げ込んだ。岡崎城には岡崎城代・山田新右衛門(演じるのは岡崎市出身の天野ひろゆきさん)がいたが、この山田新右衛門は、岡崎城から桶狭間へ向かって自害したという。墓は静岡県焼津市越後島殿屋敷の「山田越後守の墓」である。

山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者也。義元、別て御目懸けられ候。討死の由承り候て馬を乗り帰し、討死。

(岡崎城代・山田新右衛門という者の本国は、駿河国(静岡県焼津市越後島殿屋敷)である。今川義元は格別に目をかけていた。「今川義元討死」と聞くと、馬首を返して桶狭間に向かい、討ち死にした。)

太田牛一『信長公記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920322/1/77



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