
『徳川実紀』に見る「長篠の戦い」
元亀4年7月27日、年号が「天正」に改まった。
武田信玄は、年号が「天正」に改まる前の1月、三河国の野田城(愛知県新城市豊島本城)に押し寄せ、激しく攻め、終に城主・菅沼定盈は、城兵の命と交換に、城を開け渡したので、菅沼定盈を生け捕ったが、山家三方衆の人質と交換により、菅沼定盈は、再び野田城に帰ることが出来た。
この「野田城攻め」の時、武田信玄は、鉄砲で撃たれ、4月12日、信濃国波合(長野県下伊那郡阿智村波合)で亡くなった。徳川家康は、武田信玄が死んだと聞いて、「今の世に武田信玄のような偉大な武将はいない。私は若い頃から武田信玄のような武将になりたいろ思ってきた。敵ではあるが、武田信玄の死を喜べない。惜しいと思う」と仰せられらので、この話を聞いた者は、ますます徳川家康の心の広さに感服し、身分の低い家臣から身分の高い家臣までが口を揃えて「武田信玄の死を惜しむべきである」と口真似をしたという。
この年の3月頃、松平信康の「甲冑始」(初めて甲冑を着る儀式)があり、松平重吉が松平信康に甲冑を着せた。さて、「初陣もしなければ」と、田峯(愛知県北設楽郡設楽町田峯)の近くの武節城(愛知県豊田市武節町)を攻めると、城兵の旗色が悪くなり、足助城(愛知県豊田市足助町須沢)の城兵も逃げ出したので、「初陣で2つの城を落とすとは、目出度いことである」として岡崎城へ帰った。
その後、酒井忠次と平岩親吉を大将にして、遠江国の天方城(静岡県周智郡森町向天方)、可久輪城(静岡県掛川市各和)、六笠城(静岡県磐田市向笠竹之内)、三河国の岩小屋城(愛知県新城市門谷鳳来寺)、一宮砦(愛知県豊川市一宮町宮前)等の城を攻め落としたので、「武田信玄が死んで、早くも武田勢の兵力が弱まり、6つの城が、一度に攻め落とされた」と世に広まった。
天正2年1月5日、徳川家康は、正五位下に昇格した。
3月8日、次男・於義丸が生れた。後の越前中納言秀康卿(結城秀康)である。
武田信玄が子の武田四郎勝頼は、血気盛んな勇者であり、父を超えて万事にゆゆしく振舞っていたが、去年、長篠城を攻め取られたのを憤り、高天神城をすぐに攻めた。徳川家康は高天神城を救おうとして、織田信長に援軍を求めた。武田勝頼は、「徳川、織田両家の軍勢が後詰めに来る」と聞いて、城主・小笠原与八郎長善(または氏信)に「駿河国富士郡鸚鵡栖(おうむす。重須。静岡県富士宮市北山)に1万貫の土地を与えよう」と約束して降参させ、「引き続き浜松城を攻めよう」と、何度も遠江国へ侵攻し、9月には2万余人の軍勢にて天竜川まで兵を進めた。徳川方も浜松城から出陣して陣を敷くと、武田勝頼は「(篭城しないで出陣してくるとは)何か策があるのであろう」と思って引き返した。
天正3年2月頃(2月15日という)、鷹狩の道で、見た目がよく、只者ではない顔つきの少年を見た。徳川家康は「この少年の父親は、遠江国井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊直親といって、今川氏真の旗本であったが、今川氏真が奸臣・小野政次の讒言を信じ、誅殺したので、この少年は、三河国鳳来寺に預けられ、今は浜松の松下清景の養子になっている」と聞き、すぐに召抱えて育てた。後、次第に可愛がられ、井伊直政と名乗り、「国初佐命の功臣第一」と呼ばれたのは、この人である。
その頃、長篠城は、奥平九八郎貞昌が城主となって守っていた。武田勝頼は、徳川家臣・大岡弥四郎忠賀という者等を密かに調略して岡崎城を乗っ取ろうと企んでいたが、事が露見して、大岡等は皆、誅殺されたので、ますます怒り止む時なく、「長篠城を取り返そう」と、2万余騎で、すぐに長篠城を取り囲んだが、奥平貞昌は、これを防ぎ、長篠城は落ちなかった。徳川家康は「長篠城を救おう」と軍を出すと、織田信長も軍を出し、両軍合わせて7万2千人(実際は38000人という)で、5月18日、徳川家康は高松山(「八剣山」「八剣高松山」「弾正山」とも)に陣取り、織田信長は極楽寺山(愛知県新城市上平井字タイカ)に陣取った。20日の夜、酒井忠次の作戦により、鳶の巣山に築いた武田方の後陣「鳶ヶ巣山砦」を襲った。丁度、五月雨(梅雨)強く降りしきる夜に紛れての行軍で、豊川を浅瀬の「広瀬」で渡り、20日の明仄(ほのかあかるい曙)、敵(武田方)の寨(砦)に火を放って焼くと、同調して長篠城も城門を押し開き、奥平貞昌は、城兵を連れて切って出れ、前後から挟み撃ちにすると、武田勢は散り散りになって、鳶ヶ巣山砦を守る武田信玄の異母弟・河窪信実も討たれた。「保々祖父(ぼぼじい)砦、君が伏床(きみがふしど)砦、久間山(ひさまやま)砦等の敵(武田方)の砦を悉く襲撃せよ」と命令しておいて、織田信長は、徳川家康と作戦を突き合わせ、陣城の前に堀を掘り、(出てきた土で)土塁を築き、馬防柵を2重、3重に築き、鉄砲術に長けた熟練の者たちに鉄砲数千挺(3000丁)を撃たせた。血気に逸る武田勝頼は、夜中から軍勢を繰り出すのを見て、徳川家康の家臣・大久保忠世と大久保忠佐の兄弟は、「今日の戦は、当・徳川家が本隊、織田方は援軍であり、織田勢に遅れをとることは、我ら徳川軍にとっては、この上ない恥辱である」と話し合い、一緒に馬防柵の外に出た。武田方にも、山縣昌景、小幡貞政、小山田信茂、典厩信豊、馬場信房、その他、真山(真田?)、土屋昌続&直規、穴山信君、一条等の名のある武将が、入れ替わり、入れ替わりして馬防柵を破ろうと激しく戦ったが、徳川、織田両家の鉄砲隊に撃たれ、死体で塚が築ける程に殺されたので、勇みに勇む武田軍とはいえ、面向く様(正面から敵に向かっていく事)は無く、散々に破られて、武田信玄の時代から名を知られた山県昌景、内藤昌秀、土屋昌続&直規、真田信綱&昌輝、望月、小山田、小幡貞政等は、死にもの狂いで戦って討死した。馬場信春は、長篠の橋際に手勢20騎程まとめて、武田勝頼が落ち行きて、「大」の文字の小旗の影が見えなくなるまで見送ると、取って返し、一歩も引かず討死した。この時、高坂昌信(春日虎綱)は、海津城(信濃国埴科郡海津。現・長野県長野市松代町松代)にいたが、「武田勝頼は、血気盛んなので、大敗するだろう」と考え、(武田信玄が亡くなったとされる)駒場まで迎えに出て、武田勝頼を警護して甲府まで送り返した。
武田家では、この「長篠の戦い」で重臣の多くが討死したので、この時から武田軍の武威は大いに下がったという。この日、徳川、織田の両家に討ち取られた武田軍の首の数は13000余で、その内7000は徳川家が討ち取ったものである。また、味方の戦死者は、徳川、織田の両家合わせて60人弱であった。
松平信康も参陣した。父・徳川家康と共に諸軍を指揮する様子を見た武田勝頼は、大変驚き、帰国後、その家臣等に語ったのは、「今度、三河に信康という小冠者の洒落者が現れた。指揮の的確さといい、進退の鋭さといい、成長後が思いやられる」と舌を震わせたという。
また、奥平九八郎は六町にも足らない掻揚城(長篠城)に篭り、数万(15000人という)の大軍に囲まれながら、終に一度の不覚なく、徳川家康&織田信長の後詰め(援軍)を待って勝利したのは、「古今稀なる大功である」と織田信長より一字「信」を授けられ、これより「信昌」と名を改めた。(世には、「九八郎」は。初めは「貞昌」と名乗り、この時に、「信昌」と改名したとされている。しかし、「貞昌」は曾祖父と同じ諱である。奥平家の家伝には「定昌」と書いてあるという。)
よくある誤解。三河の国衆奥平氏の通字は、「貞」ではなく「定」。奥平定勝、定能などとなる。「貞能」なんかは、系図か軍記物のみで、当時の文書ではすべて「定能」。これは2010年代初めには明確に指摘されていた。要注意ですね。
奥平信昌の「信」は、武田から与えられたもの。天正3年以前に、「信昌」署名の発給文書あり。奥平家は、信昌を称揚すべく家伝を創作した。だって信長から一字を貰った、しかも亀姫も輿入れした特別な家となるから。
徳川家康からも「大般若長光」の刀(600貫の価値がある刀。「大般若経」が600巻なのでこう呼ばれる)に3000貫の所領を添えて与えた。また、奥平信昌の妻・於フウは、以前、武田家へ人質として出されていたが、(奥平氏が武田から徳川に寝返ると)武田勝頼は磔刑に処したという事であったので、今回、長女(「亀姫」と言う)を奥平信昌に与え、奥平信昌を聟とした。この婚姻も織田信長の強制だったと伝わる。織田信長は、「今から私は、美濃国に侵攻してきた武田軍の城を攻め取りに向かうので、徳川家康は駿河&遠江国を平定せよ」と約束して岐阜へ帰った。徳川家康は織田信長の居城・岐阜へ出向き、織田信長自ら援軍を率いて来てくれたことに感謝した。織田信長は、様々に饗応し(もてなし)、「長篠の戦い」で軍功をあげた家臣等へ被け物(かづけもの。褒美)をそこばく(たくさん)与えた。(これを「長篠の戦い」といい、「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦い」に続く第3の大戦とする。)
元亀も三年に天正とあらたまる。
信玄はいよいよ軍伍をとゝのへ、正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て、終に菅沼新八郎定盈城兵に代りて城を開渡すに及んて、たばかりてこれを生取しが、山家三方の人質にかへて、定盈ふたゝび帰ることを得たり。
この城攻の時、入道鉄砲の疵を蒙り、四月十二日信濃國波合にてはかなくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし、「今の世に信玄が如く弓矢を取まわすものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悦ばず。おしむべき事なり」と仰られしかば、これを聞もの、ますますその寛仁大度を感じ、御家人下が下まで「信玄が死はおしむべきなり」と御口真似をせしとぞ。
此弥生頃、信康君御甲冑はじめ有て、松平次郎右衛門重吉これをきせ奉る。さて、「御初陣の御出馬あるべし」とて、田嶺のうち武節の城を責給ふに、城兵旗色をみるよりも落うせ、足助の城兵も逃うせしかば、御初陣に二の城をおとし入給ひ「目度たし」とて御帰城あり。
やがて、酒井忠次、平岩七之助親吉を大将にて遠江國天方、三河の國可久輪、鳳来寺、六笠、一宮等の城々責おとす。「信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて、六か所の城、一時に攻ぬかれたり」と世にも謳歌したりける。
二年正月五日、君、正五位下にうつり給ふ。
三月八日、次郎君生れたまふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。
信玄が子の四郎勝頼、血気の勇者なりければ、父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが、去年長篠の城を攻とられしを憤り、高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて、信長の援軍をこわせ給ふ。勝頼、「徳川、織田両家の軍勢、後詰す」と聞て、城主・小笠原與八郎長善(また氏信)、「駿河の鸚鵡栖にて一萬貫の地を與へむ」とこしらへて降参せしめ、「引きつゞき浜松をせめん」と、しばしば遠州へはたらき、九月には二萬余の軍勢にて天竜川まで出張す。こなたも浜松より御出勢有て備をはらせたまへば、勝頼も「謀あり」と見て引返す。
三年二月頃、御鷹がりの道にて、姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる。「これは、遠州井伊谷の城主肥後守直親とて、今川が旗本なりしが、氏真、奸臣の讒を信じ、直親非命に死しければ、この兒、三州に漂泊し、松下源太郎といふものゝ子となりてある」よし聞召、直にめしてあつくはごくませられける。後、次第に寵任ありしが、井伊兵部少輔直政とて、「國初佐命の功臣第一」とよばれしはこの人なりき。
その頃、長篠の城は奥平九八郎に賜はりて是を守りけるに、勝頼は、當家の御家人・大賀弥四郎といへる者等を密にかたらひ、岡崎を乗とらんと謀りしも、その事あらはれて大賀等、皆誅せられしかば、ますます怒りやむ時なく、「長篠城をとりかへさん」と、二萬余騎にて取かこむ事、急なりとへども、九八郎、よくふせぎておとされず、君「これをすくわせたまはん」と軍を出したまへば、信長もこれをたすけて、両家の勢都合七萬二千にて、五月十八日。君は高松といふ所に御陣を立られ、信長は極楽寺山に陣せられしが、廿日の夜、酒井忠次が手だてにより、鳶の巣山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきる夜にまぎれて、廣瀬川を渡り、廿一日の明仄、敵寨に火をかけ焼立しに、長篠城よりも城門を押開き、九八郎、城兵を具して切て出、前後より掩り立れば、武田勢は散々になりて、信玄が弟・兵庫頭信實もうたれ、「祖父山、君が伏床、久間山等の敵の寨ども悉くなすべし」とて君と謀をあわせられ、備の前に堀をうがち、塁を築き、柵を二重、三重にかまへ、老練の輩をして鉄砲数千挺を打立しむ。血気の勝頼、夜中より勢をくり出すをみて、御家人・大久保七郎右衛門忠世、治右衛門忠佐兄弟、「今日の軍は當家は主戦、織田方は加勢なるに、織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからず」とかたらひ、一同に柵より外にすゝみいづ。武田方にも、山縣昌景、小幡上総貞政、小山田兵衛信茂、典厩信豊、馬場美濃信房、その外、眞山、土屋、穴山、一條等の名あるやから、入かわり、入れかわり柵を破らんと烈戦するといへども、両家の鉄砲きびしく打立て、人、塚を築くほど打殺せば、いさみにいさむ甲州勢も面むくべき様もなく、さんざんに破られて、さしも信玄が時より名をしられたる山縣、内藤、土屋、真田、望月、小山田、小幡などいへるもの、死に狂ひにたゝかひて討死す。馬場は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて、勝頼は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし、一足もひかず討死す。この時、高坂弾正昌信(父・虎綱)、海津の城を守りてありしが、勝頼、血気の勇にほこり、かならず大敗せん事を察し、勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。
武田が家にて老功の家人ども、この戦に数を尽して討死せしかば、是より甲州の武威は大に劣りしとぞ。この日、両家に討取首、一萬三千余級。その中にも七千は當家にて討取られしなり。又、味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ。
岡崎三郎君、この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて、勝頼も大に驚き、帰國の後、その家人等にかたりしは、「今度、三河には信康といふ小冠者のしやれもの出来り。指揮進退のするどさ、成長のゝち思ひやらるゝ」と舌をふるひしとぞ。
また、奥平九八郎六町にもたらざる掻揚にこもり、数萬の大軍にかこまれながら、終に一度の不覚なく後詰を待ち得て勝軍せしは、「古今稀なる大功なり」と信長より一字を授られ、これより「信昌」とあらためたり。(世には、「九八郎」はじめ「貞昌」といひしが、此時、「信昌」とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家伝には「定昌」と書しといふ。)君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又、信昌が妻は、そのかみ、武田が家へ質子としてありけるを、勝頼、磔にかけし事なれば、こたび、第一の姫君を(「亀姫」と申す)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。信長、「今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ、君は駿遠を平均し給ふべし」と約せられ帰陣あり。君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝したまふ。信長さまざま饗せられ、長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これをば「長篠の戦」とて、「大戦の三」とするなり。)
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