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大樹寺

 徳川家康立志開運の寺・成道山松安院大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)を「いじゅじ」と読んでいますが、地元では「だいゅうじ」ですね。

「桶狭間の戦い」後、徳川家康が大樹寺に逃げ込んで祖先の墓の前で自殺しようとすると、大樹寺の13世住職・登誉上人が、「厭離穢土 欣求浄土」と言って、自殺を思い留めさせたというが、「桶狭間の戦い」の時の大樹寺の住職は、松平元康の書状(「大樹寺文書」)等からも、明らかに12世住職・進誉上人である。

「穢れたこの世を離れ、浄土へ行け」(松平元康)
「『穢れたこの世を、浄土にすることを目指せ』という意味だと登誉上人が言っておれました。まぁ、解釈はいろいろあるのでしょう」(榊原康政)

 大林寺(墓所)もしくは松應寺(火葬場)の父親の墓の前で自殺しようとせず、大樹寺に入ったのは、岡崎城がよく見えるから(ビスタライン上には高い建物を建てられないし、小学校の渡り廊下は地下道にしたので、今でもよく岡崎城が見える)であろう。数日間様子を見て、織田の追討軍が岡崎城を落とせば駿府に逃げ帰るし、そうでなければ岡崎城に帰還するチャンスである。(岡崎城の本丸には駿河衆、二の丸には岡崎衆がいた。)

 岡崎城に入った松平元康は、大樹寺に通って登誉上人に教えを受けたという。この時、大樹寺で学んでいた少年・榊原康政が気に入った。字が綺麗なので、右筆にしようと考えたという。

 徳川家康の遺言に「位牌は大樹寺に」とあったので、徳川家康以降の将軍の位牌は大樹寺にある。(位牌の高さは身長に合わせて作られている。)

松平親氏┬信広【松平郷】
    └信光【岩津】┬親長【岩津】
            └親忠【安祥】(大樹寺開基)…元康(家康)

 元和3年(1617年)8月15日、松平8代の墓の移葬や再建が行われた。

<大樹寺の松平家9代の墓>

①親氏【松平郷】:宝篋印塔。元和3年、信光明寺から移葬。
②泰親【松平郷】:宝篋印塔。元和3年、信光明寺から移葬。
③信光【岩津】 :宝篋印塔。元和3年、信光明寺から移葬。
④親忠【安祥①】:五輪塔。「奉再興五輪元和三暦南呂十五日」再建。
⑤長忠【安祥②】:五輪塔。「奉再興五輪元和三暦南呂十五日」再建。
⑥信忠【安祥③】:五輪塔。「奉再興五輪元和三暦南呂十五日」再建。
⑦清康【安祥④】:五輪塔。「奉再興五輪元和三暦南呂十五日」再建。
⑧広忠【安祥⑤】:無縫塔。「元和三暦南呂十五日」再建。
⑨家康【安祥⑥】:昭和44年4月。東照宮の宝塔形式。

 徳川家康は、駿府人質時代、父・松平広忠の8回忌に岡崎に帰ってきた。これを1983年NHK大河ドラマ『徳川家康』では、大樹寺にぽつんとある松平広忠の墓の前で、岡崎衆と涙の対面をしたと描いた。今回の『どうする家康』の徳川家康は、「この寺には歴代の墓がありますよね?」と登誉上人に聞いていた。知らないということは、松平広忠の8回忌に岡崎に帰ってきた時に行ったのは大林寺という設定なのであろう。実際、大林寺には松平広忠の8回忌に徳川家康が奉納した石が残っている。


・幼児期:法蔵寺
・尾張人質時代:万松寺
・駿河人質時代:臨済寺、清見寺、増善寺
・岡崎城主時代:大樹寺など

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