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卑弥呼の「鬼道」考


1.観点の違いにより諸説あり


名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆」(『魏志倭人伝』)
(名付けて卑弥呼という。鬼道を用いてよく人々を惑わす)

───「鬼道」とは何か?

諸説あります。

<「鬼道」の意味を考える観点>
①『魏志』の他の箇所で「鬼道」がどう使われているか考える。
②当時の日本人の宗教観=「神道」を「鬼道」と表現した。
③『魏志』の作者の宗教観=「儒教」にそぐわないものは全て「鬼道」。

卑弥呼の「鬼道」については幾つかの解釈がある。
●『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説
●神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。
●「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2.「鬼」の語源という観点から考えてみる。


 「鬼」の語源から「鬼道」の意味を考えてみる。
 もちろん、『魏志』の著者が、日本の「おに」の語源た意味を知っていて、卑弥呼の手法を「鬼道」と表現したとは思えないので、的外れな観点ではある。


 「鬼(おに)」の語源は、源順『倭名類聚抄』に次のように書かれている。

 四聲字苑云、鬼居偉反(和名、於爾)。
 或説云、隠字(音、於尓訛也)。鬼者隠、而不欲顯形。故俗呼曰隠也。人死魂神也。一云、呉人曰「鬼」、越人曰「畿。音蟣又祈反」。

源順『倭名類聚抄』

【現代語訳】『四声字苑』に、「鬼」の音は「居偉(ヲイ)」の反切(はんせつ)(和名は「於爾(おに)」)とある。
 ある説では、「隠(おん/おむ)」という字だという(この字の音が訛って「於爾(おに)」となった)。鬼は隠れ、そして、姿を現したがらない。だから俗に「隠」と呼ぶのである。死んだ人の魂、神である。
 また、呉の人は「鬼」と言い、越の人は「畿(キ)と言い、音の蟣(キ)は「又祈」の反切である」と言う。

【意訳】「鬼」の音読み(中国語)は「オニ」であり、呉や越では「キ」という。別説として「おに」は訓読み(日本語)で、姿を見せたがらないので「隠(おん/おむ)」と言っていたのが訛ったとする。「神」の語源も「隠身」であるから、同義と言ってよく、共に死んだ人の霊魂である。

このオニといへる詞は、和名抄によれば、隠(オム)といへる文字の音の転訛せるものにして、鬼物隠れて形を顕はすことを欲せず。故に俗に呼んで隠と曰ふ。人の死したる魂の神なりとせり。
『人神曰鬼』鬼、四聲字苑云、鬼居偉反(和名、於爾(オニ))。
 或説云、隠(オン)字、音、於尓訛也。鬼物隠而不欲顯形、故俗呼曰隠。人死魂神也。(和名抄)
之によればオニといへる名は、志那思想より来れるが如し。志那の鬼は。和訓栞に『死するに鬼といふ。唐山の俗の鬼といふは、平和の幽霊なり』といへるが如く、人の死魂神といへるものなれば、我が国の鬼とは少しくその趣を異にせるものなるに、この時代早く已に、漢字の伝来と共に志那思想を輸入し、オニといへる詞さへ出て来るに至れるが如し。
更に鬼をモノといへるも、上古時代よりなるが、これも亦志那思想に基づけるるが如し。史記、齊の悼惠王世家に、
魏勃少時、欲求見齋相曹参。家貧無以自通乃常獨早夜埽齊相舍人門外。相舍人怪之。以為物而伺之。(索隠曰桃氏曰物は怪物なり。)
物は怪物なりとせる、その物こそ実に鬼物なるなれ、万葉集四巻には、明らかに、鬼をモノと訓めり。
 天雲之、外従見、吾妹兒尓、心毛身副、縁西鬼尾
 アマクモノ ヨソニミシヨリ ワギモコニ ココロモミサヘ ヨリニシモノヲ
Reco注:天雲の外に見しより我妹子に心も身さへ寄りにしものを(『万葉集』547番歌)。)
付記 鬼を古くアシキモノと訓みしは、書紀神代巻に已に見る所なり。
 此用桃避鬼(アシキモノ)之緣也。
 吾欲令撥平葦原中国之邪鬼(アシキモノ)。

※石橋臥波『鬼』「鬼の起源

 上の講演会の講師の方は、「鬼」の語源は「隠れる」であり、「隠れる」とは「死ぬ」ということであるから、「鬼とは死者の霊魂である」と述べておられます。流れ的に「鬼道」とは、「死者の霊魂である鬼や神を使う(利用する)政治手法」という結論に至るまずですが、卑弥呼の「鬼道」を「日本の風土や日本の生活習慣に基づき、自然の中に神を見出すこと。光、水、火を主にした呪儀」と「五斗米道」の影響を受けた定義をされました。
 確かに、『魏志』の著者の頭には「道教(五斗米道)」があったと思いますが、この時代、日本に銅鏡、いや、道教(五斗米道)が伝来し、卑弥呼がマスターしてた?
 講演者の方の鬼道の定義は「もしかそたら『魏志』の作者はこう考えて『鬼道』と記述したのかも」という定義であり、卑弥呼が行った「鬼道」の定義とは異なると思われます。
 卑弥呼は「(太陽神に仕える)日巫女」であり、基本は「太陽信仰」であって、しいて言えば「天道」で、「鬼道による政治」とは、「方針が定まらない時は、太陽神のお告げを聞いて方針を決める政治」だと思います。

 天皇は、政を行っていて、困った時には祭祀王(皇后とか、娘)に相談したのです。すると祭祀王は、死んだ人の霊魂(先代の王や偉人の霊魂=神。天皇家なら皇祖神・天照大神)を呼び出して「お告げ」を聞くのです。
 卑弥呼の政治手法が「神のお告げで政治方針が決まること」(祭政一致)だと知った理性的な『魏志倭人伝』の作者は理解できず、野蛮な方法に思われたので、
「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆
(名付けて日巫女という。故人の霊を呼び出してはよく人々を惑わす)
と記したのかもしれません。
 著者が中国人ではなく、西洋人であれば、「デルフィの神託」を思ったはずです。

 デルポイ(古代ギリシア語: Δελφοι)は、古代ギリシアのポーキス地方にあった聖域。パルナッソス山のふもとにあるこの地は、古代ギリシア世界においては世界のへそ(中心)と信じられており、ポイボス・アポローンを祀る神殿で下される「デルポイの神託」で知られていた。古代デルポイの遺跡はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
 日本語では「デルフォイ」「デルファイ」と表記されることも多い。英語表記(Delphi)、フランス語表記(Delphes)や現代ギリシア語発音に基づく「デルフィ」も用いられる。遺跡の西にはデルフィの名をもつ集落があり、また遺跡を含む自治体の名前にもなっている。
デルフィの神託
 デルポイはギリシア最古の神託所の一つである。デルポイの神託はすでにギリシア神話の中にも登場し、人々の運命を左右する役割を演じる。デルポイの神託が登場する神話には、オイディプース伝説がある。神殿入口には、神託を聞きに来た者に対する3つの格言が刻まれていたとされる。
γνῶθι σεαυτόν(gnōthi seauton) - 「汝自身を知れ」
μηδὲν ἄγαν(mēden agan) - 「過剰の無」(過ぎたるは及ばざるがごとし、多くを求めるな、度を越すなかれ)
ἐγγύα πάρα δ᾽ ἄτη(engua para d' atē) - 「誓約と破滅は紙一重」(無理な誓いはするな)
 神がかりになったデルポイの巫女(ピューティアーやシビュッラ)によって謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。また時には賄賂を使って、デルポイの神託を左右する一種の情報戦もあったといわれる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 はい、現代人の私にも理解できません。

 「デルフィの神託」は、
①どちらともとれるあいまいなお告げをした。
②多くの情報が神殿に集まってきて、適切な指示を与えられた。
②賄賂をもらって依頼人の期待通りのお告げを与えた。
ってところかと。

 祭祀王の言葉は、神(霊魂)の言葉ではなく、祭祀王の親(神功皇后であれば息長宿禰王)の言葉でしょう。
 たとえば、仲哀天皇の心は「熊襲征伐」と決まっているのに、祭祀王・神功皇后の方から「熊襲征伐ではなく、新羅征伐だと神が言っている」と言われると、普通の天皇ならば戸惑います。でも仲哀天皇は違った。彼は(足柄山の神を殺したことで知られる日本武尊の子ですから)迷わず熊襲征伐に向かったのですが、息長氏のサポートを得られず、兵数不足で討たれました。
 祭祀王の親(息長宿禰王)の言葉は、「熊襲は山に住んでいて、ゲリラ戦を仕掛けてくるので、苦手。新羅であれば、息長一族をはじめ、住吉三神を祀る海人族が一団となって、船を出すなど、協力できます」ってことだったと思います。
 天皇は血筋がいいので、周囲の人に持ち上げられ、利用されます。そして、天皇自身には直属の軍隊は無く、お金も無いので、サポートが必要です。サポートしたのは実力のあるお金持ち。古代では息長氏のような豪族(皇后の親、祭祀王の家の家長)、奈良時代は祭祀王に代わって神仏のお告げをする寺社、平安時代は公家(藤原道長のような外祖父)、鎌倉時代は武士(征夷大将軍)、室町時代は武士(大名)、・・・。

※「神功皇后」は、「しんこうこうごう」ではなく、「じんぐうこうごう」と読みます。

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